2019年 04月 09日
「興玉」と猿田彦神
真鍋ノート
「興玉」と猿田彦神
「おきたま」とは月日を並べる暦作り
「甲斐」の由来は「夏日」
興玉神
これは北九州市八幡西区の一宮神社の境内の「興玉神」の石碑だ。
駐車場から上る坂道の道端に鎮座している。
一宮神社は神武天皇の磐境・神籬を熊鰐一族が守り続けた宮である。記紀の岡田宮はここにあった。
この「興玉神」について、真鍋を紐解こう。
<「おきたま」とは、月日を置き並べる暦作りの意であった。
「た」は月でThala(ターラ)なる古代地中海語の略であった。
「ま」は胡語のMutso(ムツオ)、Mutesa(ムテサ)、Massa(マサ)なる日神あるいはMuruhなる星神の略と思われる。>(『儺の国の星』序p4~ 一部改変)
元来、「碁盤と碁石」は暦日算定の器であったという。
黒と白の碁石を「た」(月)と「ま」(日・星)に置き換えて、
それを並べて暦を作っていたという。
この「た」と「ま」の語源は地中海や中近東の
「ターラ」(月)「ムツオ」(日・星)などから来ている。
この「興玉神」は合祀されたのかもしれないが、
暦作りの痕跡を残す神ということになる。
神社での祭祀の日取りを決定するのに暦は欠かせない。
猿田彦
一方、「興玉神」とは猿田彦神のことでもある。
道端にあるのは道祖神として鎮座しているのかもしれない。
「興玉神社」はもう一つ、同市八幡西区木屋瀬(こやのせ)にもあり、
その祭神は猿田彦神だ。
また、伊勢二見「興玉神社」の祭神も猿田彦神である。
伊勢二見が浦から見る日の出は有名である。
これは夏至の日の出で、
運が良ければその朝、はるか向こうの富士山から日が昇るという。
夏至を元旦とする「かひ族」の象徴的光景であるらしい。
『古事記』猿女(さるめ)の君の条に
猿田毘古の神、阿耶詞(あざか)に座し時に、
漁(すなどり)して、比良夫貝(ひらぶがい)に
その手をはさまれて海水に溺れたまいき。
とある。
<「あざか」とは潮が引いて地肌があらわに出た干潟である、
「さるめ」とは衣裳を脱いだ空身(そらみ)の海女(あまみ)、
あるいは日に焼けた赤裸(そほみ)のことであった。>
猿田彦が干潟に出て漁をしている時、
貝に手を挟まれて海に引きずり込まれたという不思議な話だ。
<これは甲斐の峯(富士山)を凝視する神の姿を貝にたとえ、
夏日(かひ)に例えた古人の諧謔(かいぎゃく・ユーモア)が
秘められているのかもしれない。>
「貝」とは「甲斐」と「夏日」のことで、
猿田彦神が富士山からの日の出を見て夏至の日を確認する姿を
面白く描写したものとする。
なまよみの甲斐
<「なまよみ」は甲斐の冠辞である。
この「なま」は即ち「たま」と同義であるから
「なまよみ」とはまさに日月星辰の動向、或は方向を観測して
月日を読みとることであるから、
富士山はまさに日本人が暦日を見定める唯一の象徴であった歴史が
推察されるのである。
夏至を「かひ」、冬至を「とひ」と言った。
甲斐の国名の由来はまさに夏日(かひ)にあった。>
「なまよみの甲斐」の「なま」は「たま」がなまったもので、
「たまよみ」と同じだという。
甲斐の国名の由来は、この興玉神社から「夏日」(夏至)が
観測できることからついたということになる。
伊勢暦は太陰暦と太陽暦を重ね合わせて編纂されてきたもので、
今も「神宮暦」として、広く利用されているが、
その日月星の観測地に「興玉神社」があるということだ。
そこで、碁盤と碁石のような「暦日算定の器」を利用して
「た」と「ま」を計算していた氏族がいたことになる。
<倭人は春分秋分より、夏至冬至を重視する民族であったらしく、
古代の住居も陵墓も夏至冬至の朝日夕日に正対するか、
左右に見通す方向に設計築造した。>
倭人は夏至冬至を重視していたという。
そういえば、吉野ヶ里や周囲の神社のラインは夏至冬至が多かった。
伊勢二見のカエル
<夏至冬至を「日還」と書き「ひがえり」と訓じた。>
伊勢二見の興玉神社にはカエルがいっぱい奉納されているらしい。
これも夏至や冬至を境に日がUターンして昇る「日還」「ひがえり」が
「ひきがえる」になったためという。
(『儺の国の星』p38)
一宮神社(神功皇后伝承を歩く上巻2)