2017年 04月 06日
ひめちゃご64 ここが高三潴 国乳別皇子の政治の地と前方後円墳
ひめちゃご64
ここが高三潴
国乳別皇子の政治の地と前方後円墳
景行天皇に命ぜられて水沼に残った国乳別皇子(くにちわけのみこ)は
天壇のある赤司八幡神社から南へ下って高三潴に住んだ。
弓頭神社がその宮跡である。
神功皇后と武内宿禰がやってくると、
出迎えた国乳別皇子は弓大将として新羅役に参戦したことから、
「弓頭」(ゆみがしら)の社号がついている。
「ゆがしらさん」と呼ばれている。
政治的中心地がここになる。
すると、仲哀天皇が紀伊にいたときに、
「熊襲が朝貢しない」という知らせの発信者はこの国乳別皇子ではないか。
何故ならここは羽白熊鷲と田油津姫を監視できる位置にあるからだ。
羽白熊鷲は既に討伐し、ただちに田油津姫討伐のために
武内宿禰と軍議をしたという。
田油津姫の拠点、ヤマト(山門)は目の前だ。
鷹尾神社もヤマト(大和)のエリアに入るが、朝廷方になる。
赤い点線が神功皇后軍の進軍ルートだ。
鷹尾神社から上陸した。
村人がブリ料理でもてなしたというので、海が深く入っていたことが分かる。
このヤマト地方での朝廷と土蜘蛛の対立は景行天皇の時から既にあり、
ヤマトの女王・葛築目(くずちめ)が滅ぼされている。
ヤマトはこちらでは山門、大和という地名で残っている。
最近はカタカナで「ヤマト」と書くのが流行っているので、ここもそうしておこう。
このヤマト地方では物部氏とヤマトの女王邑が複数世代に渡って対立していた。
国乳別皇子はこの地で亡くなり、烏帽子塚古墳に埋葬された。
廟堂が建ち、大変厳粛だったと書かれている。
この古墳が前方後円墳で、かなり大きい。
実は、弥生時代の前方後円墳が福岡の各地にある。
被葬者の名も伝わっている。
前方後円墳は古墳時代と思っていたが、
最近では箸墓という巨大前方後円墳が弥生時代とみなされるらしいので、
福岡各地にある弥生時代の前方後円墳も問題ないようになった。(と思う)
例の連玉ビーズが出た高三潴にはこんな歴史がある。
拙著『『神功皇后伝承を歩く』下巻
57弓頭神社
58鷹尾神社
59老松神社
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