2016年 12月 15日
ひめちゃご41 「宇佐と六嶽は均し」
ひめちゃご41
「宇佐と六嶽は均し」
『八幡宇佐宮御託宣集』に「波豆米」の名が出て来た。
「波豆米」
読み方は分からない。
一応「はづめ」と呼んでいる。
宇佐神宮の禰宜だ。
女性。
これを見て思い出した。
彼女の名は「鞍手町誌」に出ていたはずだ !
そう思って資料を開くと、やはり載っていた。
波豆米は六嶽神社に参拝していたのだ。
「六岳神社降臨紀」という縁起書があるらしい。
そこに次のように書かれているという。
(読みやすく改変)
<養老2年(718)、宇佐の祢宜、辛島勝波豆米という人、ゆえ有りて
この御社に参り至ったが、室木の長田彦の裔孫・室木ノ国彦というものが、云々
この時、辛島氏が
「このお宮は吾が宇佐宮に均しければ、よろしく宇佐の第二宮と称し奉るべきである」と言ったとある。>
これは享保五年(1720)の記録だ。
ついに核心が見えて来た。
「養老二年」(718)という具体的な年が出て来た。
712年を手掛かりに奈良時代を見ると、
710年に平城京に遷都が行われ、
712年に太安万侶が『古事記』を編纂している。
718年、福岡と大分、すなわち鞍手と宇佐で一つの交流があった。
宇佐から禰宜がわざわざ鞍手に派遣され、
「この六嶽神社は吾が宇佐宮に均し」と伝えたのだ。
そう言って、相手に「宇佐の第二宮」の地位を押し付けたのだが、
逆に言えば、当時の六嶽神社の格式が高かったのを明かすものと言える。
この言葉の本質は「宇佐と六嶽」が同じ「比咩神」を祀っている点にある。
これで分かった。
宇佐神宮とは何か?
そう思うだけで霧がかかり、思考停止したのだが、
こちらも三女神信仰だったのだ。
三女神か、あるいは市杵島姫+二女神か。それはまだ不明瞭だが。
繰り返そう。
宇佐神宮の本質は六嶽神社と同じだ。
そして、今日、飯塚での古代史講座の前に雑談をしていたのだが、
宗像大社の本質は市杵島姫で、出雲も、という話を聞いた。
やはり市杵島姫か。
これらを思うとき、六嶽神社に掲げられた縁起絵に思いが至った。
それは六ケ岳の上空に一人の姫がいて、左右で見守るかのような二姫の姿だった。
市杵島姫と姉神二人だ。
そうだ、星読が絵を撮らせていただこうと言ってくれていたね。
一つ一つ、実行していこう。
再び六ケ岳のシリウスの出が見える季節が廻って来ていた。
御許山
六ケ岳
山容も似ているような。
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