2015年 06月 09日
佐賀東部(16)東山古墳(吉野ヶ里町)
磐井の時代を生きた被葬者
久し振りに佐賀に戻って来ました。このシリーズは鳥栖から始まって、西へ西へと移動する旅ですが、今回は吉野ヶ里町です。
前回の高柳古墳から西へわずか1500m。長崎自動車道の東脊振インターより東へ1000m。
工業団地の奥の山に東山古墳はありました。吉野ヶ里町下石動(しもいしなり)地区です。
外観はこんな風。茶畑の奥の森です。
円墳が開口しています。
正面です。天井石が大きいです! 袖石が奥に見えていますね。手前に土砂が入りこんでいます。
古墳探訪は帽子が必要です。何故なら、土砂が隙間からボトリと落ちて来るからです。
福津市の宮地嶽古墳の石室が一メートル近く土砂で埋もれていたのも、こんな風にポタリポタリと1000年近くも蓄積したんだな、と妙な所で納得。
こだわりの奥壁!どんな古墳も奥壁が立派ですが、ここも選(え)りに選(え)ってますね。古墳造営者のこだわりがビンビンと伝わってきます。
さて、立派な説明板がありました。
東山古墳(町史跡 昭和51年3月8日指定)
この古墳は、下石動地区にある石動(いしなり)二本松古墳群の中の一基です。花崗岩の自然石を用いた横穴式石室を内部主体とした円墳で五世紀後半から六世紀初頭にかけて、この地帯を支配した豪族の墳墓です。
墳丘の規模は直径15.3m、高さ4.5mです。石室は主軸の長さが、7.8mの複式構造の横穴式石室です。石室の奥壁などには巨石が使われています。石室の壁は持送(もちおくり)構造となっています。昭和50年3月に一部調査がおこなわれ、石室の内部から鉄鏃や須恵器の副葬品が発見されました。
平成25年2月 吉野ヶ里町教育委員会
これが持送(もちおくり)?丁寧な造りです。
説明板には、この古墳は「5世紀後半から6世紀初頭にかけて、この地帯を支配した豪族の墳墓」とあります。築造はそのあと、少しずれる?(文脈の解釈はこれでいい?)
被葬者がこの時代に生きていたとすると、筑紫君磐井の人生と重なることになります。磐井の君は「火の国」も治めたので、ここ肥前国の豪族はその支配下にあったということになります。
この古墳から東南に3キロ歩くと吉野ヶ里遺跡に着いてしまいます。この東山古墳は視界が利きませんが、木が無ければ遺跡が見えるはずです。
吉野ヶ里は3世紀末に終焉を迎えます。(3)油比本村遺跡も同じ頃に終わります。
佐賀平野ではその頃いったい何が起こったのでしょうか。
そして、空っぽになった吉野ヶ里に新たな古墳を造営した集団は?
弥生から古墳時代へと興味深い歴史が明らかにされる日を待っているようです。
吉野ヶ里町 東山古墳
(地図表記でも見られます)
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