ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

馬上の武人1 饒速日の九代目


馬上の武人1
WAKIMIKO
饒速日の九代目 物部膽咋


2月の遠賀水軍の話の件は、まだ正式な依頼があっていないので、
詳細を告知できないでいるが、
今回の試みとして、列伝方式でやろうと思っている。

そこで、物部膽咋(いくひ)の拠点を探してみた。
「徳力」(とくりき)の地名の由来である「採り木」に関連するのが膽咋だ。
小倉(こくら)にある。

過去記事では「大元稲荷造化宮」としてUPしているが、
今は神理教の境内社となっているもよう。

そこで、神理教のHPを見ると、
膽咋は饒速日(にぎはやひ)の九代目と書いてあった。

膽咋は娘を景行天皇に嫁がせている。
また、山下影姫に武内宿禰が生まれると、
自分の妻の幸を乳母に差し出している。

この幸夫人が高良下宮社の幸神社の祭神だ。
武内宿禰を育てた人として、敬われたのだろう。

膽咋の娘が景行天皇に嫁ぐのだから、
神功皇后の時代には長老的な立場だということが分かる。

その膽咋が神功皇后を案内して徳力に連れて来ている。

目的は「採り木」すなわち造船のための木材調達ということだが、
大元稲荷造化宮の急勾配の小山はいかにも武器庫を思わせた。

膽咋は武器の準備の進捗を皇后に見せたのだろう。

この時には阿部高麿・助麿兄弟が護衛をしていた。

残念ながらこの兄弟は数年後に新羅が皇居を襲った時、
天皇と皇后を守って戦死した。
この時の皇居は、もちろん下関の豊浦宮(忌宮神社)だ。
決して奈良ではない。

戦死した兄弟は宮地嶽神社の失われた祭神だった。
だから、安曇族だ。

この時代は物部氏と安曇族は蜜月だったようだ。




このあと、物部氏の十九代または二十代の頃に磐井の乱があった。
膽咋の末裔は物部麁鹿火(あらかひ)側についた。

これは香月氏と同じだ。
香月氏も饒速日の末裔だった。
そして麁鹿火側についた。



――安曇系の磐井と饒速日系の物部の戦い。
そんな縮図が透けて見えてくる。

『日本書紀』を読むと、
継体天皇側と磐井側は、山を隔てているが、海は隔てていない。
同じ陸の戦いとしか解釈できないのだ。

これは何を意味するのか。
筑紫と豊の戦い。
それが磐井の乱だったのだろうか。

ところが、豊側の継体天皇と麁鹿火が次々に死んで
戦いはうやむやに終焉してしまった。

そして、少々変化しつつも元の棲み分けに戻った。

そんな世界が見えて、茫然とする。




神理教




追記
「馬上の武人」シリーズを新たに立てて古墳時代の歴史を探る。
カテゴリは「脇巫女」。



いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2016-01-28 22:30 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(2)
トラックバックURL : http://lunabura.exblog.jp/tb/25236444
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented by furutsuki_oto at 2016-01-29 12:35
七色さん、鞍手町にも「幸神社」ありますね。
めずらしい名前だなとおもっていたのですが、ご祭神はどなたでしょう。
Commented by 七色 at 2016-01-30 00:06 x
幸神社調べてみます。
ただ・・・幸神社 響きが何故か懐かしいようで・・・
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー