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2014年 12月 18日 ( 1 )

(3)道真の遺言・「思ふ所」とは何だったのか


(3)道真の遺言
「思ふ所」とは何だったのか


太宰府天満宮の始まりは菅原道真が埋葬されたことからだという。
天満宮のHPを読んでみよう。

太宰府天満宮は、菅原道真(すがわらのみちざね)公の御墓所(ごぼしょ)の上にご社殿を造営し、その御神霊(おみたま)を永久にお祀りしている神社です。「学問・至誠(しせい)・厄除けの神様」として、日本全国はもとより広く世のご崇敬を集め、年間に約700万人の参拝者が訪れています。
成り立ち

道真公は、承和12年(845)に京都でお生まれになりました。幼少期より学問の才能を発揮され、努力を重ねられることで、一流の学者・政治家・文人としてご活躍なさいました。しかし、無実ながら政略により京都から大宰府に流され、延喜3年(903)2月25日、道真公はお住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、ご生涯を終えられました。

門弟であった味酒安行(うまさけ やすゆき)が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました。

延喜5年(905)、御墓所の上に祀廟(しびょう)が創建され、延喜19年(919)には勅命により立派なご社殿が建立されました。その後、道真公の無実が証明され、「天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)」という神様の御位を贈られ、「天神さま」と崇められるようになりました。

太宰府天満宮の本殿の地下に菅原道真は眠っているのだが、
ここに決めた理由は「牛が伏して動かなくなった」ためだという。


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いったいこの牛は何処に連れて行かれようとしたのだろうか。
火葬場へと向かっていたのだろうか。


くるま座さんは興味深い資料を提示した。

それは「道真の遺言」と、「太宰府で亡くなった貴族たちの遺骨の取り扱い」
について書かれた記述のコピーだ。(出典不明)

『北野天神御伝』は延喜三年正月、道真が次の遺言をしたと伝える。

余見る、外国に死を得たらば、必ず骸骨を故郷に帰さんことを。思ふ所有に依りて、此事願はず。

大宰府をはじめ京の外で死去した中央貴族の遺骸は、骨送使の手によって都へ運ばせている。しかし、道真は「思ふ所」によって、あえてそのことを願わなかった。そして、遺言のとおりその遺骸は大宰府に葬られることになった。

当時は客死しても火葬されて遺骨となって自家に送られたらしい。
骨送使という官人までもいたということだ。
だから、道真が太宰府に埋葬されることは「当時の慣例を破った」ものだったのだ。

道真の辞世の詩の結びには「帰家」とあり、家に帰る事を切に望んだはずの道真が
あえて墓所を安楽寺に求めた。

いったい「思ふ所」とは何だったのか。
それは墓所とした太宰府天満宮の前身が「安楽寺」だということにその答えがある、
とくるま座さんは言う。

「ということは、安楽寺はもっと古くからあったの?」
「そう」とくるま座さん。


「牛が動かなくなった」という差し障りの無い縁起の背景に「隠されたものがある」
と解釈することに無理はない。


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確かに、境内の志賀社の札には
「古代後期より中世にかけて海外貿易を行っていた安楽寺(太宰府天満宮)は海上安全の海の神として祀る。」
とあり、安楽寺が古くからあったような文面となっている。

これを見て真っ先に思い出したのは宮地嶽神社の宮司が言われた
「「安」「阿」が付くのは安曇族です」ということばだった。

太宰府天満宮の志賀社は綿津見の三神を祀っている。
ほかでもない、安曇族そのものが祀っている証しだ。

そうすると、「安楽寺」も安曇族の経営する寺だった可能性がある。
海外貿易を担える古代豪族は他には数少ない。

さらに突き詰めれば、ここは倭王朝の重要拠点だったと考えられる。

今、安曇磯良の話(第一回)を志賀島で話したところだが、
仲哀天皇と神功皇后を支えた二雄、竹内宿禰と安曇磯良の歴史上の扱いの差が
気になってしかたがない。

竹内宿禰の話をした直後だったので、その差は印象深かった。

竹内宿禰の名声は轟き、古代豪族がこぞって、我が祖先としているのに、
安曇磯良は名前どころか痕跡までも、すっかり消されているのだ。

両雄はそれぞれ「高良の神」(竹内宿禰)、「高良玉垂の命」(安曇磯良)という神名で祀られたが、
やはり後世には両神とも竹内宿禰に集約されていく。

だから、安曇磯良の名を消す必要があったのだと確信するに至った。
誰が消したのか?
それは倭王朝と日本王朝という二大勢力が日本王朝に収斂されている点に
ヒントがある。

唐突に出す名前だが、豊玉彦(豊玉姫の父)の影を私はずっと見ていた。

豊玉彦から安曇磯良へと続く安曇族こそが
倭王朝の主たる系統だと今は確信している。

安曇の子、イワレヒコ(神武天皇)の東征を母方として支援して来た安曇族だが、
この東征こそ、先々、安曇磯良の名を消す種を蒔いてしまうことになった。
東の地に日本王朝の芽が生じたからだ。

道真が「思ふ所」とは、何だったのか。
消えた倭王朝の残り香を伝えようとしたのだろうか。
その手掛かりを残すために、「骸骨を故郷に残さんことを願」わず、
ここに埋葬されることを願ったのだろうか。



地図 太宰府天満宮


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by lunabura | 2014-12-18 20:22 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(2)
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