2015年 12月 02日
脇巫女 16 セイリオス 焼き焦がすもの
脇巫女 16
WAKIMIKO
セイリオス 焼き焦がすもの
三女神の降臨を伝える六ケ岳とそれを遥拝する六嶽神社。
タツさんの調査により、
そこからは六ケ岳の稜線から昇る朝日を観測でき、
今年はシリウスが山頂から昇る姿を見ることができることが分かった。
この現象は2700年前にも起きている。
今日はタツさんによる一連の記事を、彼が作った画像と共に追っていこう。
<(前略)ところで、六嶽神社の位置から六ヶ嶽は南東側にあるので、
山越しにシリウス(イシス)が見えると思い、現在の状況を
見てみましたら、六ヶ嶽山頂にシリウスが出現しました。
歳差によってシリウスの位置は少しずつ動きますが、過去に
現在と同じように山頂に見えたのは紀元前700年頃です。
これは天文専門家のチェックを受けたいのですが、もしそのとおりならば、
古代オリエント系渡来人の関与が取り沙汰された国東の重藤遺跡の
当初鑑定結果(紀元前695±40年)と同じ年代です。
るなさんの記事によれば六獄神社もまた紀元前700年頃に
由来しているそうですね。>
(1)六嶽神社から観た西暦2015年12月15日21時11分30秒頃のシリウス。
六ケ岳山頂にシリウスが昇る、
(2)現在と紀元前700年頃のシリウスの出の位置は同じ。
画像では六嶽神社から観た(1)の西暦2015年12月15日21時11分頃と、
紀元前700年頃の二つのシリウスは六ケ岳の頂上で重なっている。
また、西暦500頃は現在より約2度東寄りに昇っていた。
(3)六嶽神社から観た日の出直前に昇るシリウス(緑十字の中心)
(西暦2015年8月4日5時57分38秒)
これは今年の夏、すでにシリウスが六ケ岳山頂に昇ったことを意味する。
(最高点、朝日岳での作図なので、崎戸山では少々違うかもしれない)
2700年前と今年のシリウスの出が重なるということで、
この鞍手に入植した民が六嶽神社の地点の特異性を発見し、
ここを聖地として祀り続けたと考えられる。
この「2700年前」という時代は、
最近は弥生時代の始まりとしても出てくる年代だが、とタツさんが
<古代オリエント系渡来人の関与が取り沙汰された国東の重藤遺跡の
当初鑑定結果(紀元前695±40年)と同じ年代です。>
書いている点でも特異な年代だ。
この重藤遺跡は大分の国東半島で発見された製鉄遺跡で、
鉄の専門家によって時代が特定され、「縄文の製鉄遺跡」として
新聞でもトップ紙面を賑わしたが、いつのまにか学会では
その年代が削除されて黙殺されている、といういわくつきの遺跡だ。
この地域の地名や神社からは安曇族の関与した痕跡も見られる。
つづきを読もう。
<これをミスティックに言えば、“われ”は最初の入植者であり、
その時代から何千年か経って、
その地の始まりが再び人々の意識の中に戻るのは、
六嶽神社から見る六ヶ嶽山頂に再びシリウスが出現する時代であると
“われ”の実体は予見していた、
そして魂は その時代に同期した…ということでしょうか。
古墳時代との接点は不明ですが。>
前回も引用した部分だ。
画像を見ていると「シリウスの出」が「脇巫女」の誕生のきっかけと
なったのかもしれないと思えてきた。
そういえば、出会った翌日から星読は盛んにシリウスを調べていたっけ。
さらに続きを読もう。
< 真鍋大覚によれば、“物部氏は元来は星辰を祭る家系で、
その先祖は近東にあった”とのこと。
とすれば数千年にわたる星の変位を予測することは困難ではなかったと思います。>
真鍋の家伝はこうして、現地に立つ時に理解が進む。
鞍手は物部氏の本貫地の候補地なのだから、
近東の痕跡、信仰もそのまま残っている可能性がある。
<また、六嶽神社から見た六ヶ嶽を含む山体は低い山並みながら、
稜線上に一年間の太陽の日出位置をカバーしていて、
“日面見山”という言い方もできます。>
もう一度、この画像を載せておこう。
(4)六嶽神社から観た二至二分の日の出(西暦2015年)
鞍部が観測に重要な形状だということがここでも分かる。
タツさんは二点の距離の特異性も指摘した。
<ついでに、六嶽神社から六ヶ嶽山頂を結んだ長さは約1830mで、
これは現在の1海里(1852m=地球上の経度1分)に近いです。
1時間にこの距離を進む速度が1ノットです。>
六嶽神社と山頂を結んだ長さはほぼ一海里だという。
これも地球を観測する技術の存在があってのことだ。
現代に通じる尺度が古代に存在したことは、
熊本の「炎のピラミッド」の基準が「メートル」だと証明されたことで明らかだ。
(これの論文は学会で認められている)
<大昔の星空が実際にはどうだったかの問題はありますが、
画像は当たらずとも遠からずと思います。
AD500年のものは、 古墳時代頃はどうだったかという参考です。
日出直前に昇るシリウスは、空がかなり明るくなっても、
視力がよい人は見えると思います。8月4日という日付は
参考事例のひとつです。
紀元前700年頃のシリウスは赤く見えたという記録が
バビロンの粘土板にあるそうで、その他にもそういう記録は多くあって、
大雑把に日本の時代で言えば、
縄文時代の終わり頃から古墳時代終わり頃までは赤かったらしいです。
ただし、白いという記録もあるようで、結局、シリウスが
赤かった時期も原因もよくわからないというのが結論です。
真鍋の『儺の国の星』に“シリウスは大気の成分や透明度によって
種々に光を変え、漁師百姓はその色を伺い見て天気のくずるゝを測った。
これを風雪星とも呼んだ。又の名を唐犁星とも呼んだ。”
というものがありました。
シリウスは時代により、また季節により日により色を変え、
人々の生活に深く関わってきたのでしょうね。
一連のお話での“われ”の二度目の降臨は、赤いシリウスの
終わりにあったとすると、三度揃いますね。無理やりですが。>
私はシリウスを天文台の望遠鏡で見たことがあるが、
一瞬ごとに赤や青や緑などの光を放って変化していた。
本当に、それは白一色ではなかった。
そして、この「シリウス」が「セオリツ」に音韻変化した可能性を
タツさんは指摘した。
<るなさんの記事にセオリツ姫の話がありましたが、
シリウスはギリシャ語で「焼き焦がすもの」を意味する セイリオスから
きているようなのですが、セイリオス→セオリス→セオリツという線は
ございませんでしょうか。>
<以前、岩手県遠野市の早池峰神社に参拝したことが あります。
祭神はセオリツ姫一柱でした。
遠野は古代 菊池周辺と縁がありますので、
早池峰のセオリツ姫もこちらから行かれたものでしょうね。
でも当時はシリウスのことは全く頭にありませんでした。
藤原によって星神は消されてしまいましたが、
セオリツ姫もそうだったのでしょうか。>
ギリシャ語の「セイリオス」がセオリス→セオリツと変化した可能性は高い。
真鍋の本から思い出す字を書くと、
ギリシア語 キタヒ(暦)→ヒタキ(暦を燃やす神事)、
燕語 カナムリ(一目)→カモ(賀茂)
フェンガル(月)→ヘグリ(平群)
ギリシア語 リソス(石)→イソのかみ(石上)
ハリッチ(狭い)→ハリ(針)
などなど、外来語が変化しながら和語となった例が古語にはみられる。
セオリツ姫の語源もまたシリウスから派生したもので、
夜空の中で一番輝く星を女神として崇め、
その神秘の声を聞こうとした事は十分にありえる。
安曇族の長にイソラというシリウスの名を付けたように、
クマソはセオリツというシリウスの名を付けたのかもしれない。
國栖(星読みの民)の水の女神イシスもまたシリウスだ。
彗星をイチキシマ姫と崇めた民もいた。
七色はオリオン座近くに彗星が飛んで弾けるのを見たという。
これを「三女神が剣から三つに分かれた」と見立てる民もいた。
そして、七色が彗星を見たのは、この物語が始まった時だった。
タツさんはこう語る。
追伸:久しぶりに“わが”を聞きました。
子供の頃は普通に聞いた“あなた”です。懐かしい。
「われ」はきっと今、この話を読んでいるあなたにも
語りかけていたのだろう。
いつもポチっと応援ありがとう。
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なんだか、懐かしいような、嬉しいような、そんな感じです
この気持のまま本来の仕事に没頭します
tatsuがいつの間にかタツになりましたので、こちらにします^^
るなさんへのメールを取り上げていただいて光栄です。こういうことならもっと丁寧に書けばよかったと、米神山に続き反省中です ^^;
大昔のことが大雑把な“○年頃”表示なのはどうぞご勘弁をm(__)m
シミュレーションは1秒単位なのですが、細かな数字は現実的に意味がないと思いました。でも計算上、2715年前のシリウスが今と同じ位置にあったのは確かです。ただし、全ての星の位置が2715年前と同じというわけではありません。
一連の記事から、六嶽神社・六ヶ岳周辺は古い歴史を秘めたとても大事な場所という認識を強く持ちました。もっと深く掘り下げることができないものかと思います。
私のような霊的感性のない者でも長く生きている間には“何か”の存在を思わざるを得ないことがいくつかあります。今回の連載に登場されている皆さんは、その“何か”に直接触れられたのでしょうね。うまく共振してよい通路が開かれますよう願っています。
なかなかリアルタイムに追いつきませんが、調べたいことがどんどん出てくるので、思いのまま書いていきますね。
タツさん、画像のサポートありがとうございます。
また、画像を作るからこそ生まれ出てくる直観。敬服しております。
これからもよろしくお願いします。