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【真鍋ノート】南十字星と大宰府

【真鍋ノート】


南十字星と大宰府


真鍋大覚の星に関する史料は『石位資正』といい、
漢名の星宿の項目に対し、日本の古い和名を列記したものだという。
中国の星名と日本の星名の照合表のような感じなのだろう。

この『石位資正』が書かれたきっかけは、
刀伊の入寇という侵略事件だった。
この時、異国の天文知識に接した藤原隆家が編纂したものという。
隆家はこの時、大宰権帥だった。

当時は太宰府から南十字星がまだ見えていたという。
南十字星が将来見えなくなるにつれて、
星の和名が消えることを案じたことからの編纂だった。



緒言より(改変)
<『儺の国の星 拾遺』の原本は『石位資正』で、
藤原隆家が1039年に大宰権帥に再任された時、
九州で星暦についての古今の見聞録を編纂したものである。

執筆の契機は1014年から1019年の任期中に
刀伊の入寇に遭い、大陸の夷狄(いてき)の
偉大なる天文知識に感銘してからのことと伝える。>

ウィキペディアによると、
藤原隆家が大宰権帥になったのは
眼病(突き目)の治療のために筑紫行きを望んだからだという。
この時に、刀伊の入寇に遭い、応戦している。
刀伊とは満州の女真族と考えられ、
壱岐・対馬を襲い、筑前まで上陸したという。

この時に隆家は敵ながら天文知識の豊富さに感銘したのだろう。

この頃は太宰府から南十字星が有明海のかなたに沈むのが見えていたが、
将来、この星座が見えなくなるとともに、
世人の関心が星空から離れていく気配を察してこの本を企画したという。

太宰府から最終的に見えなくなったのは明治15年(1882)だそうだ。

真鍋大覚の父、真鍋利市は明治43年(1910)3月27日に
脊振山頂から南十字星のγ星(一番上の星)を有明海上に見たという。

今年(2017年)、脊振山系から南十字星のγ星が撮影されて、
話題になった。
まだ、年に数回は観測することができるらしい。

済星(さいせい)
韓人は南十字星を「済星」と呼んだ。
巨済島や済州島はこれに由来する地名で、
昭和60年から換算して35年~309年前に出来た名である。

わたしの星

倭人は南十字星を「わたしの星」と呼んだ。
「済」が菱形の川瀬舟をさすことからついた。
「済」(さい)がなまって「さやのほし」と呼ぶこともあった。



真鍋の本は文章だけなのに、色彩があふれている不思議な本。


<2017年10月16日>



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by lunabura | 2017-10-16 20:56 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)
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