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(1)宗像大菩薩とは男神だった


 
(1)宗像大菩薩とは男神だった


平安時代以降、歴史が絶えたという筑後の水沼族(みぬま)。
宗像では、いずこからかやって来たのか分からない宗像族
宗像市の宗像大社に関しては平安時代以前に遡る記録をまだ見つけていない。
両者には三女神を祀るという共通点がある。

ミヌマカタとムナカタ。多分これは同一氏族。
そんな仮説で、解決しなければならない問題が有る中に、「宗像大神」がありました。
それは福津市の縫殿神社に祀られる縫姫の兄媛を引き止めた神です。
この宗像大神はいったい誰だろう。


呉から連れて来たの縫い姫は四人いたのですが、宗像大神がどうしても一人置いていってほしいと言われたんですね。それで兄媛が福津に残ったのですが、この「宗像大神」とは誰なのか。
 これは応神天皇の時代の話です。すなわち神功皇后の御子の時代です。

そして、別件で「御長手」を調べていた時、『宗像大菩薩縁起』に、次のような文があることが分かりました。
「宗像大社の無形民俗文化財」 森弘子 より
http://www.okinoshima-heritage.jp/files/ReportDetail_22_file.pdf

「御長手」の起源について『宗像大菩薩御縁起』(以下『御縁起』)「強石(ごうせき)将軍(今宗像大菩薩)依神功皇后勅命三韓征伐事」14)の項に、次のように記されている。
神功皇后出兵の折、一人の老翁が「御長手」を捧げて出現し、自分は瑞穂国の帝であり、天照大神の御子である。これまで夷敵征伐7度の棟梁を務めた「高礒(たかいそ)強石(ごうせき)将軍である」と名乗った。強石将軍は今の宗像大菩薩である。

『御縁起』によると、宗像大菩薩とは高磯強石将軍という人物で、神功皇后の新羅の役に参加している男性でした。三女神ではなかったんですね。老翁の姿だし、天照大神の御子なので男神に間違いありません。

アマテラスの五人の子の名前は「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命」。この中の誰かということになります。でも、今日のテーマはこの中の誰なのかということでなく、ミヌマとムナカタに関しての考察でした。

引用文の先にはこんな文が載っていました。
武内大臣は赤白二流の旗を織り持ち、強石将軍(宗像大菩薩)の御手長19)に付け、これを軍の前陣に捧げて進んだ。軍が旗を指すことはこの時より始まった。

「武内大臣が紅白二流の旗を織り持」ったという話は織幡神社に出てきます。るなのお話会では毎回出てきますね(^_^;)

この紅白の旗を捧げて進んだのが強石将軍だというのです。


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宗像大社の「みあれ祭」紅白の旗がなびく

ガイドブックなら「4織幡神社」を見てね。そこに「この旗を戦の時に司った神を旗指大明神と言い、宗像市多禮(たれ)の指来(さしたり)神社に祀られているという」と紹介しています。

ここはまだ参拝していないのですが、捨て置けない伝承だったので本に書いておきました。どうやらこの神が宗像大菩薩だということになり、その拠点は宗像市多禮にあるということになりそうです。


ここまで考えていたところで急ぎのゲラ刷り校正が入って来て、この記事はストップしました。

そして本の校正のため、三女神を祀る久留米の赤司八幡神社の資料を見直していたとき、「宗形金己呂神」という名が出て来たのです。\(◎o◎)/!

この神は「キンコロ」と読むのでしょうか?「強石」と意味が通じそうな名前です。でも分からない。

分かるのは「宗形神」が筑後国に祀られていた。しかも数カ所もということ。
これは天慶二年(939年)、平安時代の記録です。これをどう解く?

平安時代の終わりごろ、筑後国では既に宗像神が各地に祀られていた。ということは水沼はすでに筑後で宗形に変化していた?

一方で、宗像には旗指大明神がいて、強石将軍と言い、のちに宗像大菩薩と称されるようになった。この一族が呉の縫い姫を留めた?

これらを時代的にどう解く?

