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ひもろぎ逍遥

三次神社(1)景行天皇が猿大海に磐境を造らせた


三次神社(1)
みつぎじんじゃ
旧浮羽町大字山北日盛園
景行天皇が猿大海に磐境を造らせた

賀茂神社を後にして、歩いて三次神社を探しに行きました。
8月15日の真昼、猛暑の日でしたが、思ったより辛くはありませんでした。


何枚もの地図を組み合わせて探しに行ったのですが、尋ねても知る人がいません。
それでも、やはり向こうに見えている森だろうと歩いていくと、車は入れない所でした。




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とても、風情のある小路です。





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あった!
真昼の影のせいで、神額が真っ黒に写っていますが、「三次神社」と書いてあります。



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真夏の日差しでハレーションを起こしていて、ピントがあっているのに、合ってないような感じになっています。
訪れる人もいないようです。






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石の社殿です。

祭神 大足彦忍代別尊(景行天皇) 日本武尊 仲哀天皇 菅原道真

御祭神は父と子と孫。三人揃って祀る宮は初めてです。



由緒
景行天皇十八年、天皇筑紫国を親征された時、生葉山の麓、三次の杜(今の楯山)に霊畤(まつりのにわ)を設けて天神地祇を祀って天下の泰平を祈りたまい、同二十八年、水沼県主猿大海に命じて磐境(いわさか)を造り神籬(ひもろぎ)を立てさせ、神祇を鎮め奉ったのが創始と伝えられている。


景行天皇が最初に来たのは景行十八年とあります。

この宮は生葉山の麓にあるのですが、どの山を指すのか、分かりません。
地図にも、目ぼしい山が見当たりません。


「三次の杜(もり)」はここでしょうから、霊畤(まつりのにわ)も、ここなのでしょう。
景行天皇は十年後の二十八年に水沼県主の猿大海に命じて磐境を造らせています。






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境内の周囲をぐるりと清らかな水が流れていました。





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裏に回ったとき、人工的な石組の跡を発見。その石垣の上に磐座があったのです。


崩壊しているのでしょうか、あるいは元々このような形だったのか。
しかし、そこではゴミが燃やされていました。
ショックのあまり、写真はこれだけしか撮っていませんでした。






神社を振り返ると、磐座は社殿の正中線上に乗っているように思われますし、正面の筑後川を経た向こうに聖なる山を見ているフシがあります。



この宮は過酷な運命を持っていて、大友宗麟に焼き払われた時を含めて6度も社殿を建て直さなければならない状況に見舞われていました。

そして、磐座もゴミ焼場に成り果て、市民から忘れ去られていました。






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Commented by こけこま☆ at 2015-09-13 09:22 x
あ〜コレはショックですね…

古賀市の皇石神社が壊される時に反対運動が起きて残った話を聞いて勇気つけられましたが…

今回を起点に大切にする流れになってくれたらなぁ
Commented by lunabura at 2015-09-13 22:16
昔の写真を見ると、拝殿と磐境の間の木立が無かったので、つながりが見えたのでしょうが、今は木が茂りすぎて、磐境と分離されたような感じですね。
ただし、本当に磐境かどうか、調査が必要だとは思いますが。
Commented by くじら at 2015-09-14 00:05 x
御無沙汰しております。二本の川(ダム)に挟まれたこの近くの小高い山(久保田)こそ、和名抄に描かれた的(いくは)物部氏の本家が置かれていた場所でした。今は藤波ダム堰堤下流の公園と化しています。
公園から続く道を登り切った見晴らしの良い山頂部に、現代まで繋がる物部氏の墓が存在しています。
ついでに、川の西側、浮羽稲荷神社裏手斜面には、巨大な立方体の磐座が人知れず鎮座して居ます。
Commented by lunabura at 2015-09-14 23:06
くじらさん、こんばんは^^
字が地図に載っていないので、推測が難しいのですが、姫治あたりと考えてよろしいですか?
加えて、高御魂神社の実態がよく分からなかったのですが。
Commented by くじら at 2015-09-15 07:59 x
藤波ダム下流の公園の隅に「物部本家ここにあり」という意味の石碑がポツンと立っています。明治までは浮羽から星野にかけての山岳地帯を姫治といい、鉱物資源独占の為か、外部の人間は決して入れなかったと聞いています。この広いエリアの物部郷はある意味、隠れ里として人の眼に触れる事無く、存続してきたのでしょう。物部の一党が代々守ってきた高御魂神社は八代 妙見宮から勧請されたと言われています。近々、末裔のひとり、S氏が里帰りで帰ってくるので、また御話を詳しく伺えたらと思います。
Commented by lunabura at 2015-09-15 20:44
くじらさん、詳しい話、ありがとうございます。
以下のアドレスで「高御魂神社」について推論しました。
http://lunabura.exblog.jp/24686730/
御検討ください。
by lunabura | 2015-09-12 23:10 | (マ行)神社 | Comments(6)

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