2017年 09月 10日
ひめちゃご93 千栗八幡宮2 祀られた武雄心 鳥栖は白鳥座から
ひめちゃご93
千栗八幡宮2
祀られた武雄心 鳥栖は白鳥座から
千栗八幡宮の鎮座地の地形は丘陵だった。
本殿の右手に武雄神社がある。
ご祭神は武雄心命(たけおごころのみこと)だ。
境内掲示板には
<孝元天皇(第八代)の皇子彦太忍信命の子。祭祀・占(卜)を司る任に当たり、景行天皇(第十二代)にお仕えした臣下で、高良大社のご祭神武内宿禰は御子である。>
とある。
武内宿禰の父が祀られていた。
祭祀と卜占で景行天皇に仕えていたという。
高良大社の祭神を武内宿禰としていることから、
白村江戦(663)以降の記事だとわかる。
由緒には
<創建は詳らかではないが、室町時代に描かれたといわれている「千栗八幡宮縁起絵」の境内図の中に「武雄社」が見られるところから、それ以前から信仰されていたと考えられる。>
とある。
勝手な考えだが、武雄社が先にあって、
のちに壬生春成が八幡宮を創建したのではないかと思われて仕方がない。
というのも、さらに右手に稲荷社があったからだ。
鳩森稲荷神社という。ご祭神は保食(うけもちの)神。
由緒に
<当千栗八幡宮のご祭神は八幡大神で、稲荷神社御創建の由緒紀によると、養父(やぶ)の郡司壬生春成が此の地に狩猟の折、弓の上に鳩がとまった故事によるもので、鳩は八幡さまのお使いであるとその夜の夢枕に八幡宮境内に千本の栗の木が植えてあるのが表れ、一夜にして栗林が現れたと云う。故に鳩森稲荷神社と云う。>
相殿の神として
<天之忍穂耳命、菅原道真、伊弉諾尊(イザナギ)、高木神(高御産霊日神)>
が祀られている。
ここは千栗郷だ。
隣の養父郷の郡司が狩猟に来て、それをきっかけに八幡の縁を得たようにかかれている。
しかし、本殿の掲示板には、<聖武天皇の勅を奉じて>とある。
八幡縁起にありがちな夢のお告げ譚になっていると思われた。
この急勾配の丘に武器製造集団がいたのではないか。
それは武雄組と関わったのではないか。
武雄の武雄組は何氏か書かれていないが、物部氏だと思う。
武内宿禰も物部氏だ。
武雄心の祖父の孝元天皇は高良下宮社の祭神だ。
(幸神社の祭神名が孝元天皇だと分かった。
先月書いた幸夫人が祀られている宮が孝元天皇を祀っていた)
この千栗の丘は栄枯盛衰の流れのなか、祭神が変遷していったのではないか。
難波皇子の子の栗隈王の「栗」の字も気になるところだ。
千栗郷は1965年に「北茂安町」となり、
2005年、中原町、三根町と新設合併し、みやき町となっている。
ここまで考察して、ようやく借りていた『北茂安町史』を開くことになった。
町史には、この千栗社についての記述があり、
やはり創建が新しい点と、隣の養父郡司が創建した点に問題を感じ、
それを解決するために、なんと筑後の神々を調べている。
高良玉垂宮、大善寺玉垂宮、山門郡太神(おおが)などだ。
歴史カフェで話題にした所ばかりで面食らった。
特に太神は来週、再びやる所なのだから。
そして、結論はよく理解できなかった。土地勘が必要だった。
ただ、その中で大宰府との関わりが述べられ、
また古くは海部氏がいたことが書かれている点が印象的だった。
そして、るな的シンクロとしては
真鍋の描く大宰府をまとめている最中なのだが、
その中に長門石が二か所出て来た。
長門石(ながといし)
<千歳川の中州に「長門石」が存在する。
神代の昔から宇佐島と天原島を結ぶところであった。>
ここから見えている手前の所が長門石なのだ。
前回の画像をもう一度出すが、この奥に高良山~耳納山脈が見えている。
神代にはこれが全部海だったという。
こちらが天原島(あまのはる・左佐島)で、向こうが宇佐島(右佐島)だ。
目の前は「ありなれ川」が流れていた。
もう一ヵ所引用しよう。
<千歳川(筑後川)を中にして、南の筑後に田主丸(たぬしまる)、北の肥前に鳥栖(とす)があり、その中間に北野の長門石があります。昔、有明海が水城を通って玄界灘まで潮を差していた頃、これらは船の始点と終点であり、中継ぎの寄せ場でありました。
白鳥座を鳥巣(とのず)星と呼びました。(『儺の国の星』p140)>
この千栗の丘の麓には湊があったことになる。
そうなれば、武雄と千栗をつなぐ重要な湊でもあったのかもしれない。
そして、すぐ北の鳥栖の地名の起こりは白鳥座だったという。
ありなれ川にかかる白鳥座に例えられた。
そうすると、この千栗の丘陵は星の一つか。
真鍋の話は現地に立って、ようやく理解できる。
PS
9月10日17:10:09にドコモのメールで申し込まれたKさま。
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千栗神社
佐賀県三養基郡みやき町大字白壁2403
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