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狐塚古墳(1)・線刻画の装飾古墳は水沼水軍の訓練地の近く


狐塚古墳(1)

朝倉市入地2741?
線刻画の装飾古墳は水沼水軍の訓練地の近く


前回まで、うきは市(浮羽)の神社と古墳について書きました。

八咫烏の発祥の賀茂神社があり、的物部などのような古代豪族たちと、絢爛豪華な装飾古墳群が特徴の地域でした。

これは筑後川の左岸に展開した遺跡群ですが、今回はその対岸にある朝倉の古墳の話です。

狐塚古墳と言います。リンクしている筑後国造さんの案内で実際に石室を見学することができました。
役場との調整によって石室を見ることが出来るとはいえ、その準備や手間を思うと、感謝に堪えません。

浮羽の古墳群を書いたあとなので、朝倉と浮羽の違いがよく分かります。

印象を先に述べると、浮羽の石室は長方形のプランで、色彩は赤や青の力強くて華やかなカラーの装飾です。個人的には、佐賀の太田田代古墳や飯塚の王塚古墳と共通するものを感じます。

ところが、この狐塚古墳の石室は円構造で、装飾画は線刻です。別の文化圏ではないかと思わせるほど、差があります。

それでは写真を見ながら紹介しましょう。



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この古墳は石室がすっぽりと建屋で覆われています。









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ドアを開けるとこのような光景が目に飛び込んできます。無残にも天井石などが抜かれて(?)しまっていますが、全体構造がよく分かります。奥が玄室、手前が前室、右手が羨道となっています。

とても広いので、一目見て、テンションが上がりました。





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これが平面図です。玄室が丸いです。前室も、上から見たら丸く見えました。石の重力をどうバランスするかが石工の腕の見せどころでしょうが、かなり広い玄室の天井をどうやって組んだのか、もう知ることはできません。






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前室から玄室を撮りましたが、壁が整然としていないのが特徴です。正面の茶色の丸い形の石が奥壁の鏡石で、ここに船の線刻画がありました。







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舳先(へさき)と艫(とも)が二股になっています。底が平たいので、川船です。櫂(かい)も描かれています。朝倉舟と言っていたのがこのタイプかもしれません。

これを見ると、対岸の浮羽の豪族たちとは全く別の豪族だということが分かります。





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他に馬や不思議な線刻などがあります。






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これは羨道の方を撮ったもの。丸石で重ねた所は多分、現代の加工。上方の白い部分は建物の壁です。
床のまな板のような石にはホゾがあります。





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これは初めからあったものです。
つまり、ドアがあったということになります。穴は片方だけなので、片開きのドアです。

宮地嶽古墳にも扉があったのですが、それは枠が造られていました。

追葬したり、祭祀したり、横穴石室は、一族の祭事の中心だったと考えられます。


時代は1400年前、すなわち600年頃だそうです。出土品にはベルトのバックルや馬具などがあり、甘木歴史資料館の資料には7世紀初め頃のものと書かれています。出土品が何処で見られるのかは書いてありません。


大体600年~610年頃と仮定しましょう。筑紫では何が起こっているでしょうか。

600年に倭王阿毎多利思北孤が遣隋使を派遣しています。
607年には阿毎多利思北孤の送った国書には有名な「日出處天子」とあります。これを学校では聖徳太子だと習いましたが、どうなってるのでしょうか?

倭王阿毎多利思北孤と聖徳太子では身分が違うし、天皇は女帝・推古天皇なので、性が違います。
こんなところで、日本の正しい歴史が何なのか、つまづくとは (´・ω・`)
倭王朝と日本王朝という二元の王朝の併存をありのままに捉える事が必要のようですね。

話が逸れないように、戻りましょう。


さて、602年には来目皇子が新羅と戦うために筑紫に来て、翌年糸島で亡くなっています。
この時、佐賀の綾部では盛んに武器を造りましたね。

この狐塚古墳の被葬者は来目皇子と同じ頃に亡くなったことになります。
そして、あの埋納坑のあった古賀市の船原古墳もこの時代になります。

この狐塚古墳の遺族は古墳に船と馬の画を描かせました。死者に捧げる画です。
まさに、筑後川での営みそのものです。

この巨大な円墳に埋葬された人は、ここ、「入地」の支配者なのでしょうか?

「入地」といえば、私には思い入れがあります。
『神功皇后伝承を歩く下巻』を書く時、朝倉市に問い合わせてまで、調べたかった事があったのです。

「入地」は、神功皇后が羽白熊鷲を滅ぼして山を下って来た所にあります。

皇后は兵士たちに武器を研がせ、漆で錆止めをさせています。
その場所が徳次(とくつぎ)、塗器(ぬるげ)という地名で残っているのです。

その地名が何処にあるのか、検証しておかなければならなかったので、市に問い合わせました。そして、分かった場所を下巻の9ページに書いています。

朝倉市からの報告を見て私は驚きました。
二つの地名は太刀八幡宮(52番)と福成神社(53番)の間にあったのです。
この二つの宮はどちらも祭神が三女神なのです。

ここ筑後川流域は水沼三女神です。これに加えて軍事訓練の伝承があることから、「入地」は水沼水軍の軍事訓練所だったと推定しました。この狐塚古墳は上記の二つの宮を直径とした円内に入るのです。

神功皇后から400年経ってはいますが、水沼水軍が他に滅ぼされない限り、この狐塚古墳の被葬者は水沼族に関係のある豪族だと推定できます。

この古墳が出来て60年ほど経った661年。
斉明天皇がすぐ近くの朝倉橘広庭宮で崩御しています。

斉明天皇は朝倉に到着すると、ただちに朝倉の宮地嶽神社と福成神社に参拝しています。視点を変えれば、天皇の御幸の手配をしたのは地元の豪族のはずです。





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これは古墳の正中線の先に見える風景です。
見える範囲に朝倉橘広庭宮は存在し、殯(もがり)の宮もあります。
この古墳の「被葬者の末裔」は広庭宮の造営を見ていたかもしれませんね。


追記
この記事を書いた翌日、昭和29年の実測図が見つかったので、次に紹介しています。
このため、少しこの記事を書き換えています。



狐塚古墳 


地元の方、位置がずれていたら、教えてくださいませ。





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by lunabura | 2015-09-23 23:59 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(0)
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