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ひもろぎ逍遥

蘇我はどこ?


蘇我はどこ?

今日、メールで蘇我の場所の問い合わせがあったので、
ブログの方でお答えします。

Q 平群は早良区にありますが、蘇我または石川は何処にあるのでしょうか。

早良区(さわらく)は福岡市の西にあります。
平群は残っていますが、蘇我や石川の地名が残っていないんですね。

それでは、真鍋大覚の本から蘇我の記述を抜き出しましょう。

昔、祖先に「かひ」と「とひ」の二つの氏族があった。「かひ」とは夏至を元日とする氏族であり、「とひ」は冬至を元日とする氏族であった。(略)敏達帝12(583)年に百済の暦書を太宰府が編輯する頃から、万邦世界に普遍な暦法も必要になってくるところから、次第に両方併用の時代に移り変ってきた。

かすかな口伝ではあるが、平群氏は望旦夏至に固執し、曽我氏は朔旦冬至に改革したと説かれる。皇極帝4(645)年はまさに暦法の採否をめぐって中大兄皇子(619~672)の激烈な論争と対決が背景にあったことを心得なければならない。

「そが」は素娥と書き、月の東洋的異称であった。これに対して「へぐり」は平群と書き、月の西洋的異称であった。

和名鈔には筑前国早良郡の条に、まだ平群、蘇我の郷名が記録されているが、今はない。所は脇山であって、改名の由来は文書にはない。月を女人に事寄せる泰西の民族の伝統に「わき」なる異邦人の租界の古称を重ねて作り上げたものと古老は語っていた。『儺の国の星拾遺』p245

結論としては、「蘇我」の場所は福岡市早良区脇山です。

◆蘇我は脇山に改名した。
蘇我と言う地名が脇山に変わった事情は文書にはないけど、
古老の伝えでは、
「月を女人に事寄せる泰西の民族の伝統に「わき」なる異邦人の租界の古称を重ねて作り上げたもの」
となっています。

「ソガ」とは「月」。
「泰西」とは「西洋」。
「ワキ」とは「異邦人の租界」すなわち「外人居留地」。

「月を女人に事寄せる」とは、「月を見て女性をイメージする」。
世界には、月を男神とする民族と女神とする民族があり、
日本の場合、月読命を男神とするのが主流です。

以上から、蘇我氏は西洋から来た異邦人だったので、
その居留地という意味で「わき」と呼んだという解釈になりますね。

地図を見ると、山裾にあるので、「ワキ山」となったということでしょう。

◆皇極四年
「皇極帝4(645)年は、まさに暦法の採否をめぐって中大兄皇子(619~672)の激烈な論争と対決が背景にあった」
「皇極四年」とは、蘇我入鹿が殺された年です。
ウィキペディアより。
乙巳の変
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する(乙巳の変・大化の改新)。その翌日の6月14日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲った。日本史上初の譲位とされる。

中大兄皇子と蘇我氏の対立の原因に暦の採用があったと真鍋はいいます。

「曽我氏は朔旦冬至に改革したと説かれる」とあるのは、
「一年の始まりを冬至の新月の朝とする」太陰暦だったということです。

中大兄皇子はのちに太陽暦の鐘を太宰府で鳴らさせたということなので、
全体としては太陰暦と太陽暦の対立だったと解釈できます。

どの暦を採用するかということは、
それを担う一族が滅ぶかどうかという重大事で、
蘇我氏はこのために中大兄皇子に滅ぼされたということになります。

◆百済
あと一点。
上記の段には、ものすごく重大な内容がサラリと書かれています。

「敏達帝12(583)年に百済の暦書を太宰府が編輯する頃から、」
太宰府が百済の暦書を編集したというのです。
「天子は暦を配る」のですから、
百済は倭国の属国だったという意味になります。
重要すぎてビビってしまいそうです。

実際、先日、これを別の方のメールの返事に書きこんだら、
メールが消滅してしまった (^_^;)
今日は大丈夫かな…。

◆蘇我稲目
もう一か所、真鍋の本から。

稲目は伊儺面(いなめ)と書き、怡土郡と那珂郡の間に新開の土地を開いた業績を讃えられたのであって、継体帝21(527)年に出る筑紫国造磐井と共に雄略帝17(473)年の洪水を修めたのであるが、神埼の物部氏と那珂中臣氏の間に水利の紛争が昂じて欽明帝13(552)年の仏像を巡っての対立に及んだのである。『儺の国の星拾遺』p134

蘇我稲目は「怡土郡と那珂郡の間に新開の土地を開いた」とあります。
これが、先程の脇山でしょうか。

稲目は磐井の君と共に、洪水を治めて、水城の建造に関わっています。


脇山の神社を調べると、何か手掛かりがあるかも知れませんね。
すぐ近くの「横山神社」の祭神は分かりませんが、
ネットを見ると、背振神社の下宮だと書いてあります。

葵祭はもともと脊振山の祭だったのを、
中大兄皇子が京都でも行うようにしたそうですから、
脇山という場所はこれから、注目したい場所ですね。

以上、Aさんへのお返事です。
Aさん、あとの調査、よろしくお願いします^^
なお、質問の石川は情報を持ち合わせていません。

大伴武以に関しては、もう少しお待ちください。





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Commented by くじら at 2014-11-24 05:04 x
蘇我石川の墓石が、久留米市山本町の民家の庭にて、祀られているとの情報を、高良御子神社(王子宮)豊福政美総代から伺ったことがあります。多忙につき、現地調査は行っていません。
志賀海神社の案内板には、蘇我石川の墓は九州にあると書かれています。王子宮の地域はかつて、阿志岐とよばれ、高良玉垂宮の小祝 安曇氏の支配下にありました。
調べて頂けたら、幸いです。
Commented by きりん at 2014-11-25 15:26 x
脇山は、昭和天皇の即位の礼とも縁がありましたね。

昭和天皇の即位の礼は、1928年11月10日に執り行われ、
悠紀田は滋賀県野洲郡三上村、
主基田は福岡県早良郡脇山村から選ばれました。

この即位の礼と同日の11月10日が高倉健さんがお亡くなりになった日ですが、
大衆芸能の分野で文化勲章を受章した三俳優の御命日が、昭和天皇の即位の礼と同日という神掛かったご縁があるようです。

2009年11月10日、森繁久彌 さん
2012月11月10日、森光子 さん
2014年11月10日、高倉健 さん

お三方とも日本に於いて最高位の勲章を受けており、健さんが国民栄誉賞を受賞すれば(追贈受賞)、これまた3人共受賞ということになります。

きっと、皆様さらなる高みに昇って昭和天皇の元にいかれたのでしょうね。

森繁久彌 さん は、勾玉
森光子 さん は、鏡
高倉健 さん は、剣

という印象です。
Commented by lunabura at 2014-11-30 23:37
くじらさん、こんばんは。
昨日はお忙しい中ありがとうございました。

蘇我石川を調べると、二人いるようですね。
やはり、武内宿禰の子の事でしょうか。
蘇我氏の墓が、と、もう驚いてはいられませんね。
昨日、話をしながら、蘇我氏はかなりの土木関係の技術集団で、
秦氏よりも最新の技術を持って来たのかなと
考えました。
調査、誰か近郊の方、手を挙げてくださいませんかね。
Commented by lunabura at 2014-11-30 23:39
キリンさん、素敵なお話ですね!
本文の方で紹介させてください^^
Commented by dostoev at 2015-07-29 17:08
すみません、たまたま見つけた記事でしたが…。

>「敏達帝12(583)年に百済の暦書を太宰府が編輯する頃から、」

上記は恐らく「日本書紀」かと思って探しましたが、敏達12年を探ししたが見つける事が出来ませんでした。この記述は、どこに書かれたものでしょうか?

Commented by lunabura at 2015-07-29 20:53
これは『儺の国の星拾遺』からの引用です。
真鍋家は大宰府の天文暦官だったので、家伝を持っていたようです。
この本には正史には書かれていない歴史があちこちに書かれています。
ブログにお邪魔しますね。
Commented by dostoev at 2015-07-31 06:04
わざわざ連絡ありがとうございました。感謝いたしますm(_ _)m
Commented by lunabura at 2015-07-31 22:48
遠野の美しい星空。筑紫の星神の伝承が古代に届いているといいですね。
by lunabura | 2014-11-22 20:31 | <真鍋大覚儺の国の星> | Comments(8)

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