2015年 06月 10日
佐賀(17)田手神社・天智帝は向津姫を畏れた
田手神社
たで
天智帝は向津姫を畏れた
ここは吉野ヶ里町。
吉野ヶ里遺跡からわずか200m南。遺跡からは国道34号線を隔てた所に田手神社は鎮座しています。地図を見ると、かつては吉野ヶ里のクニの一部だったのではないかと思われるほど近いです。
今回の旅の目的地にこの神社を是非入れてくださいとお願いしました。
何故ならば、ここには撞賢木厳之御魂向津媛命(つきさかき・いつのみたま・むかつひめ)が祀られているからです。
しかも、祀ったのは天智天皇だというのです。あるいは斉明天皇とも。
何故天智天皇あるいは斉明天皇がこの女神を祀ったのか。
ブログの長い読者はお分かりですね。
この向津媛こそ、仲哀天皇に死をもたらした神々の筆頭だったからです。
それから400年以上も経っているのに、再びあの悪夢が再現されようとしていました。
母の斉明天皇が死の床に伏しました。新羅と戦おうとするさなかに。
仲哀天皇もまた新羅と戦おうとするさなかに崩御したのです。
天智帝は母を黄泉の国に迎えないようにと橘朝倉広庭宮の端にイザナミ命を祀りました。何故なら、この女神は黄泉の国へ人を連れて行く誓いを立てた神だったからです。
また、橘朝倉広庭宮のそばの朝闇(あさくら)神社を祀ったはずです。何故なら、ここに祀られている高木の神は羽白熊鷲戦の時、仲哀天皇に祟った神だったからです。
(神功皇后伝承を歩く上巻 御勢大霊石神社 隼鷹神社参照)
これだけでは足りなかった。
あの向津媛もまた祀らねばならない神でした。
そう、神功皇后が小山田斎宮で仲哀天皇に祟った神を訪ねた時、名乗りを挙げた神だったからです。
(同 小山田斎宮)
新羅との戦いを目前として亡くなろうとしている斉明天皇の状況は、突然崩御した仲哀天皇の状況とそっくりでした。
向津媛は筑紫での別名は何だろう、と思いながらずっと調べていましたが、筑紫では天照大御神としていました。
そう。
向津媛はアマテラスの荒御魂なんですね。そして、瀬織津媛ともいわれる。
何故、朝倉から離れた所に天智天皇は向津媛を祀ったのでしょうか。
船で行けば行けるところではあるのですが。
ここには既に向津媛が祀られていたと考えるのが自然です。
朝倉から船を仕立てて祭祀をしたのでしょう。
この地から東、綾部八幡神社は武器の供給地でした。
その把握も兼ねていたかもしれません。
綾部八幡神社の起源と関わる603年の新羅戦の時もまた、未然に来目皇子が急死しています。
並べると、仲哀天皇、来目皇子、斉明天皇、と三人が新羅と戦う前に国内で急死するという変事が続いていました。
新羅戦というのは、不吉な死と重ね合わせられたはずです。
天智天皇は祟りを畏れて祀ったのでしょう。我が手で人を殺(あや)めた罪にもおののきながら。
拝殿から土手に出ると神社は田手川沿いに建っていました。
この上流には吉野ヶ里遺跡があり、田手川はその中を流れてここを下っていきます。
ここは弥生時代にも、湾入していた有明海から陸に上がる湊だったのかも知れません。
何故、向津媛がここに祀られているのでしょうか。
向津媛が瀬織津姫なら、禊祓いの神として祀られていた可能性があります。
以下は祝詞から。
天つ神は天の岩戸を開いて祓い清め、国つ神は高い山から低い山まで祓い清め、風の神があまねく吹き渡って、残っている罪穢れはないかと祓い清め、早川の瀬にいる瀬織津姫がそれを大海原に持ち出して、大海原にいるハヤアキツ姫が呑み込んでくれる。
そう、川が海に流れ込むような所に瀬織津姫はいるんですね。
思えば、瀬織津媛を祀る福津の波折神社も、宗像の皐月宮も、同じように海の側の川のほとりにありました。
田手神社は今は平野の中にありますが、古代、有明海が迫っていた時代に祀り始められたのでしょう。
そして、「我が罪を祓い清め給え。母を助けたまえ」と中大兄皇子は祈ったのでしょう。
田手神社
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