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こうやの宮(磯上物部神社)「七支刀」でつながる奈良と鞍手と太神


こうやの宮(磯上物部神社)

「七支刀」でつながる奈良と鞍手と太神(おおが)


4月の「歴史カフェ」は「七支刀」についての整理をしますが、
七支刀を持つ神像が祀られている「こうやの宮」について
自分の過去記事を見ると感想だけしか書いておらず、
その詳細は記録していないことに気づきました。

ネットを見ると、こうやの宮の祭神や新しい社殿に関して
誤解した記事があるので、改めて書いておこうと思います。

今回は
「みやま市みなみ校区まちづくり協議会「みなみ地元学」」の
辺春秀雄氏の講演の時のメモを起こします。
聞き違いがある場合は、是非とも指摘、訂正をお願いします。


「こうやの宮」は福岡県みやま市瀬高町太神字鬼木長島(おさじま)にあります。
「太神」は「おおが」と読みます。

そこから七支刀を持った神像が発見されました。
これは奈良の七支刀の発見よりずっと古くから伝わっているものです。

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この地の旧名は筑後国山門郡太神村で、『倭妙類聚抄』には「太神郷」と出てきます。

「山門」には「夜万止」(やまと)、
「太神」には「於保美和」(おほみわ)と読み仮名がついています。

ですから、「太神」の読みは「おおみわ」から「おおかみ」「おおが」と変化しているのが分かります。

「こうやの宮」は正式には「磯上物部神社」と言い、
高良山と関係の深い宮だそうです。





現代になってだんだん祭祀が困難になっていくのはこの宮も同じで、
この宮を日比野克彦氏がレポートした時には社殿の壁板には隙間があり、
風雨が入り込む状況でした。

この中に五柱の神像が祀られていて、その重要性に気づいた古田武彦氏が
プロのカメラマンを呼んで記録を撮られたそうです。

そして、自ら、古田史学会の方々と共に費用を負担されて、
新しい社殿を建立されたと聞きました。

記名帳に最初に記名されたのはそういう事情から、当然のことです。
事情を知らない方が変な印象を書かれていたので改めて記録しておきます。

新しい社殿の建立の時、厨子を地元の方が造って寄贈されたのですが、
あいにく一般的な三部屋の厨子を造られたそうです。

このために、五体の神像を厨子に入れていくとき、
大きさに合わせて順番が入れ替わったのです。

だから、この謎を研究する人は現在の並び順で解いてはなりません。

聞き取った順は「左」から次のようになります。

1番目 赤い河童らしき神像
2番目 マントを着た男神像
3番目 鏡を持った女神(あるいは少年神)
4番目 七支刀を持った男神像
5番目 五七の桐の神紋の男神座像

今では五七の桐の座像が中央になってしまっていますが、
本来は「鏡を持った神像」が中央です。
その髪型は稚児髪で、裾をしぼった袴を履いていて、
少年か女神か意見が分かれています。

実見すれば、男女は判定できるかもしれませんね。
「こうやの宮」の主祭神は「鏡を持った神像である」ということを
認識していただきたいと思います。

二十年前までは花見の時には神像を連れて出かけたそうです。
のどかな話ですね。

社家は因幡家ですが、古くは中島家で物部氏だったといます。

この「こうやの宮」の周囲には小さな宮が集中して鎮座しています。
グーグルで見て、森が見えるとしたら、その殆どが宮です。

この地区での大きなイベントは景行天皇の西国巡視と天智天皇の西国修行です。
鞍手とそっくりです。
鞍手の方は景行天皇の子のヤマトタケルと、
岩瀬宮に滞在した天智天皇の組み合わせです。

太神の沢山の宮々の一部の祭神と縁起を紹介します。

「釣殿殿」祭神は景行天皇とも天智天皇とも言われている。
「田中の神」は物部田中神で、ご神体は石三個。(確か巨石だったと思う)

「西の宮」は物部阿志賀野氏の祖先神を祀る。因幡家が祭礼を司った。ご神体は葉っぱの化石、あるいは浮彫の人物絵。

「大神宮」は天智天皇がひもろぎを立てた所。祭神は天照大神。筑紫三宅連得許が奉納した。得許は天智3年白村江の戦いで捕虜になり、天武13年(684)に21年ぶりに唐から帰還した。

「宇津羅姫社」は宇津良比女神で、景行天皇が黒崎から岩津の高田行宮、宇津に到る行路を守護した女酋長で、ここに墳墓を築いた。
(同じ地方で葛築女は景行天皇に滅ぼされている)

「乙姫神社(小河神)」祭神は豊玉彦命と豊玉姫。神職の先祖が海神の宮から赤玉・白玉を持ち帰って箱に収めて祀ったが、のちに玉は紛失。

「天道社(天下皇神)」川上明神、祭神 罔象女神(みずはのめ)神、瀬織津姫神。
主神は女神像で異国風の衣装。頭巾らしきものを被り、頭部に「猿頭」を刻む。
脇にカッパ像。河童は技術を持って来た渡来人。

長島南部の野田は殆どが三栗野姓で、鍛冶屋ばかりだた。

まだまだありますが、これくらいで。

祭神の組み合わせも鞍手そっくりですね。

太神には物部氏、安曇族、カッパ(國栖すなわち鞍手)のコロニーが
そのまま残っていたのではないかと思われます。

古代の国際港、榎津もすぐ近くです。
景行天皇の時代から天智天皇の時代まで重要な拠点だったのは明らかです。


景行天皇の時代には宇津羅姫が女王として天皇を援助していますが、
全く同時代に北西部にいた女王・葛築目(くずちめ)は殺されています。

この辺りは、マップを使ってカフェではしっかりと押さえたいと思います。

太神の物部は天皇方でした。

すぐ次の時代の神功皇后の名が祭神には見当たらないのですが、
付近に上陸して葛築目の跡継ぎの田油津姫を滅ぼしています。

田油津姫はもちろん田川の姫でしたね。

「こうやの宮」の祭神そのものは名前が分かりませんが、
高良山と関係が深く、この時代の神々を祀っているとすると、
神功皇后を中心として、
高良下宮社の武内宿禰、安曇磯良(高良玉垂命)物部膽咋(いくひ)という
組み合わせの仮説を立てることも可能かもしれません。


白村江の戦いで筑紫君薩夜麻が唐の捕虜となっている話は歴史から消されていますが、この邑の筑紫三宅連得許も連行されたとなると、
かなり突っ込んで研究が出来そうですね。

天智天皇がすぐに即位しなかった事情も、
面白い話が伝わっているので、妄想のレベルでお話しします。


鞍手の歴史を学んでいる時に、七支刀の縁で、
みやま市の歴史が同じような状況であることを学ぶのもまた不思議なシンクロです。


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by lunabura | 2016-03-16 21:04 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(3)
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Commented at 2016-03-18 09:14 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lunabura at 2016-03-18 21:52
非公開さん、こんばんは。
そうなんですか。
こんな時に、いろいろ尋ねておくと、次世代へも伝えられますね^^

Commented at 2016-03-20 05:36 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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