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杷木神社・磐井の残党を平定したという



当ブログに訪問される方のなかに、ルーツ調べをしていてヒットしたという方が
何人もいらっしゃいました。

自分の魂の遍歴(過去世)を知る事は癒しと浄化につながり、
肉体を造ったDNAの遍歴を知る事もまた癒しと浄化につながっていきます。

ルーツ調べをすると、先祖たちが過酷な人生を生き抜いて来たことが分かり、
感謝の念が生まれます。

「敵だ」と思い込んでいた人物や国が、自分の魂やルーツの中に見つかって、
憎むことの愚かしさを知らされます。

そういう点で、このブログ、精神世界の事も古代史のこともバランスよく
書き綴っていきたいなと思ったりしています。

さて、朝倉の神社、あと一つ残っていました。



杷木神社(1)
はきじんじゃ
磐井の残党を平定したという


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今回の朝倉の旅の一番の目的はこの神社だったのです。

――たしか「磐井」の文字が出てきたはず…。
そう思いながら福岡県神社誌をめくると、やはり、ありました。(訳します)

往昔は元上座郡上鄕十八ケ村の宗祠である。延喜式和名抄把伎鄕を例祭前の鎮祭区域とする。

第28代(附記継体天皇は第26代なり)継体天皇の御代以前の創始にして筑紫の磐井の残党、謀叛の際、官軍の勝利を祈願した由緒をもって、矢納めの式がある。

磐井残党平定の報賽として、朝廷より宇津志馬二匹、弓矢幣帛捧げられる。恒例の祭祀はこの時より始まったという。(大日本地誌所載)

なんと、この宮は「磐井の敵」が祈った宮なのです。
しかも、磐井の残党と戦っている!
(神社誌の表記は「筑紫の磐井が残黨」となっています)

磐井の乱は簡単には収まっていなかった!

八女地域の古墳が石人山古墳や岩戸山古墳以降も二代分ほど続いている点から、
磐井の根拠地が壊滅状態ではなかったのだなとは思っていたのですが、
思いがけない歴史がここに書かれていました。

磐井の子葛子は屯倉を差し出して、命乞いをしたのですが、その妃は殺されています。

これは、もうすぐ出す『宮地嶽神社と磐井の末裔たち』で詳述しますが、
葛子の子供が勝村・勝頼という名で、宮地嶽神社の祭神となっています。

磐井が殺されたあとも、九州王朝は簡単には滅ばず、
福津市と八女市の二極で統治が行われていたのではないかと推測していたのですが、
杷木神社の社伝から、その説が補強されるかもしれません。

この神社で祈った天皇軍は、「残党平定のお礼参り」をしているので、
磐井の残党軍が負けたことが分かります。

これが八女の前方後円墳の終焉の理由かもしれません。

神社誌にはさらに別伝が書かれているので、もう少し読み込んでみます。




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by lunabura | 2014-06-02 21:32 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(0)
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