2015年 07月 16日
水城の地下の木樋・ イタドリ
水城の地下の木樋
イタドリ
1200mもの長さのある水城。今は樹木が生い茂って緑の森の土手となっています。
東門から撮りました。右手が博多湾側です。
見えている範囲に外濠があり、水が溜められるようになっています。水城の向こう側にも内濠が確認されています。
これが水城の断面図。上の写真は右側から撮っています。博多湾側です。一般には敵が攻めて来たら土手の上から矢を射て防御するという説が主流です。
真鍋が伝えているのは左側即ち太宰府側に水を溜めていたというものです。それをどう捉えるか。土塁の地下に注目してください。水色の線があり、木樋と書かれています。これが水城の地下の導水管です。
水城を断ち切って国道三号線が通っています。そのすぐ左手から導水管が発見されて、今はコンクリートで復元されています。実際は巨木で出来ていていました。
この木樋が現在、三ヶ所で発見されています。
土塁を築く前に木樋を数本(多分、均等な間隔で)敷設して、排水をコントロールしようとしています。
これに関して、真鍋はどう伝えているでしょうか。
イタドリが緑の葉に変る頃、瀦水塘(ちょすいとう)の閘門の板(いた)扉(び)を揚げて水を落とす。冬の間に蓄えた水が下手に移る。これを百姓はいたどりと言った。この時に南の空に明るく光る星が板取(いたどり)星(ぼし)(ブーテスα16アクチュルス)であった。『儺の国の星拾遺』p105
イタドリとは植物のことで、初めは赤い葉が出ます。それが緑に変わるのを合図に水を落としたといいます。
(画像出典 ウィキペディア)
閘門(こうもん)が木樋と思われ、それには板の扉が付いていて、それを上げると水が外濠に流れ込む仕組みだったようです。
これがいったん外濠に溜められて、博多湾沿岸の水田に水が張られていきました。
その時に南に見える星を板取星と呼んで、これも合図にしていた訳ですね。
瀦水塘は上田(かみだ)ともいった。水(みな)雪(つき)田(た)、或は水盡(みなつき)(空)田(だ)ともいった。雪(ゆき)の古語は「つき」であって、冬分は雪積で水も氷も凍結しているからである。
夏分は下田(しもだ)に水を遣り果すから、水がなくなる六月の大雨なる水(み)無月(なつき)の由来がここにあった。
そして水(みな)漬(つき)星(ぼし)の名がここに生まれた。百姓がみな、箕を着けて水につききりの四ケ月であった。
「水城」以外に「小水城」がいくつかありますが、その話だと思われます。上の田と下の田をつなぐ導水管が発見されています。かつては福岡も冬は雪が厳しかったと聞きますが、雪を溜めて初夏になるとそれを下田に送っていたことになります。
蓑を着けて、つきっきりの四カ月。水田の世話をする人々の姿が目に浮かびます。
これは大土居小水城の木樋です。
この使用法が具体的に分かるのが次の文です。
万葉の頃までは、山の麓の平坦な谷間を上手(かみて)と下手(しもて)の二つに別けて、その堺の狭く縊(くび)れたところを仕切って、ここに堤と閘門(こうもん)を置き、冬場は上手に水を蓄え、下手に麦を播き、夏場はここに水を通して早生の水稲を植え、やがて上手の水が空(こ)閑(が)になると、そこに晩生(おくて)の陸稲を植えた。
貯水の観縁戚までが活用される仕組みであった。
この農法は今も大陸では保存されており、瀦水塘と今も呼ばれている。天平の昔までは、倭人はこれを「ゐみづ」或は「いほと」といった。さきほどに出た射水も那珂川の岩戸(いわと)も、かつての瀦水塘の和訓を教える地名である。
唐門(からと)がひらかれ、浅い水位からしずかに流れ出る水は、二月かかって土を潤す。これを祖先は入水(いりみ)田(だ)といった。
その頃南の空に見えるのがこの浥(いみ)理(りの)星(ほし)(鷲座γタラゼット)であった。『儺の国の星拾遺』p140
この瀦水塘の巨大な構造物が大野城市の水城だということになります。
大野城市HPより。
木樋から水が流れているようすが描かれています。この外濠は水量調節のためのプールではないでしょうか。
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水城のことはほとんど知りませんでした。導水管というのは立派な地下水路だったのですね。小舟も通れそうです。土を盛るというのはその上に何かを造るか、水を堰き止めるのが目的と思いますが、当時の戦にはこのような形の防御施設が適していたというのでしょうか。不思議な形です。
真鍋の言う“南の空に見える星”というのは真夜中頃に南中する星という意味でしょうか。そうだとすれば、午前0時頃に真南の子午線付近にあったのは、アクチュルスは筑紫磐井から天智天皇の大よそ西暦450~650年の4月8日頃、タラゼットは同じく西暦450~650年の6月30日頃でしたので、るなさんの記事の内容に合っているように思うのですが。
ところで、“いみる”というのは徐々に土が潤っていくことだそうですね。熊本市域では特に年配の人は“増える”という意味で普通に使っています。これが語源だったのですね。面白い!
水城って『日本書紀』に書かれているんです。それが実存するのって凄いですよね。
でも、防御施設ではないと思っています。1200mもの長さ、いったいどれだけの兵が必要になるでしょうか。しかも、左右から敵が登ってくるので、こちらの兵も二組必要です。どんな戦術を立てたらこんな構造になるのか。
灌漑用水だという真鍋の話を信じます。
ただ、元寇の時には利用されたと最近聞きました。
星がどんな風に見えるのか、検証する時間がないんで、よろしくお願いします。
「いみる」が生きているんですね!