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ひめちゃご38 朝日山宮地嶽神社



ひめちゃご38

朝日山宮地嶽神社
 




さて、昨日は天気に恵まれて、冬至に近い太陽の位置を感じながら、
東から西へと動いて行った。

今日は、その時訪れた朝日山の宮地嶽神社について書いておこう。
「ひめちゃご36」の続きだ。


12月8日。11時頃、鳥栖市の朝日山に着いた。
中腹までは車で登ることができる。
駐車場があり、公園化されているが、そこから先は徒歩だ。







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長い石段をいくつも上っていくと、山頂に出る。







すぐに社殿が目に飛び込んできた。








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その前に立つと太陽が背中にあった。

つまり、宮地嶽神社は南面していたのだ。
すなわち、参拝者は北に向かって祈ることになる。
そのはるか向こうに宮地嶽神社の総本山が控えていた。


「宮地の星」が北極星を指すなら、
日が暮れても安曇の氏人(うじびと)は北極星を見つければ
その長の居城が分かることになる。

朝日山と宮地岳には祈りのレイラインが存在した。









ここからは唐津も筑後も、宝満も、また嘉穂アルプスも見渡せる。




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この日もPM2.5のガスが掛かっているが、
ぼんやりと嘉穂アルプスの稜線が見えた。

夏至の日にはそこから太陽が昇るのだ。ワクワクしてくる。

地名と山の名が分かると、自由になった思いがした。
自分が何を見ているのかが分かるのは新しい体験だった。

さて、この朝日山にこだわるのは思いがけない伝承があるからだ。


「筑後國御原郡東郷山隈原」というブログに、
「花立山と朝日山」という記事があった。
http://blog.goo.ne.jp/garyu704/e/de6448ebe0932c1f60f6997a23a4a806


「朝日山」の名称の由来について、思いがけない話が書かれていた。
磐井の君に関する話だった。

<「昔、筑紫何某、此山に城郭を構へ、軍をしけるに、敵寄せ来る度毎に、
朝日の光に湧出して、此山眩しく見えければ、敵怖れてかかる事なし。
古は丸山と伝ひしを、夫れより朝日の城山と云ひ伝る也。」と、
江戸時代に書かれた『肥前古跡縁起』にある。>

この「筑紫何某」について「筑紫氏」説があるが、別説に
この戦いは磐井の乱の時で、「筑紫何某」は筑紫火君で、
すなわち葛子あるいは近親者である、という説があることが紹介されていた。

この説に従えば、朝日山に磐井の一族は城を構えたが、
攻めてくる敵は朝日に輝く山に恐れをなしたというのだ。


つまり、敵は西から攻め込んだことになる。
敵とは、大伴金村軍あるいは物部麁鹿火軍となる。


金村に頭を押さえつけられている麁鹿火の軍勢が中心で戦うのだが、
ここは佐賀。西には大伴氏の拠点があった。

その敵を迎え撃つ山に宮地嶽神社が奉斎されているのだ。
磐井の一族は宮地嶽神社の祭神を仰いだことになる。

今の所、祭神の具体的名前が分からないのが残念だ。

ところが、このブログ記事には

<宮地嶽神社に合祀される勝村大神と勝頼大神は、
筑紫君磐井の死後、筑紫君を継承した筑紫君葛子の一族、または末裔とする説があり、
筑紫君葛子については、筑紫火君と同一人物、または近親者とする説がある。>

と書かれていた。

勝村・勝頼の二神が葛子の子だという話は宮地嶽神社だけでしか採取できておらず、
まさか佐賀で傍証を得られるとは思ってもいなかった。

祭神に関しては磐井の時代なら「神功皇后と阿倍高麿・助麿」の可能性が高い。
あるいは「阿倍丞相・阿倍高麿・助麿」も有りだ。

高麿・助麿は神功皇后と仲哀天皇を守って戦死した。

合祀された勝村・勝頼は磐井の孫に当たるので、
当然ながら磐井の時代には祀られないのだ。


近くの地名に「安良」「安楽寺」という、安曇族を思わせる地名もあり。
筑紫君―安曇族―宮地嶽神社の可能性を裏付けるものとなった。

このような独立峰が戦いの時にどうして重要なのか。
考えれば烽火(のろし)という通信網の争奪戦であったかとも思われた。
それは226事件に通じるものがある。

朝日山で烽火を上げれば宝満―宮地岳へと瞬時に情報が届く。
そんな話を現地でしていたら、やはり非公開でも同様なコメントが入った。

先述のブログにも
<古代、山頂に烽台と城塞が築かれていたという記録が『肥前国風土記』にあり、
山麓にはいくつかの古墳がある。>

あいにく『肥前国風土記』から烽台の記事は見つけられなかった。
どこかに記述があるのだろう。

朝日山の西に物部神社が、
また東には福童神社(火明尊=ニギハヤヒ)があるということは、
安曇族は物部氏に東西を挟まれていたことになる。
友好的な時代には理想的な配置でも、戦いとなると不利な配置になる。

