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宮地嶽神社と宮地嶽古墳(朝倉)・斉明天皇は神功皇后に祈った・卑弥呼と神功皇后は?


宮地嶽神社と宮地嶽古墳(朝倉)

朝倉市宮野
斉明天皇は神功皇后に祈った
卑弥呼と神功皇后は?

前回は宮地嶽(120m)の中腹にある湯の隈装飾古墳を紹介しました。

宮地嶽神社はその頂上にあります。道は農道で、最後は切り返しながら急斜面を上がりました。案内人がいなかったら、分からずにグルグルと回ったかもしれません。


車は宮地嶽神社の裏側に到着しました。




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正面です。








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朝倉市は神社の説明板が何処も充実しています♪説明板を見て大変驚きました。




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御祭神が神功皇后・勝村神・勝依神なのです。
前回も書いたように、総本山の福津市の宮地嶽神社と全く同じ祭神なのです。
(勝依は福津では勝頼)






神功皇后は西暦200年頃の人。(まだ、他の時代の証拠が見つかっていない)

勝村・勝頼筑紫君・葛子の子ですから、西暦500年代の後半以降に活躍したと思われます。福津の宮地嶽古墳に埋葬されました。その古墳は7世紀前半~中頃と言われています。円墳です。



ここ、朝倉の中腹にあった湯の隈古墳の古墳は6世紀後半築造。円墳です。
被葬者が500年代前半から後半にかけて活躍したとすると、磐井の乱を子供のころに見て、葛子や勝村・勝頼の活躍を見届けたのかも知れませんね。

中腹という位置関係から、この被葬者は頂上の宮地嶽神社を守る役目があったのではないかと推測しました。宮地嶽神社は安曇族ですから、ここは安曇族の聖地とも考えた訳です。






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そして、頂上からほんの少し下がった所に宮地嶽古墳がありました。



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これは前方後円墳。




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朝倉の平野を見渡す絶景ポイントを押さえています。


未発掘ですが、埴輪などが見つかっているもよう。時代は4世紀後半とされています。
この時代は、謎の4世紀と言われ、どうなっているのかよく分かりません。



この4世紀に神功皇后を持ってくる研究者は多いですが、国乳別皇子や高良玉垂命の廟の付近から出土するのは弥生時代のもの。(下巻57弓頭神社)綱分神社(下巻86)から出土するのも弥生時代のもの。

神功皇后伝承地の出土物には気を付けているのですが、古墳時代の決定版は見つかっていません。


4世紀説の根拠とされていると思われる、石上神社の七支刀は複製品だということが分かったので、決め手にはなりません。肝心の年号の部分が削られているのも紹介しましたね。



卑弥呼と神功皇后は どう違う?

ちなみに、200年説を採って、卑弥呼=神功皇后という説をメールで送って来られた方があります。忙しい時で、直接返事が出来ませんでした。ここで解答しようと思います。

二人はキャラクターが全く違います。

卑弥呼は一生独身で、人にも会わなかったのですが、神功皇后は天皇の后として、どんどん人前に出て行動しています。

化粧している姿が目撃されたり、馬に乗っている姿も目撃されています。出産もしているし、香椎潟では海に入って禊をしていて、男のヘアースタイルに変えるというパフォーマンスも見せています。(下巻67番御島神社)

卑弥呼は中国の後ろ盾が必要で、狗奴国と戦っていました。
神功皇后は夫に代わって新羅と戦い、侵略を防いだという点も全く違います。

卑弥呼は最期は「自死」と書かれていて、これは自害するという意味だと言う方もあります。非常に孤独な人生でした。




話が逸れました。朝倉の宮地嶽古墳の話に戻りましょう。

この前方後円墳の被葬者がどんな氏族だったのかは、分かりません。

安曇族がこの時代にこの山を掌握していたのか、分からないということです。4世紀なら、水沼水軍の訓練地が近いことから、まだ水沼族の支配下だった可能性もあります。あるいは他の氏族の可能性も。