「そうだね。今日は頭も働かないし、備忘録ということにしておこう。あとは訪問者諸君に解いてもらいたまえ。」 (-。-)y-゜゜゜
と、るな探偵は仰せになるのでした。

土地勘がある人でないと、多分さっぱり分からないテーマでした (+_+)
とりあえず、「宗像大菩薩とは男神なり」だけはクリア。



赤 宗像市 多禮   青 久留米市 赤司八幡神社




2015,02、27


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by lunabura | 2015-12-20 20:22 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(8)
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Commented by dostoev at 2015-03-01 16:39
私は、宗像氏が水沼君の祀る神を奪ったものかと思っていました。別に宇佐の祭祀を奪った大神氏も宗像氏の同族である事から、同じ様な事が起こったのかと。ところで、ある本を読んでいるとみあれ祭りの布は白い布だけ記されていたのですが、赤い布をたなびかせるのは知りませんでした。ただ、やはり同族の賀茂氏の秘祭みあれ祭りも、白布だけを使用するようですが、どうなのでしょう?
Commented by lunabura at 2015-03-01 20:07
こんばんは^^
宗像市宗像大社のみあれ祭は昭和37年に復興されたもので、正平23年(1368)の行事記録を参考にしたものだそうです。これに協力したのは宗像市のみならず、福津市を含めた七浦の漁業関係者です。
「みあれ祭」は「御長手神事」ともいい、神功皇后の時代に武内宿禰が織らせた紅白の旗を強石将軍が振ったことを起源とするようです。
で、神功皇后は筑紫に戻って来てから八本の白旗を各地に奉納したりしていて、赤旗の記述がみられません。私も気になっていたのですが、八本の白旗を宇美八幡宮で掲げたことが八幡と関わるようになったようです。
なお、運動会の時に紅白の布をポールに螺旋状に巻きつけますが、これが「長手」で、沖ノ島には伝わっていたそうです。
白布だけだということは、八幡信仰の影響が大だと考えていますが、それでは赤布はどこに行ったのか、気になっているところです。
Commented by dostoev at 2015-03-02 08:22
調べると、例えば滝などは白い布であり、神の依代であると。つまり、瀑布ですからね。瀑布は白ですが、赤はなんでしょう。

地元で縁結びの神に赤い布切れを左手だけで結び祀る風習があるんですが、左手は火を意味し、右手は水を意味する事から、これは水神に対して火を捧げ、陰陽の和合を果たすものとわかりました。だから、縁が結ばれる。熊野の那智の火祭りも、那智の瀧に対して火を掲げるのも、恐らく陰陽の和合を意図したものかと思います。ここでのみあれ祭りの赤布も、やはり火を意識したものでしょうかね?
Commented by lunabura at 2015-03-02 20:15
『古事記』をドイツ語訳した木下祝夫によると、赤と白は北欧神話に由来があるようです。また、「遠野物語」さんがおっしゃる通り、陰陽の和合の寸前の状態をさすこともあるようです。引用が長いので、記事にしてみますね。
出版と講演が重なってしまったので、記事書きは少し先になります。(^_^;)
Commented by チェリー at 2015-04-11 22:58 x
lunaさんのおかげで「指来神社」を知るきっかけができました。いつもありがとうございます。
ここから 筑後国一宮「高良大社」のシリーズを始めました。
すっごくお暇な時に御覧くださいね!
Commented by lunabura at 2015-04-12 23:40
チェリーさん、こんばんは。
指来神社は孔大寺神社と書かれているのですか?
それなら山頂まで登ったこともあります。
合祀のようす、地元の方でないと解読できないですね (^_^;)
チェリーさんの調査が終わって、改めて参拝してみようなかな。
Commented by HIKO at 2015-12-24 15:53 x
私の実家の近所(うきは市東方)に市杵島姫神がお祀りされた小さな神社があります。「印鑰社」と扁額がかかっており、朝倉の福成神社と一緒なんですよね。筑後に宗像神?と不思議に思いました。
Commented by lunabura at 2015-12-24 22:58
印鑰社と市杵島姫との組み合わせですか。
古代には重要な場所だった感じがしますね。
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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