2015年 04月 09日
(8)姫古曾神社・祭神は何故、市杵島姫なのか1
姫古曾神社
祭神は何故、市杵島姫なのか1
さて基肆国を終わりにする予定でしたが、くじらさんからのコメントで、当地の大まかなイメージがつかめたので、もうひと踏ん張りしてみようと思います。
それは姫古曾神社の祭神が何故、市杵島姫なのか、というテーマです。
まず、くじらさんのコメントは次のようなものでした。
「柚比弥生遺跡群は、紀元前後に最盛期を迎えた後、倭国大乱の時代に、急速にその規模を縮小している事が、遺跡の発掘調査からわかっています。(鳥栖市史 古代編より)
あたかも集団で何処かに移動したかのように。
磐井の乱平定後に、再び、活況を迎えますが、その後は徐々に、養父方面に中心を移している事が伺えるそうです。
養父には、筑紫肥君の館が置かれていたと比定されていることからも、この地域が古代から続く重要な拠点であったと、推測されます。」
「最盛期を迎えたこのクニが、急速にその規模を縮小するのは、物部氏祖神 饒速日命の東遷に従ったからだと考えられます。西暦200年頃には、残留勢力が残るのみとなっていたと遺跡の規模の推移図は語っています。(鳥栖市史 古代編)
紀伊国造莵道彦の娘、影媛を祀る竈門神社(玉母宮)一帯から、小郡、三根にかけて、ひとつの同族が支配するクニが存在した可能性を考えています。」
るな
「なるほど。福岡県と佐賀県の地図で見ると、玉母宮から三根まで、水沼国と川を挟んで拮抗するクニが見えてきますね。神埼もまた物部がいたということなので、範囲はさらに広がるかもしれません。」
以上がやりとりの一部です。
現在「弥生が丘」となっている「柚比弥生遺跡群」の規模の変遷から、集団的な移動があったことが推定されています。また、それを含むクニ全体は小郡市の媛社(ひめこそ)神社も含んだエリアが想定されています。
地図を見ると、姫古曾神社(鳥栖市)と媛社神社(小郡市)の距離は2.8キロ。徒歩40分ほど。ほぼ東西に位置していて、意外に近いです。
媛社神社(小郡市)から真北4キロの所に竈門神社があり、そこは山下影媛の墓所と伝えられています。この三社は宝満川の西にあり、その三角形の中にあの御勢大霊石神社や小郡官衙遺跡が含まれます。
小郡市の媛社神社には「磐船神社・棚機神社」の鳥居もあるので、物部氏の存在が伺えます。
県がまたがっているのでイメージが掴めなかったのですが、古代史を理解するには両県を含むような新たな地図が必要ですね。
山下影媛に関しては、男の子を出産すると乳母に物部夫人を迎えます。物部氏と絶対的な信頼関係があった証しです。この男の子こそ竹内宿禰です。
竹内宿禰が軍隊を組織し、天皇軍も指揮できたのも、この辺りを調べていくとさらに具体的な姿が描き出せそうです。
こうしてみると、この地域には地方豪族(山下影媛の実家)と武雄心の一族と物部氏、さらに青銅工人集団などが協調関係にあったことが分かります。
このようなエリアに市杵島姫が媛社神として祀られているのが姫古曾神社なのです。
(つづく)
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本の出版もいよいよ迫ってきましたね!ドキドキです♪
姫古曾神社は行ったこともないですし、関係ない私事ですが、ただいま頭の中でひしめき合ってるのが『市杵島姫』『ニギハヤヒ』『玉祖命』だったので、おー、凄い偶然!!
着地点は違うのでしょうが、面白いなあと思っとります(>_<)
何処に営業に来てくれるのでしょう~(>_<)
大きくてもガッカリな店もありますしね(爆)
市杵島姫とニギハヤヒ!
そうなんですよ~(。>д<)何気に縁がありますよね♪
私的には玉祖命の別名がニギハヤヒにも縁があるとかないとかとか、玉祖命の名がニニギのお供だけではなくニギハヤヒのお供にも名を連ねてるとかとか、市杵島姫がニニギのお供になってるとかグチャグチャな中に何かの共通点があるような無いような。
少しでもスッキリしたら私もアップしますね~(>_<)
今夜、眠くなかったらUPしますが、まぶたが… (^_^;)
結局、原典を見ないと確かな事は言えませんね (^_^;)