斉明天皇

そして、ここに参拝に来たのが斉明天皇です。橘広庭宮に到着した翌日に、この神社に参拝して戦勝を祈願したと言われています。

『日本書紀』からは、661年5月10日という事になるので、緑豊かな初夏でした。もちろん、天皇が祈った女神は神功皇后です。

そして、斉明天皇は三日目には福成神社(下巻53)で参拝しています。祭神は三女神ですが、神功皇后の足跡を辿って神功皇后にあやかろうとしているのがよく分かります。

斉明天皇もまた新羅と戦わなくてはならない状況に追い込まれました。この時は唐軍との連合軍となります。神功皇后の神助を心から願ったことでしょう。

そして、この時は、斉明天皇もまだまだ元気だったのでしょうが、このあとわずか二か月後、7月24日に崩御となります。







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by lunabura | 2015-10-08 23:31 | 朝倉橘広庭宮 | Trackback | Comments(12)
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Commented by こけこま☆ at 2015-10-09 06:20 x
るな様おはようございます☆

福成神社の源太老人の話は能楽にもなってるって知りました

朝倉には色々な伝承がありますね
駆け足だったので今度ゆっくりと行きます
Commented by lunabura at 2015-10-09 23:21
そうですね。
朝倉は、色んなテーマで動けますね。
神功皇后の羽白熊鷲攻め。
斉明天皇の遷宮、祭祀、崩御。
秀吉の秋月攻め。
邪馬台国、朝倉説。
思いつくだけでも、盛りだくさん^^
Commented by チェリー at 2015-10-10 00:21 x
lunaさん、こんばんは。
あんまり度々書かせていただくのもどーかなーとは思いますが、今回はすごかったです。どんなに精度が高くても偶然ということはありますので、割り引いて聞いてくださいね。

まず、宮地嶽神社(朝倉)から朝闇神社まで 119.9°です。または朝闇神社から宮地嶽神社(朝倉)まで 299.9°です。(近すぎて、地図上ではこれ以上の精度はわからないです。)

次に、宮地嶽神社(朝倉)から真西に、昔の永世神社まで 270.1°です。(合成した画像を見て拾っているので、これ以上の精度はわからないです。)
または、宮地嶽神社(朝倉)から真西に、唐津市の久里双水古墳まで 269.97°です。3世紀末から4世紀始め頃に比定される日本最古級の前方後円墳とのことです。ラインは昔の永世神社の境内は通るようです。

そして、大善寺玉垂宮から宮地嶽神社(朝倉)まで 60.00°です。カシミール3Dの測定ではこれ以上わからないので、国土地理院のページで計算すると、誤差は 0.0016°で、長さに換算すると 78cmでした。
そんなに正確に地図上にポイントを落とせていないので、cmなんてことは、わからないです。でも、要するに、すごく正確です。

大善寺玉垂宮から宮地嶽神社(朝倉)はギリギリ見えるようですので、宮地嶽神社が 60°に見える場所を定めて大善寺玉垂宮を造ったのか、大善寺玉垂宮が先にあって、60°のラインを延ばした丘陵の上に宮地嶽神社を造ったのか、わかりません。
どちらが先にあったのかわからないのです。どちらかというと、前者の方かなぁ…

Commented by lunabura at 2015-10-10 22:35
大善寺玉垂宮はもともと水沼族が三女神を祀っていたのが、神功皇后の時代に、安曇磯良が船で国乳別皇子を送りつけた時、そこに船を残し、のちに磯良が没したので、玉垂命(磯良と海神)が祀られるようになったと思われます。
水沼族から安曇族へ。
それから考えると、宮地嶽神社(朝倉)と大善寺玉垂宮は深い縁があったのかもしれませんね。
Commented by チェリー at 2015-10-11 14:11 x
とりあえず残りのラインを書きますね。

まず、宮地嶽古墳(朝倉)から久里双水古墳(唐津)は 269.97° (真西)でしたが、ライン上に安永田遺跡がありました。
今度は逆に、久里双水古墳から真東に、宮野神社まで 90.00° です。誤差は0.0028° 約3mです。ライン上に位置するのは筑紫神社(勝尾城筑紫氏館跡)・田代太田古墳です。以前田代太田古墳のところでコメントさせていただきましたが、ラインの続きがあったのですねぇ…

次に、三次神社から別所神社まで 315.06° です。北西ですね。

そして別所神社から綱分神社まで 0.01° (真北)です。または、綱分神社から別所神社まで 180.01° (真南)です。わかりやすいですねぇ…

こんなにラインが集中する場所なので、やっぱりある時期に、この地域の中心になっていた場所だと思いました。
Commented by lunabura at 2015-10-12 17:57
チェリーさん、いつもありがとうございます^^

