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湯の隈装飾古墳・被葬者は宮地嶽神社を守っているのか


湯の隈装飾古墳

朝倉市宮野湯ノ隈1326-2
被葬者は宮地嶽神社を守っているのか

さて、朝倉の装飾古墳の続きです。



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前回の狐塚古墳という線刻画の装飾古墳を後にすると、視野に入って来たのは面白い山。
気になる形!
ラグビーの松島幸太朗選手のヘアースタイルとそっくり♪


この山は宮地嶽(みやじだけ)と言います。


宮地岳(嶽)は福津や阿志岐などを紹介していますが、ここは朝倉。朝倉にも宮地嶽があったんです。同じ名前の山は他に糸島にも。

「宮地の星」と言ったら北極星のことです。すると、その南に山と星を見る地点があるはずなので、神社や祠が残っているのではと予測しています。

ちなみに、阿志岐の宮地岳の場合は高良山から見て真北になります。高良山から北極星を見ると、その真下に宮地岳があるという訳です。



話を戻しましょう。
朝倉の宮地嶽には中腹に湯ノ隈装飾古墳がありました。




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6世紀後半の円墳です。築造時直径は20メートル、高さ4メートル。



6世紀後半という時代は、磐井の孫が活躍する時代になります。葛子の子の勝村・勝頼が福津の宮地嶽神社を拠点として活躍。

同じく葛子の子の鞍橋(くらじ)の君は百済に進軍して王子余昌と共闘。

それから8年後に伽耶諸国は滅亡。589年には隋が興っています。こんな時代を生きた人がここには葬られています。





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入り口は施錠されています。
筑後国造さんが、役所から鍵を借りて来てくれていました!!!!

入ります!





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狭い。低い。
匍匐前進です。
これは複式の横穴式古墳で、前室、玄室から構成されています。


中に入ると高いですが、奥壁全体の様子は取り忘れ!





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でも、装飾画はバッチリです。特殊なライトのお蔭で上手く撮れています。
赤と青?の同心円がよく見えます。右の壁にも色が見えていますね。




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画像を小さくして、シャープに加工すると、くっきりとしてきました。




説明板には
「玄室の奥壁および玄門の左右に赤色をおびた同心円がかすかに残っており、筑後川の以北に存在する数少ない装飾古墳のひとつである。」と書いてあります。




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これは、どこの画像か記憶になし。縦か横かも不明です(^_^;)
でも、四角の文様が見えます。右下には円。




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画像を小さくしました。









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そしてシャープに加工。上には縦筋が何本もあるのが浮き出て来ました。
かなりゴージャスなデザインだったようです。





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天井からは水が。ブレてますねえ。

この水を見て、この古墳はかなりの土砂が堆積しているのに気付きました。




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そう、福津市の宮地嶽古墳もまた、開口した時、90センチほどの土砂が堆積していたのですが、その話をここでリアルに体験したのでした。



今観察している画は上部の画であり、土砂を除けばまだ装飾画が残っている可能性があります。そして、副葬品もまだ残っているかも知れません。

(福津の宮地嶽古墳は、土を掻き出したら3mを超す金メッキの大刀が出て来たのです)

こう考えると、大変貴重な古墳だということが分かります。

この古墳の装飾画の復元は蕨手さんが試みているので、ご興味のある方は以下のリンク先へ。



http://blog.livedoor.jp/warabite/archives/51425257.html


一つの古墳の壁画の復元だけでも、相当の時間と労力が必要だったのが、よく分かりました。筑後国造さんと蕨手さんの研究は日本にとって、大変貴重なものです!




さて、これほど貴重な古墳も普通に開口していますが、開口したのは江戸時代のことです。この時代に、福津の宮地嶽古墳や、櫻井神社の古墳など、次々に開口しているのも面白いですね。



そして、るな的な謎解きは神社の縁起からのアプローチとなるのですが、すぐ東に湯隈神社があります。しかし、『福岡県神社誌』には掲載されておらず、祭神は不明。この神社は古墳と深い関わりがあるはずなので、情報があれば教えてください。



地名の「湯の隈」の「湯」とは温泉というより、「鉄が溶けている状態」を指し、「隈」とは天文観測用語でもあることから、この神名備山は古代の製鉄や天文観測の重要な山だったのではないか、とも思われます。


そして、山名が宮地嶽ということからは、安曇族との関連を予想するのですが、山頂には宮地嶽神社があり、祭神は「神功皇后、勝村、勝頼」ということで、福津と全く同じ祭神となっています。

「勝村・勝頼」は「阿倍姓」や「藤姓」、各地でどちらでも書かれています。

そして、この湯の隈古墳の被葬者の生きた時代は「勝村・勝頼」の時代なので、山頂の二柱は、神功皇后以外は被葬者の時代に初めて祀られたということになります。


誰もが「勝村・勝頼」を祀れるわけではないので、この山を安曇族が支配していたのは間違いないでしょう。

湯の隈古墳の被葬者は山頂を守るために中腹に眠っているのかもしれません。そうすると、被葬者は安曇族?

古賀市の船原古墳より少し前の人となります。

このあと、この地域に安曇、阿倍の痕跡を次々と見出すことになりました。これはその序章かな。
次回は頂上の「宮地嶽神社」へ!もちろん、ここは朝倉市です。



湯の隈装飾古墳





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by lunabura | 2015-10-05 21:11 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(2)
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Commented by 蕨手 at 2015-10-05 22:41 x
ルナ様 ご紹介いただいてありがとうございますが、掲載頂いた記事はミラーサイトのアメブロの分ですね。私が主に用いているライブドアブログが、一時閉鎖されると言う噂が立ったことがあったため、その時アメブロに移設の準備をしたのです。
結局噂のままでライブドアブログは存続しましたので、こちらの方は更新しておりません。湯隈古墳に関する記事は提示したライブドアブログの方のサイドバー「タグ検索」、「湯隈古墳」を参照いただきますとより鮮明な画像等を含む記事が閲覧できます。

実は文様の復元解析については、今はもう少し進展しているのですが、他の古墳にかかっているうちに公開しないまま推移してしまっています。こうして折角ご紹介いただきましたので、年内には再度特集を組んで紹介したいと思います。
Commented by lunabura at 2015-10-05 23:35
蕨手さん、了解しました。
タグ付けではリンクが文字化けするので、記事の方にリンクしました。
桜の頃はきれいなんですね!
四角の画がどこにあるか、間違い探しの気分です(^_^;)
ゆっくりと拝見します。
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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