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水城に思う


「水城」って


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今日は、水城(みずき)に関するシンポジウムに行ってきました。
中国や朝鮮半島など東アジアの全体像から、水城を捕えようとする試みです。

白村江の戦いの時代を中心に講演があり、その時代の状況が描かれました。
中には、百済で禰軍(ねいぐん)という人の(兄弟の)墓碑が
発見されたというホットな情報も。
この人は百済が滅んだのち、中国の高官になり、太宰府にも二回派遣されたという人で、
墓碑にはかなりの文字数で当時のことが書かれています。

「水城」に関しては、
るなは真鍋の言う「ダムとしての水城」を検証したいなと思っています。

「磐井が蘇我稲目と共に灌漑のために作った」
「573年の台風で水城が決壊して箱崎まで濁流にのまれた」
「天智天皇は水城を疎水式に切り替える工事をした」
この疏水式の工事を『日本書紀』では「水城を作った」ということにしている訳です。

心ある人は、たった一年で1200mの大工事は出来ないと分かっています。
何人もの人が最後にささやくんですね。
「たった一年では」と。

しかし、公の講座を聞くと、水城を天智天皇が作った防衛施設とする観点しか存在していないようです。
このままでは、話はどんどん逸れて行くんだろうなと危惧しています。

太宰府で直接、暦法に携わった物部の末裔の話が世に出る事はあるのでしょうか。

さて、水城の再発掘は100年ぶりだそうです。

今回、土塁の頃に砂の層が発見され、上下の製造法が違う事が指摘されています。
友人が現地説明会で質問したけど、答えは無かったそうです。
また、一年で出来るのかという質問にも答えはなかったとか。
多分、だれも答えることはないでしょう。分かっているんですね。

また、途中に砂の層があります。
砂の層があれば、土塁は脆弱になります。
しかし、これは考えられた工法だとされています。

るなは、この「砂の層」こそ、573年の決壊跡ではないかと考えています。

また、新しいイラストを見ると、
土手の下に流れる木樋(水を流すもの)が複数描かれていました。
灌漑するためにコントロールしながら水を通した設備だなと思われます。

あるイラストには唐の大型船が水城に迫り、
水城を切って船を沈めるような戦術が書かれているものもあります。

が、海底の浅い博多湾を大型船は入港できず、
ましてや三笠川を遡上することはあり得ません。
川は小舟ですよね。
もし、水城を切れば洪水となり、肥沃な田畑が住民と共に失われてしまいます。
そんな亡国の戦術を為政者が取るでしょうか。

「防衛施設」説があっても構わないのですが、
戦術も一緒に提案してほしいな。

と、考えながら帰路に着きました。

サイドバーの「針摺の瀬戸と水城」は一部ですが講演の資料を載せています。

今日は、とりあえず感想だけ書いておきますね。



水城






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by lunabura | 2014-08-23 20:53 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(0)
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