ラインが古そうですね。ということは、もともと安曇族(あるいは水沼族か、中臣氏か)の聖地だった所に、橘広庭宮を造営したのではないか、という感じがしてきました。

何故、こんな場所にという論争がありますが、磐瀬宮が津波で崩壊して、突貫工事で宮殿を造らねばならない時に、整地されていた土地の中から選ばれたのではないか、
そんな感じです。
Commented by チェリー at 2015-10-13 00:13 x
lunaさん、いつもお礼を言うのは私の方で、久しぶりにゾクゾクしたというか、恐怖の様な感覚を味わいました。
ラインが真実かどうかは、わかりませんけどね。
でも、lunaさんがおっしゃるとおり、古くからの聖地のような気がします。

橘広庭宮は、lunaさんの候補地に賛成です。宮地嶽神社か宮野神社から南に中心線を引いているのでは?と思います。

まだ、いろいろ出てきそうですね。下町外畑遺跡という古い古墳群もあるようですが、位置が特定できません。烏集院・拝殿という地名も山の北側にありますね…

宮地嶽1号墳は、昔の永世神社から真東になりました(90.01°)。永世神社にゆかりのある人が葬られているのかなとも思いましたが、年代が合わないですね…

宮地嶽神社が何故聖地となったのか、標高の小さな山が何故聖地とされたのかをラインで説明しなければなりません。理由があるはずなのですが、そこまでやらないと完了しないのです。

磐瀬宮は南区の鴻巣山あたりの説もあるんですね。穴観音から宮地嶽神社まで 119.99°になるんですが、年代が合わないし、ライン上になんにもないので、これは無理だなぁ…精度が高くても偶然という例になりそうです。

また何か見つかりましたら、御報告しますね。
Commented by lunabura at 2015-10-13 22:23
烏集院、など気になる地名がいくつもありますね。
これまでは所在地探しの観点で見ていましたが、仮説が出来たので、今度は宮野からの背景を探さねばならないと思っています。

ところで、チェリーさん、古墳や遺跡の場所は地図上で探すのはとても難しいですよね。地元の地図を手に入れないと分からないケースも多々あります。
どうやって、遺跡を確認してあるのですか?
Commented by チェリー at 2015-10-14 21:28 x
そうですね~難しい時がありますねぇ。皆さんのサイトを見まくって探しています。

私の場合はカシミール3Dの地図に落とさないと使えないのですが、最近はここで1/2500相当の空中写真が開けますので、Googleやyahooの航空写真と照らし合わせながらポイントを定めています。大きな古墳等は、よくわかりますね。

でも、「吉武高木遺跡の大型建物跡」や「安永田遺跡」の場合は、地図上の道などを、皆さんが掲載している図と照合して見つけます。教育委員会等の詳細図はたいてい北が上方向になってないので照合しづらいです。

でも、「須玖岡本遺跡の王墓」や「昔の永世神社跡の石碑」の場合は、地図ではわからないので、Google map のストリートビューを使って走り回ることになります。説明板や石碑を探すわけですね。でも説明板の位置がわかっても、それ以上の詳しい場所はわからないことが多いです。昔の永世神社のときは、当時の空中写真があったからわかりましたが…ただ、米軍が撮影した航空写真は南北が合ってなかったことがあったので、注意が必要です。
Commented by lunabura at 2015-10-14 23:33
そうなんですか。
一件ずつ調べて、オリジナル地図を創ってあるんですね。
チェリーさんの遺跡地図は大変参考になります。
私は現地で何種類もの地図を貰って比較して探す事が多いのですが、基準が違っているので、突き合わせが大変です。
ネットで探すとなると、途方もない時間がかかりそうで、トライできません^^
Commented by チェリー at 2015-10-15 23:12 x
ところがですね~これが苦にならないというか、まあ、楽しんでやっているんですわ。
ですから、何かリクエストがあれば、調べてみますね。素人がやることですから、たかが知れてますが…
Commented by lunabura at 2015-10-16 22:23
そうですね。ターゲットを追いかける時は、これはこれで楽しいですよね^^
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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