2015年 11月 29日
脇巫女 14 卑弥呼の鬼道
脇巫女 14
WAKIMIKO
卑弥呼の鬼道
昨日と今日は、高島忠平氏の講演を二日続けて追っ掛けしてきました♪
11月28日は
遠賀川 古代の王国再興会議キックオフイベント
王塚古墳から見た古代/遠賀川に輝く弥生の神々
「ホナミの王と神々」
11月29日は
全国邪馬台国連絡協議会第二回全国大会
~久留米から邪馬台国が見える~
「東アジアと倭の政治」
です。どちらも、会場は熱気いっぱいで、
九州の古代を取り戻す機運で盛り上がっていましたよ。
また、29日の講演では、纏向遺跡を掘った関川尚功氏が
学者としての良心的なお話をされました。
これは機会があれば、お伝えすることにして、
高島忠平氏の話の中に『脇巫女』を理解する助けになる話があったので、
今日は二、三点、ピックアップしたいと思います。
高島忠平氏は吉野ヶ里遺跡の発掘の指揮を取られた方です。
遠賀川流域出身でもあったので、私の取り組んでいる時代の
考古学的分野を把握したいということで受講したのですが、
なんと、星読さんの託宣と同じような話が出て来たのです。
◇◇ ◇
縄文時代人の「精霊信仰」を基盤としながら、弥生時代には「祖霊信仰」が
大きな柱となり、宗廟(祭殿)を祀るようになった。
その祖霊から託宣、神託を告げる巫女(神子)がいて、
その結果を連合国に伝えた。
この「祖霊からの託宣」を受けることを
「魏志倭人伝」では「鬼道」と書いている。
◇◇ ◇
卑弥呼の時代は30国ほどの連合国があり、卑弥呼は最も権威があって、
その託宣の結果を30国に伝えたということです。
この話は、星読さんのいう「物述」の説明をしてくれています。
部族国家の連合国の中ののメッセンジャーの存在を
考古学者が言及されたのです。
これを星読さんは「物述」(もののべ)(物を述べる)と言っています。
高島氏は吉野ヶ里遺跡の解析からの見解を話されました。
◇◇ ◇
吉野ヶ里遺跡には墳丘墓があるのですが、そこに「始祖」を埋葬し、
柱を立て、手前に祠堂を立てています。
そこから南に二列の甕棺がずらりと並び、巨大な祭殿へと続きます。
その祭殿は夏至の日の出と冬至の日没を意識して設置されていますが、
そこで祖霊を祀り、託宣を受けていたということです。
さらに南に延長するともう一つ祭壇があるのですが、
これは水、雷などの神々を祀っていたということでした。
◇◇ ◇
謎だった、冬至の日の出ラインの延長線上には古処山があるということでした。
これはチェリーさんに確認して頂きたいラインですが、
本当に古処山(こしょさん)にラインが当たるとすると、
その山を拠点としていたのは羽白熊鷲ですから、
吉野ヶ里は彼らと何らかの結びつきがあるということになります。
吉野ヶ里が一時期、断絶することと羽白熊鷲の滅亡という
新たな関連も視野に入れることになります。
中国では紀元前3~4世紀に東西南北を意識するようになったそうです。
また、吉野ヶ里人と飯塚の立岩遺跡人はほぼ似た形質の渡来人だそうです。
吉野ヶ里遺跡のすぐ近くには大伴氏の拠点があることから、
磐井の乱までの大伴氏の動きも気になるところです。
もちろん、物部氏の動きもです。
さて、高島氏の話でもう一つ押さえておきたいのは、「魂魄」という中国思想です。
人間は「魂」と「魄」(はく)という二つの魂を以っていて、
人間の死後「魂」は天に帰り、「魄」は地に留まるという思想がありました。
「魄」を大事にしないと祟るという思想があったために、
死者の亡骸を丁重に扱ったということです。
今、問題になっている古墳の破壊が、不思議な現象を起こしているのも、
この「魄」の存在で説明できます。
「祖霊を祀って託宣を受ける」
「魂魄の魄を丁重に扱う」
という二つの思想が弥生時代には確立していて、
古墳時代にも受け継がれています。
今、『脇巫女』で描いている世界は弥生の精神世界でもあったことを知ったのは
大きな収穫でした。
そして、私が留守の間、訪問者の皆さん同士で盛り上がっていてくださって
うれしい限りです。
さすがに、コメントの返事は無理ですな(^^;
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吉野ヶ里遺跡からの夏至の日の出は、古処山の頂上ではないけれど、古処山から馬見山までの稜線からきれいに昇るようでした。
ブログに画像をUPしましたので、見てやってくださいね!
「地図でつなぐ聖地の旅 速報版 luna さんへのレポート 吉野ヶ里からの夏至の日の出 http://sakurasaku0911.blog.fc2.com/」です。
前回貼っていただいたリンクがうまく機能しなかったかもしれません。ごめんなさい。右の「外部リンク」から入っていただいた方がいいと思います。
全体から見れば^^
チェリーさん、早速ありがとうございます♪
やはり鞍部ですね。二上山として取り扱ったのでしょう。
屏山は、以前も、隠された山ではないかと噂しました。
地元でも、その名より古処山の名を使うのです。
調べてもらって安心しました。
ありがとうございます♪
次回、またお願いします^^