2015年 06月 18日
佐賀(27) 櫛田宮・景行天皇が祀ったのは伊勢の神だったのか
櫛田宮
景行天皇が祀ったのは伊勢の神だったのか
ここは神崎の櫛田宮。吉野ヶ里遺跡から西南へわずか一キロの所に鎮座しています。
ここは景行天皇がやって来たところ。当時、吉野ヶ里は最盛期で、北内郭も活動している時期に当たります。
両者がどう関わったのか、縁起から見えてくるでしょうか。
参道の二の鳥居です。堂々たる肥前鳥居。お好きな方いらっしゃいましたね!
その左奥に見えているのが「琴の楠」です。
「景行天皇が琴を埋められたら☐☐て楠になった。清浄なる人がい息を止めて七回半巡☐と楠の音が聞こえると伝えられている。推定樹齢七百☐☐。」と柱に書かれています。
これがくじらさんが教えて下さった「琴の楠」ですね。
風土記には
「琴木の岡 高さ二丈、周囲五十丈。郡役所の南方にある。
この地は平原で元来岡はなかった。大足彦(おおたらしひこ)天皇(景行天皇)が勅して「この土地の地形では必ず岡があるべきである」と仰せられ、すぐさま群下(ひとびと)に命令してこの丘を造らせた。
造りおわった時、岡に登って宴をし、興が尽きて後、その御琴を立てると、琴は樟(高さ五丈、周囲三丈)と化してしまった。そういうわけで琴木の岡という。」
とあります。
「琴木の岡」というのは人造の岡で、一丈が3mとすると、約高さ6m、周囲150mとなります。
「この土地の地形では岡があるべきだ」という、現代人にとっては不思議な論理で造営されるのですが、平地なので祭祀するため、あるいは見張り台として必要だったのでしょうか。
岡はもう消滅したのでしょう、この櫛田宮は平地に鎮座しています。
参道の右手には「琴の池」がありました。
神門をくぐります。武家屋敷を思い起こさせる造りです。
拝殿です。
御祭神は須佐之男命・櫛稲田姫命・日本武命です。
「大昔、当地方に荒神があって人を害したが、景行天皇が櫛田宮を創建されてから人民は幸福になったので神幸郡と名付けた。今から千九百年前のことである。(櫛田宮略記)」
かみさち→かんざき となりました。
日本武命(やまとたけるのみこと)は景行天皇の皇子なので、天皇が祀ったのは須佐之男命でしょうか?
大正時代に書かれた「佐賀県神社誌要」では祭神は
「素盞鳴尊、櫛名田比売命、足名椎手名椎尊」
となっています。
あしなづち・てなづちですから、出雲の八岐大蛇退治を思い起こさせますが、実際に当社にはそのオロチ退治の話が伝わっていました。これは次回紹介します。
この場合、景行天皇はどの神を祀ったのでしょうか。
ここは祭神の変遷があったもようで、境内の宝庫にあった古文書には
「櫛田大明神と申し奉るは伊勢大神宮の大娘(ひめ)豊次(とよつぐ)比売命、是なり」と書かれています。
概要は
「天照大神の代に草創されたのが、一時期途絶え、櫛田荒神となってしまったのを、景行天王が祀ってやわらぎ、櫛田大明神として神埼の庄を敷地として祀られた」ということです。
大娘豊次比売命とは伊勢神宮のどなたの事でしょうか。豊受姫でしょうか。
さて、福岡の人はきっと最初、博多の「櫛田神社」を思い起こされたと思います。あの博多山笠で有名な「お櫛田さん」はこちらから勧請されたものなのです。
そこで、博多は「櫛田神社」、神埼は「櫛田宮」とします。
櫛田神社(博多区上川端町)の御祭神を調べると
大幡大神(櫛田大神)天照皇大神 素盞嗚大神(祇園大神)
となっています。
確か「大畑主命は天照大御神の手を引いて川を渡った」という伝承があるのです。しかし、出典が分からなくなってしまいました。どなたか教えてください。
さて、これはこれとして、櫛田宮と櫛田神社の祭神を比較すると、共通するのはスサノヲだけです。
しかし、古文書にみえる伊勢大神宮の「大娘豊次比売命」からは天照大神か豊受大神が祀られていたと考えられます。
結果、本来の祭神がよく分からないのですが、景行天皇は荒神となった櫛田大明神を祀ったというのが最初のようです。
社伝を重んじるのが基本なので、当社には伊勢の「大娘豊次比売命」が祀られていたのが、祭祀が途絶えて荒神となったため、景行天皇が岡を造らせて祭祀をしたと解釈します。
(つづく)
佐賀県神埼市 櫛田宮と吉野ヶ里遺跡
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今の三重県櫛田川と五十鈴川の間の自分の領国を提供し、それが伊勢神宮になったとのこと。
その際の逸話でしょうか??
私の覚えていた話は博多の話です。まだ海浜だったので、博多辺りの何処かだろうと思って、理解できないままでいます。