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ひもろぎ逍遥

杷木神社 (2)磐井の弔い合戦は鎮圧された


杷木神社 (2)
磐井の弔い合戦は鎮圧された

杷木神社の古文書はキリシタン大名・大友宗麟によって焼かれてしまいましたが、
その直前に書かれた記録が残っていて、
『福岡県神社誌』に漢字だけの縁起が書かれていました。(・.・;)

万葉集のような書き方でした。
例のごとく、るな流の口語訳で紹介します。

筑前上座郡杷木大明神は鎮座の始めを知る人はいない。左の殿は伊弉諾尊、伊弉冊尊と伝え、右の殿は大己貴命、武𤭖槌命の四柱の御神を二社に崇め奉る。

そもそも人皇二十七代継体天皇(附記、継体天皇は第二十六代なり)の御宇に筑紫の磐井らが謀叛を企て、異国の御調物を奪い取る。

是により朝廷は勅旨を下し、麁鹿火大連(あらかひのおおむらじ)を将として、官軍は筑石に進発し、筑後国にて大連は磐井と相戦う。御井郡にて官軍は大いに利を得て終に磐井を討ち殺し、麁鹿火は凱陣した。

ところが磐井の残党青人ら土の蜘蛛餘類と力を合わせ、心を一つにし、豊前筑前の間に蜂起した。これによって大連は勅旨を下し、豊前国の企救長手、鷹羽金田麿、筑前国三笠郡の田中鷲丸田中男起(或る書に男立と云う)らに官符を伝えた。

 件(くだん)の人々は勅を奉り、官兵を引き連れて、両国に発向したが、残党らの勢いは盛んで、官軍は度々利を失った。

しかし、大将鷲丸が言った。
「上座郡には大己貴命、武𤭖槌命が御鎮座と聞く。かの御神の冥助を頼み申すのはどうだろうか、云々」
皆、同じ心だった。

 そこに池田の池と云う奇異の池があった。その池の汀に高棚を構え、真榊を立て、端で縄を曳き、大幣を捧げ、官軍の勝利を祈った。

是より鷲丸らの勢いが盛んになり、風が草を靡かすが如く、官兵は各々神助を受けた。是によって、青人土蜘蛛ら、ここかしこで滅亡し、西国立つるところ、平均す。

 天皇、大いに叡感御座し、鷲麿、男起、長手、金田丸に衣服、刀剣を賜り、杷木大明神にうつし、馬二匹、弓箭・幣帛を捧げた。即ち物部宿禰高古を祭主とし、朝敵退治の蟇目の射法を勤めた。尤恒の祭祀、是時より始まった、と云々。

維時大永二年壬午二月穀日
              神坂源大夫藤原貞家之を誌す
上手く訳せない所は元のままにしています。(+_+)

継体天皇の磐井討伐の理由は、縁起によると
異国の貢ぎ物を奪い取ったからとなっています。

これには大いに疑問があるのですが、今回のテーマはそれでなく、
縁起が伝える「磐井の残党の蜂起」です。
言いかえれば「弔い合戦」。

これは『日本書紀』には全く書かれていませんでした。
膨大な歴史を書いている本ですから、仕方ないといえば仕方ないのですが…。

御井郡の一戦ですべて終わったのではなかったのです。
全く想像していませんでした。

「磐井の残党青人ら土の蜘蛛餘類と力を合わせ」の所が実は訳が分からないのですが、
「磐井の残党は青人や土蜘蛛のたぐいと力を合わせ」と今の所、解釈しています。
青人とは目の蒼い氏族たちでしょうか。

さて、磐井の弔い合戦、蜂起した場所は「豊前筑前の間」。
戦場は磐井が負けた御井郡ではなく、豊前と筑前の間でした。

遠賀川流域でしょうか。
いろんな物部氏がいる所なので、分裂した可能性もあります。

麁鹿火の命を受けた「筑前から豊前にかけての武将たち」の名は
「豊前国の企救の長手、鷹羽の金田麿、筑前国三笠郡の田中鷲丸、田中男起」
と、具体的な名が記されています!

「企救」(きく)なら聞(企救)物部で、北九州市。

「鷹羽」は田川市。
「金田麿」という名前からは、田川郡川崎町の正八幡神社の田原麿や田麿の名前が
思い浮かびます。(ガイドブックは16番です)
景行天皇の時代から神功皇后、またのちのちの時代に掛けて当地を治めたのは田原氏

三笠郡は太宰府の近く。田中鷲丸、男起の田中姓は物部氏と思われます。
(みやま市に「田中物部神社」があります)

そうすると、麁鹿火は蜂起した場所を囲んだ所に住む物部氏や田原氏に命を下したと
考えられます。
「是によって、青人土蜘蛛ら、ここかしこで滅亡し、」とあるので、
磐井一族の蜂起は一か所ではなく、同時多発的になされた様子も伺えます。

そして、官軍は杷木神社の大己貴命と武𤭖槌命に祈願して戦勝し、
物部宿禰高古が祭主となっています。

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「大己貴命と武𤭖槌命」にかつて祈ったのは神功皇后でした。
官軍は神功皇后の祈願に倣ったのでしょう。
朝倉には大己貴神社以外にも古くから大己貴命が祀られていました。

磐井の弔い合戦…想像もしていなかったので、かなり驚いています。

これは葛子の時代のことでしょうか。
そうすると、葛子は妃を殺され、弔い合戦に負けて、
ついに糟屋の屯倉を献上することになったのでしょうか。








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Commented by 桜もち at 2017-04-21 22:51 x
糸田町誌に、
『鷹羽金田麻呂』の名前を確認しました。
糸田町宮床にある貴船神社の由緒に、『元正天皇七二二年(養老六年)鷹羽金田麻呂の勧請せし由緒古き神社…云々』とみえるのですが。
養老六年と云えば、隼人の乱の翌年ですよね。

しかし、この杷木神社の由緒の『刀剣』が気になるのです。
旧金田町の人見という所に神崎1号古墳(6世紀)が発掘されているのですが、出土物の中に『獅噛環柄大刀』があるのです。
金田町は合併して現在は福智町なので、福智町のHPに画像があります。現物は何処にあるのかを調べたら、来月5月16日から九博で展示されるようです。

金田町人見は日王山の麓で、鹿毛馬神籠石の西側になります。
Commented by 桜もち at 2017-04-21 23:01 x
すみません。
人見は鹿毛馬の『東側』でした。
Commented by lunabura at 2017-04-23 00:09
鷹羽金田麻呂の名が530年頃と722年に出てくるということは、名前は伝世かもしれませんね。
大刀の記事がどうしても見つかりませんでしたが、
要調査地域ですね。
いろいろとありがとうございます。
by lunabura | 2014-06-03 20:25 | (ハ行)神社 | Comments(3)

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