ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

黄金のアフガニスタン展と前漢鏡


黄金のアフガニスタン展

遊牧民の足元に置かれた前漢鏡

「神はアフガニスタンにだけは何も与えなかった」
これは夫の友人の言葉だ。

世界を放浪して日本に戻って来た時、
彼はアフガニスタンについてこう言ったという。

現代になって中村哲医師がその不毛の地に灌漑用水路を作ったので、
緑の大地が広がり始め、何万もの人々が戻って来ている。
その灌漑用水路を作る技術は朝倉の山田井堰で生まれたものだった。

そんなアフガニスタンは視点を変えればシルクロードの交易地だ。
古代には栄えていて、その証として黄金の遺物が各地で出土していた。

戦いの混乱の中、守り抜かれた遺物が九博で開催された。

最終日の直前に、その「黄金のアフガニスタン」展を見に行った。

最初に心に残ったのは、直径20センチほどの銀板。
「アイ・ハヌム」遺跡から出土した紀元前3世紀の円盤だ。
キュベーレ女神円盤という。

そこには神々が描かれていたが、神のそれぞれの国が違っていた。
曖昧な記憶だが、例えば小アジアの神とギリシアの神が一緒に並んでいて、
それを地元の司祭が祭っているような構図だった。

異なる宗教を受け入れて融合させていた古代のアフガニスタンの民に
理想の宗教観を見た。
他の宗教に寛容な人々だったのだ。


「博物館」の展示なので、歴史的な背景には期待しないで見学するが、
心を打ったのが「ティリヤ・テペ遺跡」だった。

それは未盗掘の墓群で、六基の墓からの出土物が展示されていた。
未盗掘とはどれほど価値があるのか思い知った。

それは黄金が残されているからではない。

埋葬された人物の姿そのままに、装飾品が残り、
社会組織、死生観、死者への尊厳への思想までもが残されている点に
深く感銘したのだ。

この「ティリヤ・テペ遺跡」は
紀元前15世紀ごろにギリシア人がやってきて都市を作ったあと、
紀元1世紀頃に遊牧民がやって来て、その神殿を墓地としたものだった。

円形劇場などの都市遺構の中、一番神聖な神殿があった。
そこに埋葬されていたのは一人の男性と五人の女性だった。
男性は20~40歳代。女性たちは20歳代。

王と思われる男性には黄金の太刀や短剣が添えられ、
胸には仏教を彫り込んだ小さな円盤が置かれていた。

王妃と思われる女性は更なる数の黄金の装飾品を纏っていた。
身に着けていた位置そのままに遺骨を彩っていた。

衣服には黄金のスパンコールがライン状にデザインされている。
五ミリほどの金のリボン型のスパンコールの輪郭に並べられた金の粒は
新羅製の指輪の輪郭にあしらわれた粒よりもさらに小さい。

王妃の冠は金の薄い板を切って植物文様や鳥などを描き、
おびただしい数の揺れる瓔珞(ようらく)を下げていた。
そう、藤の木古墳や宮地嶽古墳で出土した冠と同じ技法だ。

他の女性たちは身分が違うのが明らかに分かるのだが、
装飾が少ないとしても、逸品を身に着けていた。

それぞれ個性的にデザインされた黄金の装いは、
遊牧民に豊かな文化があったことを思わせた。

商人たちが持って来たものを適当に買ったというより、
身分に合わせてデザインしたものを発注したという印象だった。

埋葬されていた人たちの身分は王、王妃と妃たち、そして巫女だろうか。

女性たちが二十代ばかりということは、殉死を思わせた。
一番美しい衣裳を着せられて、木棺に丁寧に埋葬された。

哀しい死ながらも、平和な時代だったことは良く分かった。
埋葬するための時間に余裕が感じられたからだ。
武器は王が持つ黄金の鞘に入ったものだけだった。

紀元一世紀。
委奴国王が漢から金印を授かった時代に相当する。

一番、驚いたのは死者の足元に前漢鏡が一つ置かれていたことだった。
その図柄は福岡県筑前町で出土したものとそっくりで、
比較した図が展示されていた。



c0222861_2185818.png


あとで広告用のパンフレットを確認したが、
前漢鏡のことは書かれていなかった。
これこそ、古代史を愛する人を引き付ける一番の物ではなかったか。

アフガニスタンと前漢と倭奴国を結ぶという、
一番夢のあるストーリーなのだが。

遊牧民の墓に副葬された前漢鏡の存在を広報すれば、もっと入場者が増えて、
新たな議論が生まれたのではないか、と残念に思えた。

前漢鏡はもう一枚あった。
いずれも足元に置かれていた点が、日本とは全く違っていた。


糸島のフォーラムで聞いたのだが、
古代中国では属国の王者が亡くなると、
葬儀のために葬儀用の品々を贈っていたという。
その一つが青銅鏡なのだそうだ。

これが、糸島の三雲南小路遺跡に副葬された膨大な数の漢鏡の説明となるのだが、
そういう習慣があったのなら、
アフガニスタンの遊牧民の王が亡くなった時も同様に
前漢から贈られたというストーリーが出てくる。

糸島では多すぎる鏡を遺体の両脇にずらりと半重ねで並べたが、
遊牧民たちはそれを足元に置く程度の関係だったと想像ができる。

武寧王が高野槙で造られた漆塗りの黒い木棺に眠ったのは、
日本が代々、百済の王子を質に取っていた関係があったからで、
その王子が即位して死んだとき、葬儀に当たって
日本から下賜されたものと考えられる。

そう考えると、韓国の博物館がその部分の記述を隠した理由がよくわかる。


話はそれるが、最近考えていることがある。

阿蘇山のピンク石で造った石棺が近畿で沢山発見される理由として、
故郷の石棺に埋葬されたかったのだろうと思っていたが、
そうではなくて、
熊本の王家から近畿の王たちに下賜されたのではないかと。

福岡で剣や前方後円墳が発表されるたびに、
「ヤマト政権から下賜された」と新聞に書かれる。
前方後円墳はヤマト政権が地方の豪族に対して許可をしないと造れないそうだ。

いったい何を根拠にそういう話を作り出すのか、
疑問に思っていたが、私と同様の事を考える人もいて、
何かのシンポジウムの時に、一般人からその根拠が質問されたが、
答えは、考古学の先生たちが入念に調べた結果だということだった。

その根拠はあいまいだった。


新しく出土する何もかもが「下賜された」と言う論法を当てはめると、
阿蘇ピンク石の石棺こそ阿蘇王家から下賜されたものだ、という理論も
成り立つのではないか、と思うこの頃だった。

アフガニスタンの王族の木棺に添えられた前漢鏡を見て
そんなことを考えた。





いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2016-02-15 21:10 | <催しもの・あそび> | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://lunabura.exblog.jp/tb/25304447
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー