2015年 09月 12日
三次神社(1)景行天皇が猿大海に磐境を造らせた
三次神社(1)
みつぎじんじゃ
旧浮羽町大字山北日盛園
景行天皇が猿大海に磐境を造らせた
賀茂神社を後にして、歩いて三次神社を探しに行きました。
8月15日の真昼、猛暑の日でしたが、思ったより辛くはありませんでした。
何枚もの地図を組み合わせて探しに行ったのですが、尋ねても知る人がいません。
それでも、やはり向こうに見えている森だろうと歩いていくと、車は入れない所でした。
とても、風情のある小路です。
あった!
真昼の影のせいで、神額が真っ黒に写っていますが、「三次神社」と書いてあります。
真夏の日差しでハレーションを起こしていて、ピントがあっているのに、合ってないような感じになっています。
訪れる人もいないようです。
石の社殿です。
祭神 大足彦忍代別尊(景行天皇) 日本武尊 仲哀天皇 菅原道真
御祭神は父と子と孫。三人揃って祀る宮は初めてです。
由緒
景行天皇十八年、天皇筑紫国を親征された時、生葉山の麓、三次の杜(今の楯山)に霊畤(まつりのにわ)を設けて天神地祇を祀って天下の泰平を祈りたまい、同二十八年、水沼県主猿大海に命じて磐境(いわさか)を造り神籬(ひもろぎ)を立てさせ、神祇を鎮め奉ったのが創始と伝えられている。
景行天皇が最初に来たのは景行十八年とあります。
この宮は生葉山の麓にあるのですが、どの山を指すのか、分かりません。
地図にも、目ぼしい山が見当たりません。
「三次の杜(もり)」はここでしょうから、霊畤(まつりのにわ)も、ここなのでしょう。
景行天皇は十年後の二十八年に水沼県主の猿大海に命じて磐境を造らせています。
境内の周囲をぐるりと清らかな水が流れていました。
裏に回ったとき、人工的な石組の跡を発見。その石垣の上に磐座があったのです。
崩壊しているのでしょうか、あるいは元々このような形だったのか。
しかし、そこではゴミが燃やされていました。
ショックのあまり、写真はこれだけしか撮っていませんでした。
神社を振り返ると、磐座は社殿の正中線上に乗っているように思われますし、正面の筑後川を経た向こうに聖なる山を見ているフシがあります。
この宮は過酷な運命を持っていて、大友宗麟に焼き払われた時を含めて6度も社殿を建て直さなければならない状況に見舞われていました。
そして、磐座もゴミ焼場に成り果て、市民から忘れ去られていました。
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古賀市の皇石神社が壊される時に反対運動が起きて残った話を聞いて勇気つけられましたが…
今回を起点に大切にする流れになってくれたらなぁ
ただし、本当に磐境かどうか、調査が必要だとは思いますが。
公園から続く道を登り切った見晴らしの良い山頂部に、現代まで繋がる物部氏の墓が存在しています。
ついでに、川の西側、浮羽稲荷神社裏手斜面には、巨大な立方体の磐座が人知れず鎮座して居ます。