2014年 07月 30日
磯良の死
螺旋階段を登っているのか、降りているのか。
本格的にお籠り状態になりましたが、またもや新たな発見が。
あの磯良は大善寺玉垂宮(久留米市)で亡くなっていました。
そうすると、風浪宮(大川市)に磯良塚があるのも、本物の可能性が出てきました。
志賀島を経った8人の海士のうち、一人だけが志賀島に戻り、
残りの7人は大川市に定住したのですが、それが謎でした。
帰ろうと思えば帰れたのに。
風浪宮は国際港ではあったのですが、7人がみんな留まった謎。
そして、今日、大善寺玉垂宮を見直していて、藤大臣(玉垂命)がそこで亡くなったという記事を見つけて、
すべての謎が解けました。
阿部=藤。 阿部高麿・助麿は藤高麿・助麿とも書かれているので、
同じ宮地嶽神社の祭神なのですね。
その中央に座する阿部相丞(しょうじょう)。阿部大臣という立場の祭神です。
阿部=藤なら、藤大臣と書かれていても同じことだと、ようやく分かったのです。
実は、うすうす感じていたのは、磯良が神功皇后の招聘に応じたくなかった理由。
最初は豊玉姫の件があったのだろうと思っていたのですが、
阿部高麿・助麿が二人とも忌宮神社で討ち死にしていることから、
その父が阿部相丞ではないか、そしてそれは磯良か磯良の兄弟だろうと想像し始めていました。
で、思いがけず、大善寺玉垂宮の「藤大臣=玉垂命」という一文から、
磯良が国乳別命三潴に送り届けて高良山まで行き、戻る途中で客死ということが判明。
結論だけでは分からないと思いますが、宮地嶽神社の本と神功皇后の本を同時進行で書いた結果、
ミッシングリングは繋がったのです。
ここまで書いていたら、友人から電話。
「宮地嶽神社の古墳、入ったことありますか~?」
一瞬、訳が分からなくなってしまいました。
シンクロもここまで有り?
もちろんですね。
だって、その古墳の事、本に書いてるんだもん。
今日はその福津市に虹が掛かっていたというコメントも。
螺旋階段のように、あちこちに行きながらも、一つの方向に進んでいるのが分かりました。
歴史だから降りているんだろうか、それとも未来に登っているのだろうか。
3世紀と21世紀を行ったり来たりした一日でした。
大善寺玉垂宮
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「帰ろうと思ったら帰れたにも関わらず、大川に残った理由」
とても興味があります。
大川市活性化のヒントが、そこにありそうな気がします。
主体者は安曇族。
大川の家具は船に取り付ける棚から発展したと聞いています。
榎津は古代の世界地図に載っていたようです。
深く掘り下げることで新たな未来を描き出されますように。