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2017年 09月 11日 ( 1 )

ひめちゃご94 千栗八幡宮3 縁起絵巻は磯良と神功皇后だった



ひめちゃご94

千栗八幡宮3 

縁起絵巻は磯良と神功皇后だった
いわゆる三韓征伐
 





『北茂安町史』を見ていて目が釘付けになった。






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なんと、千栗八幡宮の縁起絵巻は三韓征伐の絵図だったのだ。

そう、安曇磯良が亀に乗って舞い、
八乙女が磯良を迎えようと舞っている。


同様の物が志賀海神社、高良玉垂宮、大善寺玉垂宮の三社に伝わる

一見して、構図は大善寺玉垂宮タイプと分かった。
しかも、千栗の方が明らかに古い。

何故なら、大善寺ではあやふやになった磯良像、タッチの弱い八乙女たちが
きちんと描かれているからだ。

全体の時系列もしっかりとしている。
大善寺玉垂宮の絵巻は千栗八幡宮の絵巻を模写したのではないかと考えられた。

そうすると、ここは安曇の宮だったことになる。

宇佐の八幡信仰が入っても、
志賀海神社や高良玉垂宮は「八幡宮」の名を受け入れなかった。
風浪宮もそうだ。

この千栗八幡宮は「八幡宮」の名を冠した。

壬生春成が来る前は安曇族の宮だった可能性が出て来た。

いや、絵巻の中央が武内宿禰になっているので、
そうとも言えないかもしれない。




『高良玉垂宮神秘書』を歴史カフェや久留米大学で話したが、
覚えておいでだろうか。

高良玉垂宮は本来、安曇磯良を祀っていて、
祭祀上、物部氏は重要な位置にはいなかった。

ところが白村江の敗戦後、高良山は生き延びるために
天武天皇即位2年に仏教を受け入れた。

その方便として、高良明神が物部に託宣した形を取った。
「高良明神は菩薩になるので、物部に地位を譲る」というものだ。
菩薩を抱き参った物部はすなわち生き仏になるという形になった。

この時、高良明神は安曇磯良から武内宿禰に変わった。


しかし、物部氏が突然、最高官になっても周囲は納得しないはずで、
言い別けのように縁起を次々と創り出した結果、支離滅裂になり、
自己矛盾を生じた。

そんな話をした。

その続きがこの町史に書かれていた。

〈この高良玉垂神が仏教に帰依し、神宮寺高隆寺が建立されたのは九世紀初頭とされている。

「高隆寺縁起」によれば御井郡司草部君(日下部君)は高良神の祭祀を独占していた神部物部氏の男子に高良神の仏教帰依の託宣があったと聞くと、

これを利用して、再度高良神が草壁氏一族の弓削郷長に託宣したと国史に申し出て、
高隆寺を短期間で建立したとある。〉p191



こうして、草壁氏が九州王朝の長、と名乗る話につながった。

三階松紋を阿倍氏と物部氏の両方が使っているという問題がある。

宮地嶽神社が三階松紋なら、次に行った物部神社もまた三階松紋なのは、
白村江戦で安曇族が凋落し、かわりに物部氏が台頭したからで、
この時、九州王朝の紋でもある三階松紋を物部氏が受け継いだと考えていた。

大体これで筋が通りそうだ。


大体、この町史は佐賀なのに、
久留米、特に三潴の話がふんだんに書かれている。
文化圏が同一の感覚なのだろうか。






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by lunabura | 2017-09-11 21:44 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)
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