2014年 08月 30日
水城現地説明会
水城現地説明会
今日は久し振りの天気に恵まれて、水城の現地説明会に行ってきました。
JR水城駅のすぐそばに、切断面があって、100年ぶりの発掘調査です。
駅から行くとこのように見えます。
手前が博多湾側です。
高さは14~5m。
その断面が露出しています。
灰色が問題の砂の層で、人と比較すると、2m近くあるのが分かります。
御笠川の砂です。
これが饅頭の餡をくるんだような形状になっているそうです。
(金太郎アメのような感じ?)
粘土と混じり合っていて洪水の跡ではないという話でした。
構造上不可解な場所です。
アンコのように中央だけ砂にするなら、どうやって構築したかという
問題も解決しなくてはならないでしょう。
洪水で決壊したとなると、一部だったでしょうから、
この位置が決壊していなければ、また別の所に求める必要があるでしょう。
これ以上は無理ですね。
一年で出来るのかという質問、やはり出ていました。
「文献上では」という答えでした。
たとえば、竣工してから完成するまで十年かかったとしても、
記録には完成した年を書くもんです。
天智天皇3年(664)に「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という」とあるそうです。
『日本書紀』のアバウトな書き方の癖からして、(ダイジェスト版の宿命)
この文を一年で作ったと解釈する必要はあるのかな…。
1・2キロの堤防。まっすぐ作ってますね。
畑で畝をつくると、ヒョゴヒョゴと曲がります。
測量だけでも、どのくらいの期間がかかったんだろう。
まっすぐですよ、まっすぐ。
とも思いながら。気持ちいのいい水城跡を一部ですが、一周しました。
太宰府側の傾斜を写しました。
すぐ下に家が建っていますが、水が出ていました。
家の辺りは貯水池として水が蓄えられていたことになります。
これをまっすぐ切れる所まで歩いていって、反対側に出ました。
今、博多湾側に立って、水城駅方面を向いて撮っています。
左の森が水城跡。
手前の土手もその延長ではありますが、削っているようです。
内倉氏の本に木樋が430年と出ていると書かれているそうです。
が、決して公では公表されないだろうと皆さんの噂です。
鴻臚館でも古いものが出ていますが、関連者の方が
「そんなの出ても公表しない」とはっきり言われた、とある人が憤慨。
水城の築造に当たって、一番下には木の枝や葉を敷き詰めています。
その状態から晩春から初夏にかけて伐採されて敷き詰められた事が分かっています。
その葉を炭素法で検査されるそうですが、公表されるかどうか分からない、
と聞いた人もいます。
真実が伝えられないなら残念な世界ですね。
複雑な思いで帰路につきました。
ちょっと辛口でした。
学芸員さんたちの笑顔の挨拶に癒されました。
ありがとうございました。
水城駅そば
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