2014年 10月 13日
(13)山惣 真根子は殺されたのではないか
山惣 ふたたび
真根子は殺されたのではないか
山惣「やまそう」
この記事の時、「つづく」と書いていましたが、
いったん壱岐真根子の埋葬地・川古を紹介してようやく戻って来ました。
ここが武内宿禰の居館跡。山惣の辺りです。
これはその裏手。もともと丘陵地帯だったのを削ったそうです。
倭国の部族たちを束ねて、国の基盤を築いた武内宿禰の拠点は
現在、住宅地になっていました。
神社があったら、何らかの形で地形なり残ったかも知れませんね。
そう思った時、神社の歴史的価値を知りました。
伝承を後世に伝えるもことは、文化を伝えることになるんですね。
石碑一つでも立てていただけたらと思いました。
さて、真根子の死地はここか、山惣から歩いていける石崎八幡です。
読みづらいと思いますが、郷土の方が調べて残してくれた地図です。
オレンジが景行天皇の時代の伝承地。
緑が武内宿禰と神功皇后の時代の伝承地です。
赤線を引いている古八幡(石崎八幡)が景行天皇と神功皇后の行宮趾です。
ここに立った時、漠然とした疑問は確信と変化しました。
「壱岐真根子」は自害でなく、殺されているのではないか。
ただ、名誉のために、自害として伝えられている。
その発想の起点は私が追捕使ならどうする?というものでした。
武内宿禰をどうやって見つけ出す?
写真もなく、住所もない時代です。
しかし、探せば武内宿禰の拠点がみつかるかもしれない。
それがもともと武内宿禰の居館探しの動機でした。
1800年近い時空を超えて探査して、大町町山惣に辿りつきました。
暗殺者はノコノコと守りを固められた居館に攻め入るはずはない。
チャンスを待つ。
それは武内宿禰が外出した時。
それを狙って物陰から襲撃する。
これが自分が生き残って帰られる一番の方法だ。
そう思って石崎八幡から見回すと、格好の岬がありました。
それが再掲の写真です。道の向こうに見えている山はかつては岬でした。
そこに見張りを置いて、隠れて待つ。
都へ向かう行列の中の一番立派な衣装の大将を狙う。
これが一番の戦術だと思いました。
「あの山陰に隠れていたよね」
「そう。そして剣で二度刺された」
「壱岐真根子は武内宿禰のダミーとして活躍していた」
「だから、追捕使は間違って壱岐真根子を殺してしまった」
「真根子の名誉のために、自害したことにした」
「そうね。そんな感じね」
何だか怪しい巫女三人衆の見解はこうして一致したのでありました。^^
武内宿禰が山惣からたびたび石崎八幡で祈ったというのも、
八十女、大鷹小鷹、そして壱岐真根子の霊を鎮めるためだったのでしょう。
こののち『日本書紀』では、武内宿禰は応神天皇に会い、
甘美内宿禰と探湯(くがたち)をして勝ちます。
その勢いで甘美内宿禰を殺そうとしたら、応神天皇が引きとめて
母方・山下影媛の方の奴婢にさせます。
応神天皇って武内宿禰より甘美内宿禰の方に肩入れしてるんだね。
一方、佐賀の伝承では、壱岐真根子には子供がいました。
小経見躬(おふろみみ)と言います。
のちに朝廷より火の君に任ぜられたそうです。
そうすると火の君だった磐井の系譜にはつながっていくのでしょうか。
これまた興味深いところです。
以上、「真根子と竹内宿禰」シリーズは終了です。
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さて、この辺り古代の重要な湊があったためか、すごい話が残っていました。
それは百済王子の話です。
次回へ。
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ひと月余りの真値子と竹内宿禰シリーズ大変楽しく興味深く拝見させて頂きました。
ひとつひとつ現地に立つことで伝承や埋れていた資料さえもが引き寄せられ浮かび上がって対象があらわになっていく様子がとても鮮やかに記事になっていて、ついつい引き込まれてしまいました。
るなさんのブログを拝見してひと味違うなあ面白いなあと思うところは、誰の目線で物事を見るのか?という所です。それに依り記事が臨場感あふれるものとなりつい引き込まれてしまいます。
ひとつの事件を多角的俯瞰図で見る。そして登場人物たちは何を選択して行ったのか???
私達の祖先は何を大切にしてきたのかもわかる事なのだなあと思うこの頃。
竹内宿禰と銀杏 銀杏は水に浸けても歪みや反りが来ない木材だそうです。秋には沢山の実を付け薬効成分も有るとか。俎板や船の素材に使われるようです。
真根子、ひと月も掛かったんですね。
なんとか、最後までこぎつけました。
銀杏も、船材になるんですか。
楠と銀杏。
そしてムクノキ。
佐賀の巨木はどれも印象的でしたが、それが古代人の暮らしに直結していたんですね。
俎板、最近、木製がやっぱりいいなと思っていたところです。
銀杏ですね。
気をつけとこう。