そして、
筑後国造からは、さらに真南に宮地嶽神社があるとコメントが入った。
それは十連寺という古墳の上に鎮座するという。

展望台があるということなので、そこも烽火の通信網の一つだったのか、
現地の様子を確認したいものだ。



神社を祭ることができるのはその氏族だけだ。
宮地嶽神社の子午線(南北ライン)は安曇のこだわりの祭祀が並んでいることになる。






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by lunabura | 2016-12-09 23:58 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(7)
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Commented by 侑子 at 2016-12-10 21:54 x
こんばんは。

朝日山→十連寺の烽火というお話に、2011年古代山城サミットのイベントを思い出しました。
この二か所が大宰府政庁跡から鞠智城までをつなぐ烽火リレーの中継地点になっていましたので。
(ユーストの録画を見ることができます。http://www.ustream.tv/channel/signalfire)

また、朝日山は近世にも烽火場が置かれていましたね。
受け取るのは筑紫野市天山の烽火台でした。
関連があるのかないのかわかりませんが、ここも宮地岳だなぁと思い、ついコメントさせていただきました。

それから余談になりますが、幕末の烽火リレーは朝日山→天山→四王寺山→しょうけ越え→龍王岳→六ヶ岳→石峯山→霧ヶ岳(足立山)となっていて、地名を見るだけでグッとくるものがあります。
重要な場所というのは今も昔も変わらないのだなと思いました。
Commented by lunabura at 2016-12-10 23:38
侑子さん、ありがとうございます♪
山の名前を聞いていると、たまりませんねえ。
烽火も重要な調査ターゲットなんですね。
Commented by 筑後国造 at 2016-12-11 06:29 x
侑子さん、はじめまして
ユーストリーム、見ました。中継地が宝満川よりも、鳥栖市の杓子ケ峰の宮地嶽神社だともっと見やすかったのでは、と勝手に都合の良い想像をしてしまいました。

さて、十連寺古墳について、ブログに書いていなかったことに気づき、宮地嶽神社や烽火も絡めて書いてみました。
http://riki82.blog78.fc2.com/
Commented by 侑子 at 2016-12-11 23:12 x
筑後国造さん、こんばんは。

烽火リレー当時宝満川の堤防で見ていたのですが、地図上では開けていて見通せそうなのに、現地では意外にわかりづらかったのを覚えています。
気象条件などもあったと思いますが。

先日発見された前畑遺跡(筑紫野市)の土塁も、平坦面があって周囲が見通せるいいピークでしたので、こういうところも見張り地の候補になるのかなと思いました。(地図アプリによれば雲野尾峠は見通せるようです。そしてなぜか正面は七面山でした。)

烽火リレー、次の開催地の朝倉市もやってくれないかなーと密かに期待しているところです。
Commented by 侑子 at 2016-12-13 21:02 x
2016-12-11 23:12のコメント、訂正します。

「正面」というのは「真南」のつもりでしたが、確認すると角度がずれていて真南ではありませんでした。
祭祀があった形跡もないようでしたので、アプリが示した山に意味はないようです。
(七面山というのは眉山を構成する火山ドームの一つで、距離を考えると雲仙普賢岳のシルエットに含まれていると思われます。)

前畑遺跡がとても見通しが良かったので、烽火の適所という話についかぶせてしまいました。
話題からずれてすみません。
Commented by lunabura at 2016-12-14 23:35
筑後国造さん、こんばんは。
古墳の上に立派な神社となっているんですね。
また、翌日の三階松紋も、隠すようにしていて、驚きです。

点から面へ。
三階松の分布が筑紫君の居城を教えてくれそうです。
今度、地図に落としたいので、よろしくお願いします。

ちなみに、訪問者の方へ。
十連寺古墳の記事をご覧になりたいかたは、以下のURLがダイレクトに見れますよ♪
http://riki82.blog78.fc2.com/blog-entry-994.html
Commented by lunabura at 2016-12-14 23:45
侑子さん、こんばんは。
前畑遺跡、行かれたんですね!
地形が知りたかったのですが、あいにく見学できませんでした。
江戸時代、朝鮮通信使が相島に来るとき、壱岐の島から「出発した」という烽火が上がったと言う話を伺いました。
計ると56キロもありました。
海上ではありますが、かなりの距離でも確認できるという証しです。燃やす技術も古代の方が上手かったりして^^
烽火の道も幹線道路と支線みたいなものがあったのかもしれませんね。
興味深い話をありがとうございます♪
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