人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

ひもろぎ逍遥

(3)道真の遺言・「思ふ所」とは何だったのか


(3)道真の遺言
「思ふ所」とは何だったのか


太宰府天満宮の始まりは菅原道真が埋葬されたことからだという。
天満宮のHPを読んでみよう。

太宰府天満宮は、菅原道真(すがわらのみちざね)公の御墓所(ごぼしょ)の上にご社殿を造営し、その御神霊(おみたま)を永久にお祀りしている神社です。「学問・至誠(しせい)・厄除けの神様」として、日本全国はもとより広く世のご崇敬を集め、年間に約700万人の参拝者が訪れています。
成り立ち

道真公は、承和12年(845)に京都でお生まれになりました。幼少期より学問の才能を発揮され、努力を重ねられることで、一流の学者・政治家・文人としてご活躍なさいました。しかし、無実ながら政略により京都から大宰府に流され、延喜3年(903)2月25日、道真公はお住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、ご生涯を終えられました。

門弟であった味酒安行(うまさけ やすゆき)が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました。

延喜5年(905)、御墓所の上に祀廟(しびょう)が創建され、延喜19年(919)には勅命により立派なご社殿が建立されました。その後、道真公の無実が証明され、「天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)」という神様の御位を贈られ、「天神さま」と崇められるようになりました。

太宰府天満宮の本殿の地下に菅原道真は眠っているのだが、
ここに決めた理由は「牛が伏して動かなくなった」ためだという。


(3)道真の遺言・「思ふ所」とは何だったのか_c0222861_20181445.jpg

いったいこの牛は何処に連れて行かれようとしたのだろうか。
火葬場へと向かっていたのだろうか。


くるま座さんは興味深い資料を提示した。

それは「道真の遺言」と、「太宰府で亡くなった貴族たちの遺骨の取り扱い」
について書かれた記述のコピーだ。(出典不明)

『北野天神御伝』は延喜三年正月、道真が次の遺言をしたと伝える。

余見る、外国に死を得たらば、必ず骸骨を故郷に帰さんことを。思ふ所有に依りて、此事願はず。

大宰府をはじめ京の外で死去した中央貴族の遺骸は、骨送使の手によって都へ運ばせている。しかし、道真は「思ふ所」によって、あえてそのことを願わなかった。そして、遺言のとおりその遺骸は大宰府に葬られることになった。

当時は客死しても火葬されて遺骨となって自家に送られたらしい。
骨送使という官人までもいたということだ。
だから、道真が太宰府に埋葬されることは「当時の慣例を破った」ものだったのだ。

道真の辞世の詩の結びには「帰家」とあり、家に帰る事を切に望んだはずの道真が
あえて墓所を安楽寺に求めた。

いったい「思ふ所」とは何だったのか。
それは墓所とした太宰府天満宮の前身が「安楽寺」だということにその答えがある、
とくるま座さんは言う。

「ということは、安楽寺はもっと古くからあったの?」
「そう」とくるま座さん。


「牛が動かなくなった」という差し障りの無い縁起の背景に「隠されたものがある」
と解釈することに無理はない。


(3)道真の遺言・「思ふ所」とは何だったのか_c0222861_2018435.jpg

確かに、境内の志賀社の札には
「古代後期より中世にかけて海外貿易を行っていた安楽寺(太宰府天満宮)は海上安全の海の神として祀る。」
とあり、安楽寺が古くからあったような文面となっている。

これを見て真っ先に思い出したのは宮地嶽神社の宮司が言われた
「「安」「阿」が付くのは安曇族です」ということばだった。

太宰府天満宮の志賀社は綿津見の三神を祀っている。
ほかでもない、安曇族そのものが祀っている証しだ。

そうすると、「安楽寺」も安曇族の経営する寺だった可能性がある。
海外貿易を担える古代豪族は他には数少ない。

さらに突き詰めれば、ここは倭王朝の重要拠点だったと考えられる。

今、安曇磯良の話(第一回)を志賀島で話したところだが、
仲哀天皇と神功皇后を支えた二雄、竹内宿禰と安曇磯良の歴史上の扱いの差が
気になってしかたがない。

竹内宿禰の話をした直後だったので、その差は印象深かった。

竹内宿禰の名声は轟き、古代豪族がこぞって、我が祖先としているのに、
安曇磯良は名前どころか痕跡までも、すっかり消されているのだ。

両雄はそれぞれ「高良の神」(竹内宿禰)、「高良玉垂の命」(安曇磯良)という神名で祀られたが、
やはり後世には両神とも竹内宿禰に集約されていく。

だから、安曇磯良の名を消す必要があったのだと確信するに至った。
誰が消したのか?
それは倭王朝と日本王朝という二大勢力が日本王朝に収斂されている点に
ヒントがある。

唐突に出す名前だが、豊玉彦(豊玉姫の父)の影を私はずっと見ていた。

豊玉彦から安曇磯良へと続く安曇族こそが
倭王朝の主たる系統だと今は確信している。

安曇の子、イワレヒコ(神武天皇)の東征を母方として支援して来た安曇族だが、
この東征こそ、先々、安曇磯良の名を消す種を蒔いてしまうことになった。
東の地に日本王朝の芽が生じたからだ。

道真が「思ふ所」とは、何だったのか。
消えた倭王朝の残り香を伝えようとしたのだろうか。
その手掛かりを残すために、「骸骨を故郷に残さんことを願」わず、
ここに埋葬されることを願ったのだろうか。



地図 太宰府天満宮


いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
(3)道真の遺言・「思ふ所」とは何だったのか_c0222861_15184581.gif


Commented by わたつみ at 2014-12-20 18:11 x
なんだかワクワクするお話ですね。太宰府や菅原道真のこと改めて、知りたくなりました。くるま座さんのお話も興味深く、るなさんとくるま座さんのトーク対談聴きたくなりました。まずは、来年の志賀島公民館、楽しみにしています。
Commented by lunabura at 2014-12-20 23:21
私も、思いがけない展開になってる、と思ってしまいました。
くるま座さんは、春日駅そばの自然食のランチのお店です。昼をはずせばトークショー、全開です^^
志賀島で、お会いしましょう。
Commented by チェリー at 2019-03-27 01:30 x
lunaさん、こんばんは。
ご存知でしたらごめんなさい。不思議なお話を拾いましたので…
愛知県あま市に「甚目寺観音(じもくじかんのん)」があります。お寺のしおりの甚目寺誌略に、次のようなお話がありました。略して書きますと…

推古五年(西暦五九七年)のこと、龍麿という漁夫が、近くの入り江で魚をとっていたところ、網に黄金の聖観音像がかかり、歓喜した彼はお堂を建て、像を納めた。これが甚目寺の始まりといわれる。聖観音像は百済を経て日本に渡り、敏達十四年(西暦五八五年)に海中に投じられた三尊仏の一尊で、他の二尊もそれぞれ拾われ、阿弥陀仏は信州の善光寺に、勢至仏は九州太宰府の安楽寺にある。

善光寺縁起によると、信濃の本田善光という人が難波の堀江から出現した、光り輝く阿弥陀如来像を持ち帰り、お堂を建てたのが始まりだそうです。印度から百済を経て日本に渡り、奈良明日香の向原寺に蘇我稲目が祀っていた阿弥陀如来像だったそうです。ただ、善光寺縁起には、甚目寺観音も安楽寺も出てこないようです。

ひょっとして、安楽寺にも同様の縁起があったのかなぁ…と想像はするのですが、安曇族のお寺となると、また違ったお話かも…
善光寺縁起に印度の竜宮城が出てくるようですし、甚目寺観音のある「あま市」は少し前まで「海部郡」でしたし…

お話は変わりますけど、現政権が安曇族だとすると、間もなく発表の次の元号には「天」という字が使われるのでは?と想像したりしています…

※チェリーの文字をクリックすると、「甚目寺誌略」が開きます!



Commented by lunabura at 2019-03-28 16:57
面白い話ですね。
壮大な歴史が隠されているような。
「天」かどうかはあと数日で分かりますね(^_-)-☆
by lunabura | 2014-12-18 20:22 | (タ行)神社 | Comments(4)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25

by luna