2014年 08月 18日
筑紫西朝と大和東朝(3)倭の五王
筑紫西朝と大和東朝(3)
倭の五王
さて、真鍋は日本の歴史に二大勢力が対立する構造がある事について述べたあと、
次のように書いています。
このように二大勢力の対立は、かつての4,5世紀にも在ったはずで、これが大和東朝と筑紫西朝とも名付けるべき世相であった。4,5世紀、古墳時代、日本は西と東に朝廷があり、東は大和に、西は筑紫に
古事記、日本書紀には前者の事は詳細に記しても、後者の行動は関与せざる所なるが故に抹殺し、一方、唐土の史書には、後者の友好親善は詳録しても、前者は東夷以下に黙殺していた。
この二重構造が、とかく万世一系の思想を鼓吹した大日本史の主流に育成された国史観には、正統と異編以上に容喙(ようかい=口出し)されなかったのである。
その都があって、二大勢力となっていたと真鍋は言います。
いわゆる「倭」と「日本」のことでしょう。
記紀を書いた人は大和にいたので、筑紫の事情が分からず、触れなかった。
神功皇后の移動ルートからみても、
出産後から北九州に戻って行った一年は完全に省略されていたので、
日本書紀を書いた人は、筑紫から豊前に至る地理を全く知らなかったんだろうなと
思いました。
一方、中国の方は筑紫と交流していたので、大和の状況には関心なかった。
それを大和中心の万世一系としたために、
九州からみると違和感のある歴史になりました。
しかし、ほんの数十年までは、これに関して述べることが出来ない時代がありました。
私たちは、その曲げられた知識をそのまま学んでしまったので、
真実を取り戻すのに苦労することになりました。
こんな風に自由に一般人が研究できる時代になったのはほんの最近のことなんですね。
「筑紫の西朝」と「大和の東朝」
これを受け入れると、急に歴史がシンプルに見えてきました。
このブログは筑紫の歴史を明らかにすれば充分なんですね。
さて、続きを読みましょう。
卑弥呼・壱世(いよ)、讃、玲、斎、興、武を、神功皇后、応神、仁徳、履中反正、允恭安康、雄略の各帝に対比するから、日本書紀の年号の信憑性の論議が沸騰し、さらには移葬改葬の可能性を無視して陵墓の型式と内容の不一致の正否を顧慮せぬ事がさらに波紋を投げかけている。
ここは、一字も変えずに写しました。
真鍋の考えがよく出ているからです。
「卑弥呼+壱世」を「神功皇后」にした『日本書紀』に従うと、
倭の五王(讃、玲、斎、興、武)もまた、
神功皇后の末裔の天皇たちに当てはめないと困るわけですが、
この五王の兄弟関係と天皇家の兄弟関係が一致しないので、
かなり無理をした論が生まれています。
その結果、中国の歴史書が正しくて、『日本書紀』の年号は出鱈目だという説が生まれました。
(もちろん、出鱈目の部分もあるのですが…)
そうではなく、「中国の歴史書に書かれた倭」と「日本書紀に書かれた日本」の
それぞれの歴史を確立すればOKなんです。
また、古墳の年代の問題に関して。
近畿地方の巨大な古墳も『日本書紀』の年号と合わないので、
天皇陵の見直しが課題になっています。
しかし、墓は移したり、改葬したり出来るので、
古墳の型式だけで年代を決めることはできないという訳です。
これはよくあることですね。
私の実家も江戸時代からの墓を全部掘り上げて累代の墓にしたので、
平成の墓に江戸時代のものが入っています。
「墓が平成の型式だから、江戸時代の人のものではない。」
と言われたら、困っちゃいます。^^
そうすると、前回問題にしたNHKの説を検討すると、
平原遺跡の土壙墓の葬制を持つ卑弥呼たちが奈良に移動して土壙墓を作ったが、
後にその末裔が巨大な前方後円墳に作りなおした、
という考えも出来ますね。
でも、それだと数世代必要です。
やはり、一世代で土壙墓から前方後円墳に葬制を変えるのは無理じゃいと思うけどな。
さて、「倭の五王」が当ブログに初めて出てきました。
今年、宮地嶽神社で講演をしたとき、倭の五王について質問がありました。
その時は、「倭の五王という名前は存じていますが、それ以上の事は分かりません」
と答えました。
ホント、全く知らない世界です。
でも、倭の五王と天皇家は別物だという認識は持っています。
他に知っているのは、この五王の名を家系に持つ松野氏が存在することくらいです。
その系図がこれ。
そのルーツは呉王・夫差で、「孝昭天皇三年来朝住火国山門」という注があります。
火国山門は菊池。
菊池には薄野神社(一ツ目神社)とか、アイラトビカズラとかがありましたね。
(う~ん。ここで繋がったか)
一度行ったところなので、ぐっとイメージしやすくなりました。
呉王・夫差か…。
また調べないといけませんね。
安曇族が呉から来たと言ってましたし、
磐井の系譜とどうつながるのか、興味津々の世界になってきました。
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古田氏の説ですね。
私、あいにく御本を読んでいません。
筑紫舞と内野についての短編だけ読ませていただいています。
内野に関しては違う結論が出ました。(内考としてサイドバーから読めます)
二つしか読んでいない者が、古田氏の説を知っていますというのは無理です。
この記事に関しては「眞鍋大覺」の著書に関して確認作業をしています。
その点、ご了承くださいませ。
また御意見お待ちしています。