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ひめちゃご92 千栗八幡宮1難波皇子、宇治皇子が祀られている



ひめちゃご92

千栗八幡宮1

難波皇子、宇治皇子が祀られている
 


朝日山頂上の宮地嶽神社から3キロ程南へ。




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千栗(ちりく)八幡宮に行った。







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思いがけず高い所にある。
地図では想像つかない岬?丘?の上に鎮座していた。

岬か丘といっても今は平地にある。
だが、古代は有明海の波が届いていただろう。

筑後川が東から流れてぶつかり、南へと流れを変える所で、
蛇行がひどい。
江戸時代に直線に工事をしたという。








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だから境内からは久留米の市役所などがよく見えた。

こんな岬は前回の朝日山同様に戦いの争奪の対象になったのではないか。
そんなことも思われる地形だった。









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ご祭神は
応神天皇、仲哀天皇、神功皇后。
さらに難波皇子、宇治皇子、住吉明神、武内宿禰
となっている。



難波皇子は初めてだ。
<難波皇子>
ウィキペディアによると、

<難波皇子(なにわ の みこ、欽明天皇21年(560年)前後? - 用明天皇2年(587年)?)は、古墳時代の皇族。敏達天皇と妃・春日老女子の第一皇子。
587年8月、丁未の乱で朝廷軍に味方するが、これ以降史書に登場しないことから、丁未の乱で戦死したと考えられる。>

とある。
何故、敏達天皇の第一皇子がここに?

その子は栗隈王だ。

昨日、今日と私の別件の調査に出て来たので、ウィキペディアで確認した。

<栗隈王(くりくまのおおきみ、生年不明 - 天武天皇5年(676年)6月)は、日本の飛鳥時代の皇族。栗前王とも書く。旧仮名遣いでの読みは共に「くりくまのおほきみ」。敏達天皇の孫(曾孫か)、難波皇子の子(孫か)、美努王の父で橘諸兄の祖父にあたる。橘氏の祖である。筑紫率(筑紫大宰)として唐と新羅の使者を送迎し、672年の壬申の乱では外国への備えを理由に中立を保った。675年に兵政官長。贈従二位。>


白村江の後始末をした人物?
福童神社も広嗣を通して大宰府関連だった。

大宰府の問題は大宰府周辺だけで解くのではなく、
この肥前の支えを視野に入れる必要があるように思えてきた。


<宇治皇子>

次の宇治皇子は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)のことだ。
応神天皇の子。
変な経緯で異母弟の仁徳天皇の方が即位した。

宇治皇子は志賀島の山中に祀られていた。
宇佐神宮の春宮にも。

佐賀には仁徳天皇を祀る所も多い。
「ひめちゃご」の始まりの「若宮八幡」もそうだったではないか。

神功皇后の孫世代の問題が佐賀には存在するのか。
これ以上は探求したくないのだが。
ちょっと、ため息が出る。

次の祭神、住吉神は八幡、宇佐関係だから当然のこととなる。

そして、最後の武内宿禰。
宿禰は「紀」の武内宿禰と呼ばれる。
紀は和歌山より、こちらの基肄(きい)郡が該当すると思っている。
橘氏と関連あり?
(知ってる人、請う、ヘルプ)


さて、由緒は
<神亀元年(724)聖武天皇の勅を奉じて養父(やぶ)郡司 壬生春成
この地に社殿を造営し創建したと伝えている。
以来、本宮は宇佐神宮の五所別宮の一と称せられ、
朝廷からも厚く尊崇を受けた。>
とある。

夢のお告げが壬生春成にあったらしい。

ここはそれよりも遥か昔から祭られていたはずだ。

横に武雄神社があった。(つづく)




<今回のコース>
1 媛社神社 小郡市
2 福童神社 小郡市
3 大中臣神社 小郡市
4 姫古曽神社 鳥栖市 姫方
5 朝日山宮地嶽神社 鳥栖市
 千栗八幡宮 三養基郡 
7 物部神社 三養基郡
8 若宮八幡神社 三養基郡 中原
9 北浦天神 三養基郡
10 雌塚 三養基郡 姫方




PS
本日申し込まれたA・Nさま、受け付けております。
返信が戻ってきたので、こちらに書いております。






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by lunabura | 2017-09-08 20:57 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(6)
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Commented by 侑子 at 2017-09-10 21:42 x
"肥前三養基千栗神社は継體帝十七(523)年の創建で、ここが少名彦命を祀る祠の南限界ときく。(『儺の國の星拾遺』p.207)"と書いてあったので、ついこの間少名彦命を探しに行ったばかりでした。

壬生春成の館と伝えられている場所は、現在養父八幡宮となっていますが、100m程東に古墳が在り頂上に宮地嶽神社が祀られています。(これは筑後国造さんに教えていただきました。)
100mといっても田んぼの向こうに見えていますので、直ぐそばに感じられました。
この場所からは朝日山が綺麗な円錐形に見えました。

養父には筑紫肥君の館が置かれていたそうで(ひもろぎ逍遙「(8)姫古曾神社・祭神は何故、市杵島姫なのか1」より )、今更ながら筑紫氏ゆかりの場所だったのだなぁと思いました。

それから、宇佐島と天原島をつなぐのは、針摺の瀬戸のほかにもう一箇所あり、それがこの神社の南東に広がる長門石なんですね。
そのように『儺の國の星拾遺』p.130に書いてありました。
とても大事な場所だったと思います。

簡単な地図を作っていましたので、お時間があればご覧下さい。本当に近いんです。
(ここにurlを書いていましたが、禁止ワードに掛かったようですので名前のところに入れています。)
Commented by lunabura at 2017-09-10 22:19
侑子さん、少彦名を探しに私も訪れたのですが、見当たりませんでしたね。
創建が523年とは失念していました。
養父の方を調べてくださって助かります。
上のコメントが千栗八幡宮3に当たります♪
画像もすごく分かりやすくて素敵です。
Commented by くじら at 2017-09-11 08:16 x
なるほど、鳥栖市養父にある三段式円墳「塩塚」の頂部の祠は宮地嶽神社でしたか。鳥栖はわたしの故郷ですが、その辺りから真北に眼を転じると、杓子が峰という市民憩いの山が目に入ります。この山頂にも宮地嶽神社の祠があったことを子供心に記憶しています。なお、山頂から鳥栖アウトレットにかけての山中には5~600基の土饅頭のような円墳が現存しており、甕棺墓群とともに、当時の大環濠集落の痕跡も見つかっています。近くには青銅器の大工房跡も見つかっており、まさに地名は太田です。谷川健一氏の書籍の中で、古代 冶金術に長けた渡来人集団 漢氏が主要街道沿いの居留地に太田地名を残したと書いておられました。
Commented by lunabura at 2017-09-11 22:47
地図と照らし合わせて、雰囲気が分かりました。
漢氏とは、推古天皇時に綾部に来た集団でしょうか。
もしかして、里帰り?
Commented by くじら at 2017-09-12 09:59 x
漢氏についての伝承は、秋月氏が漢氏ということくらいしか現時点ではわかりませんが、あの地域の遺跡の時代ごとの隆盛を比較した調査結果から観ると、倭国大乱以前、饒速日擁する物部軍団東遷前後の時期かと推測しています。
Commented by lunabura at 2017-09-13 20:33
漢氏、ウォッチングしておきます。
具体的な氏族名が分かるとシンボルを手掛かりに移動が見えるので、楽しみです。
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