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ひもろぎ逍遥

(5)古八幡 熊襲 大鷹小鷹

壱岐真根子と竹内宿禰の旅(5)

古八幡(石崎八幡・下の宮) 
熊襲 大鷹小鷹

次に戦ったのは、やはり神功皇后。


祠の右手に史蹟碑が立っていて、「景行天皇 神功皇后 行宮之遺跡」と彫られていました。

(5)古八幡 熊襲 大鷹小鷹_c0222861_2333586.jpg

ここは景行天皇、神功皇后と、続けて行宮が営まれた場所でした。


景行天皇は当地の八十女を滅ぼしたのですが、
景行天皇が去ったあと、熊襲が勢力を伸ばしてきたのでしょう。


前掲文の続きです。

六、神功皇后行宮趾
神功皇后は九年(※仲哀天皇九年と思われる)、武内宿禰以下を率い、筑後の山門村より杵島郡福母の石崎に着御され、熊襲の大鷹小鷹の凶賊を滅ぼすため、行宮を福母石崎の頂上にある大巌石の上に(即、古の八幡社の上方)営まれた。
おっと、こ、これは!
神功皇后は山門村から当地に来たとあります!!
ついに、裏付けが取れました ♪
何の裏付けかっちゅうと…。

3月25日に田油津姫を滅ぼした後、皇后軍は古有明海を横断し、
杵島郡、武雄市を通って松浦川へ抜けたのだろうという仮説です。
ま、さ、か。
ここにちゃんと書いてあったとは!!!

これで、堂々とこの地図が出せますね^^
(5)古八幡 熊襲 大鷹小鷹_c0222861_2058550.jpg




さて、神功皇后が平定したという大鷹小鷹の名前は他の資料には、
大鷹渠師(きょすい)小鷹渠師(師はママ)、あるいは大鷹タケル、小鷹タケルで出てきます。

この熊襲の大鷹小鷹の住処は「原田」と記録があって、八十女と比較すると、当地の北西部に書かれています。
八十女の後継ではないと思われます。

もともと、「熊襲の大鷹小鷹」と「土蜘蛛の八十女」の集落は
それぞれ微妙にバランスを取って共存していたのかも…。

ところが、八十女たちが景行天皇に滅ぼされたので、
大鷹小鷹が自然と拡大していった…そんなイメージを持ちました。

この付近の地形はリアス式なので、良い港が少なく、
「石崎の湊」とはどの勢力も押さえたい要衝だったんでしょうね。

勝った皇后の行宮(あんぐう)の場所も、この裏の丘の上と明記されています。


(5)古八幡 熊襲 大鷹小鷹_c0222861_23425852.jpg


続き。
安政の頃、大町の田中権六は石採りの為、一山を掘り崩したが、行宮の跡と思われる物は尚も残った。
其の一は御弓掛けの松。これは源平頃までは高さが十五丈もあったが今は無い。
其の二は田中の人夫が石櫃を掘り出したが、その石材は錬石で、神功皇后が八幡社に奉納されたもの。

其の三は兜山。これは武内宿禰が冑を脱いだ所ともいい、また神功皇后が御兜をこの丘に納めて鎮護とされた処ともいう。その後は南北五十間。今は蒲原文六氏の所有である。

所有者の名前まで書いてあって親切ですね…。
地元の人なら、場所が特定出来るんじゃないかな…。

出土した石櫃の石材「錬石」を調べましたが分かりませんでした。
製錬石の省略かなあ…。

そして、其の三に、武内宿禰の名前が出てきました。兜山があるそうです。
このあと、兜塚も紹介しますが、同じものかどうかは分かりません。

この戦いの目的は湊の争奪戦だったのでしょうか。
神功皇后は通りすがりなので、竹内宿禰たちが古有明海と玄海灘を結ぶ古代道の確保をするのが
目的だったのではないかと思われます。


(5)古八幡 熊襲 大鷹小鷹_c0222861_23374076.jpg

この石崎八幡に立つと目の前には警察署が建っています。

遺跡地図を見ると、その辺りに「百枚田」と書かれています。

この説明は大町町史から。
百枚田
神功皇后が熊襲一族を皆殺しにし、石崎の山に葬り、その時使われた剣を櫃に納めて埋め鎮護神とした。

すると不思議なことに、そばにあった大きな楠の木の節穴から水が流れ出した。そこで、天之狭田(おさだ)に形どった百枚の田を開いた。そして、石崎大明神の祭祀田とした。これを神功皇后の百枚田という。

これ、糸島で書いた「鉄の民と米の民」の話を思い出しますね。
大鷹小鷹たちは山に住んで、鉄などを生産していたのでしょうか。

大町町には炭住があったという話を聞いて、もしかしたら露天の石炭が採れるような、
熊襲には魅力的な土地だったのではないかと想像しました。
聞くと、近年の石炭は地下深くで採っていたそうです。

また、古川氏によると、海が引くにつれて田が形成されていき、
畔(あぜ)は四角ではなく、Uの字に作っていったので、魚のウロコのような丸い田が
次々に形成されていくのが当地の特徴だということでした。

神功皇后の百枚田も、ウロコ状に広がっていったのかも知れませんね。



兜塚跡
 神功皇后が原田地方の豪族を平定した時、武具、兜、刀剣などを収めたところ。明治三十年ごろ、天然石を積み立てた石櫃数個が発見された。その中に、金環、勾玉など多数あったという。


兜塚跡を探しました。
多分、これだろうという丘がありました。


先程の行宮跡とは違い、兜塚はさらに西にあります。
明治三十年に出土したものは所在不明だそうです。

「石櫃」という埋納法は壱岐対馬でも発見されていましたね。
(金印の記事の所で紹介しているかな…)
石の板で箱を作る方法で、石棺と違って小型です。


(5)古八幡 熊襲 大鷹小鷹_c0222861_23394155.jpg


この兜塚、多分ここだろうという話で、特定できませんでした。
今ならまだ、所有者から割り出して、場所が特定できそうですね。

ただ、この丘はブルドーザーが入っていて、もしかしたら消滅する運命かもしれません。
その前に、調査できないかなと思いました。
国の予算、九州に回してほしいですね。(´・ω・`)



ここからすぐ西に、竹内宿禰の居館の伝承がありました。(つづく)







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Commented by きよし at 2021-06-17 23:45 x
何かに、皇后は佐賀市の神園(佐賀駅の近く)の堀江神社に行ったって書いてありましたよ。名前の通り、ここは古代は海、海岸だったと思います◎
by lunabura | 2014-09-11 23:44 | 真根子と竹内宿禰 | Comments(1)

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