2015年 05月 16日
「炎のピラミッド」(7)阿蘇神社
阿蘇神社
国造神社から阿蘇神社へ向かいました。
これは国造神社を出た所から撮った写真です。正面に阿蘇五岳の高岳がなだらかな稜線を見せています。
国造神社と阿蘇神社と高岳が一直線に並ぶそうなので、理屈上では、ひたすらあの高岳に向かえばよいことになります。
どちらもカルデラ湖の跡にあるので、移動は楽です。
阿蘇神社に着くと、正面の駐車場が満車のために右手にある2番駐車場に案内されました。そこから入ると大鳥居があり、何と正面に高岳が見えたのです。\(◎o◎)/!
これには驚きました。もし正面の駐車場に留めていたら気づかずに終わった光景です。
この阿蘇神社の参道は横参道。つまり左右から入る様式になっていました。横参道は宇佐でよく見かけましたね。
阿蘇神社のアプローチが特殊に感じたのは横参道のせいでした。
写真の右手から楼門をくぐると、すぐに本殿なのです。
この宮は速瓶玉命が父の健磐龍命と母の阿蘇都比咩命を祀ったのが始まりだそうです。
速瓶玉命は前回の国造神社の御祭神でした。
今ごろ気が付いたのですが、国造神社は夫婦と子供二人の四人家族が一緒に祀られていたんです。
そして、夫の速瓶玉命が自分の両親をここに祀ったことになります。
偶然ですが、両神社(母と子)、国造神社(父と母と子)、阿蘇神社(祖父母と父)と先祖に遡りながら参拝したことになります。
神系図が少しずつ理解出来てきました。
国造神社は両親を祀る阿蘇神社と高岳をいつも見ていることになる訳ですね。かなり意図的な配置を感じます。
さて、今回のテーマの境内の形ですが、阿蘇神社の場合は神域の形が挙げられていました。大きな長方形の後ろに小さな長方形がくっついている形です。この二つの長方形を足すと内側面積が1.592㎡となるそうです。1592mは高岳の高さでしたね。
裏手に回ると長方形がくっついた形が伺えます。
しかも、真後ろの石垣の長さ(内のり?)が15.92mだそうです \(◎o◎)/!
まだまだラインはあるのですが、今日はここまで。
御祭神の建磐龍命の御神陵。神武天皇の孫にあたります。
妃の阿蘇都姫の御神陵です。
阿蘇宮司家は天皇家と深い関わりがあるのが分かりました。
さて、いただいたコメントに返事が間に合っていません。少しお待ちくださいませ。
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「阿蘇神社」は、なんと、「金立山」から 120.02°と出ました!ということは、徐福との関連がうかがえるんですが…
とてもよさそうなラインなんですけどぉ…
「地図でつなぐ聖地の旅 筑前国一宮「筥崎宮」(1)九州王朝 その25」に地図を載せてありますので、チラッと見るだけにしてくださいね。
ところで、水城が防衛のための堤じゃないとしたら、何か信仰の為なのでしょうか?これって普通、太宰府側に池ができるんですよね?昔から不思議だなぁと思ってましたけど…
堤を真っ直ぐ伸ばすと「背振山」になるんですけど、偶然かなぁ…
真鍋の伝えによると、筑紫君磐井が瀦水塘として造ったといいます。いわゆるダムです。そして直線構造なもんだから当然決壊してしまいます。私は磐井の失政だと思っています。
脊振山のライン上にあるなら、脊振山を見ながら測量したのかも知れませんね。陸峡の狭い地点を選んだのは分かりますが、その地点を決定するだけでもかなりの年月が掛かったのではないかと現地で思いました。どうしてあの地点だったのか。それが測量の引照点と関わるなら納得です。
「針摺の瀬戸」の所で水城のことも触れているので、サイドバーからも見れますが、簡単に読めるように、次の日付に出し直しますね。よかったらご覧ください。
言い換えると、この調査結果が出る前は「水城は何のために作られたか分からない」時代だったんです。もちろん真鍋大覚さんも。
水城の製作には百済からの亡命者がもたらした技術が使われていて、太宰府側から堤の下に通したトイを通して堀に水をためる構造になっています(出土しています)。
また、御笠川字体をせき止める事は出来ないので、川を通す所は厳重な柵がありました。
物凄い大工事の様に思われますが、基本は堀を掘ってその土を積む、堤の前後の土を積み上げる。構造なので突貫工事で進められます。
時代が下って羽柴秀吉の高松城水攻めの時は、水城よりも10倍長く高さも同規模の堤がわずか2週間で完成しています。
水城本体とは別に、左右に小水城とも言うべき防壁が作られていました。これは背振の方から流れてくる丘陵地と大城山から来る尾根とを接続して防衛ラインを形作るものです。
土地勘があられるので、是非とも眞鍋大覺の研究、ご一緒しませんか♪
せっかく真鍋先生以外の情報も世の中には転がっているのに、聖典の様に扱われて、正しい事が前提でその他のデータによる検証があまりされてないのかな、勿体ないなと感じたのでコメントさせて頂きました。
元々は縄文海進の事を調べていて(ここ1万年の中で最も海抜が高かった時代は縄文時代の前半。現在より約3メートル前後海岸線が内陸に入っていた事が北部九州だけでも百か所以上のボーリング調査で判明しています)、たまたま有明海と博多湾が潮の流れで~と言う壮大な話を目にして色々つつかせてもらいました。阿蘇4噴火の話も踏まえて、もしかした数十万年前は確実にあったかもしれない地質上の出来事が、つい2千年前の事のように語られているので違和感を覚えた次第です。
私が絡んだことによって少し荒れさせたみたいですので、以後自粛させて頂きます。