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ひもろぎ逍遥

佐賀(24)吉野ヶ里にて・「天祝」と「ひふり・かふり」と「神の宮居」

佐賀東部神社と古墳(24)

吉野ヶ里にて

「天祝」と「ひふり・かふり」と「神の宮居」





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西暦300年3月22日00:20
前回の南十字星を拡大しました。斜めになっているのが良く分かります。

南十字星がちょうど普賢岳に掛かっています。

Tatsuさんから、この南十字星の動き方についての説明が入りました。

風早星・・・和名の表現は素晴らしいです。西暦300年頃、夜8時半頃に南南東に現れた風早星は水平線近くを滑るように西へ進み、深夜2時半頃に南南西に消えます。

風を帆に一杯に受けて漆黒の海を船が行く、吉野ヶ里の人々もそんなイメージで星を見ていた、何か皆でお祭りということもあっただろうと思います。しかしまた自分たちの運命を、やがて見えなくなる星に重ねていたかも知れないですね。

斜めの柱を帆かけ船に見立てると、画面の左から右へ(東から西へ)と水平線近くを進むというのです。

言われる通り、春分の日には太陽と南十字星のお祭りをしたかもしれませんね。

そして南十字星が完全な形で見えなくなる頃、吉野ヶ里から人々が消えたのでしょう。

遺跡の本によると、古墳時代に入ると前方後方墳が造られるようになりますが、集落はその後空っぽになり、200年後に再び人が住むようになったそうです。


さて、南十字星の下の普賢岳。当時は噴火していたかもしれません。近年噴火したことは記憶に新しいのですが、噴火の光景を「天祝」(てんのはふり)と言ったそうです。真鍋は次のように書いています。

噴火の熱雲が上昇する光景を天祝(てんのはふり)と言う。那珂川にはこの五十年ほど前までは、雪の日に頭から被り、衿元を締め、肩から膝下まで掛けた冬の頭巾つきの外套を「おふり」と言った。

南十字星の名に「かふりのほし」或は「ほふりのほし」があったことを思い出せば、古人は何かありし日の筑紫の偉大なる火山群の噴煙を南の空の下に望み見て、南十字星の上の三角形と並べていたのかもしれない。
 拾遺113


「筑紫の偉大なる火山群」というのがこれまでピンと来なかったのですが、今回のtatsuさんの発見で、火山群に普賢岳が含まれていることに気付きました。古代にはもっと多くの山が噴火していたのでしょう。

引用文には女性の外套の描写があります。那珂川町では昭和の始め頃までは雪が深かったのでしょうか、その外套はまるで雪国を思わせます。それを「おふり」と言ったのは頭巾が三角形に見えたからだといいます。

「三角形」からついたという「おふり」は、南十字星の上の三つの星を連想させたようです。南十字星が三角形に見えた時代の名残だということが分かります。

この三角形の南十字星を「火振」と書いて「かふり・ほふり」と読みました。それは火山の名でもありました。




佐賀(24)吉野ヶ里にて・「天祝」と「ひふり・かふり」と「神の宮居」_c0222861_23221269.jpg

これは十字架が刺さった状態。これを十字架とは見なさず、三角形の星座と捉えたわけです。

その下に火山。
神名備山と星が相似形になる、格別な瞬間の画像でした。



さて、このような円錐形の火山に重なって太陽が出入りするのが見える所を、古代には「神の宮居」(みやい)と定めたそうです。

昔の人は遠方に上がる円錐型火山が旭日落日と重なるところを神の宮居と定めた。火振(かふり)島(しま)がこれで、今は伊豫火振(ひふり)島(じま)にその名が残り、(略)又出雲簸川日御碕((日崎)、紀伊日高日御碕、肥前彼岐肥御崎にその面影を伝える。拾遺113 


吉野ヶ里の場合は「太陽」でなく「南十字星」だったので、これには該当しませんが、円錐形の山と神社が組み合わさっている所は沢山あるので、新たな観察視点を得ました。







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by lunabura | 2015-06-14 23:24 | 佐賀東部の神社と古墳 | Comments(0)

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