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カテゴリ:神社(ア)( 14 )

熱田神社(3)百済の王子を助けたクラジの君は葛子の子だった



熱田神社(3)


百済の王子を助けたクラジの君は葛子の子だった



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さて、当社を訪れたきっかけは
「神社からいただいた資料に磐井の名があった」という一言からでした。
聞いたその日に伺う事になりました。

参拝のあと、宮司さん宅で系図を見せていただきました。
金川宮司家は現在79代目。77代の方が書きしるしたものが残っていました。

その一部です。

磐井ナル-葛子-鞍闇君-初メ 新分鄕 新延 鞍闇君の戦功に依りて賜ハル               
系図の空いた場所には「○鞍闇君は葛子の弟なり?」とメモ書きされていました。

系図の書き方を何度も見なおしましたが「鞍闇君は葛子の子」として大丈夫でしょう。
鞍闇君とは「くらじのきみ」と読み、他の書き方に鞍橋君、暗路君、倉師などがあります。


同じ鞍手には北磐津の名があります。
北磐津(きたのいわつ)は磐井の子です。ですから、葛子の兄弟にあたります。

その北磐津(きたのいわつ)が鞍闇君の可能性はないかと思って、
系図にその名を探しましたが、それはありませんでした。


系図には鞍闇君は「筑紫国造」と書かれているのですが、
磐井の末裔がどうしてそのような身分になって活躍したのかという問題も
葛子が筑紫君になったことを考えると、充分に有り得ることです。

あの磐井の乱ののち、継体天皇も物部麁鹿火(あらかい)も立て続けに死んでいるのですから。

筑紫を治める実権は磐井の末裔に取り戻されたと考えられます。

そして、鞍闇君は百済まで行ってその皇太子を助けているんです。
鞍闇君は『日本書紀』では鞍橋君と書かれています。

地元では「くらじさま」と呼ばれ、神社に祀られ、物産館の名前にもなっていました。

その鞍橋君の話を『日本書紀』で確認してみました。

百済の聖明王の皇太子・余昌(よしょう)は新羅を討とうとした。重臣たちは諌めて、「天はまだ味方する時になっていません。災いが起こるやも知れませぬ」と言った。

余昌は「老将たちは何をおびえている。私は大国(倭国)に仕えているのだ。どうして畏れることがあろうか」と言って、ついに新羅国に入ってクダムラ城塞を築いた。

父の聖明王は、「余昌は長くなった行陣に苦しんで寝食にも困っているだろう。父親として可愛がってやることもできず、あの子が親孝行をしようとしていて上手く行っていない」と憂い、自らも出陣してねぎらおうとした。

新羅は聖明王が自ら来たと聞いて、国中の軍隊を召集して道を塞いで撃ち破った。

この時、新羅は佐知村(さちすき)の馬飼奴の苦都(こつ)、(又の名は谷智(こくち))
に言った。「お前、苦都は卑しい奴婢だ。聖明王は名がある主(こきし)だ。身分の低い奴婢が名のある主を殺せば後世に名を残すだろう」

苦都は聖明王を捕えて拝んで言った。
「どうか王様の首を斬らせてください」
「王の首は奴婢の手にかかることはできない」と王は言った。

苦都は「我が国の法では盟約に反したものは国王といえども奴婢の手にかかるべし、といいます」と言った。

聖明王は天を仰いで嘆いて泣いた。そして、「私は常に死の覚悟をつけていた。命乞いはしない」と言って首を差し伸べて斬られた。

苦都は首を斬って殺した。穴を掘って埋めた。

一方、余昌は敵に囲まれて城塞から出られなかった。軍卒はあわてるがどうしようもなかった。

この時、弓の名手の筑紫国造(ちくしのくにのみやつこ)がいた。進んで弓を引いて新羅の騎馬の武将の中でも最も勇壮な者を狙って射落とした。放つ矢の勢いは鞍の前橋(まえつくらぼね)から後橋(しりつくらぼね)を射通し、その鎧の領会(くび)に及んだ。

また続けて放つ矢は雨のごとく、次々に激しく射られた。こうして包囲軍を退けた。
その結果、余昌や諸将は間道から逃げ帰ることができた。

余昌は国造が包囲軍を矢で退けたことを誉めて尊んで「鞍橋君」(くらじのきみ)と名付けた。

聖明王の言葉の訳、難しかったです。
で、訳してみると、ウィキペディアの余昌(威徳王)の解説が間違っているのが分かりました。
(主語が違っていた)
ま、るな訳もたいした訳ではないので、参考程度にしてくださいませ。

百済の皇太子の余昌は新羅に侵入してクダムラ城塞を作りましたが、戦が長引いてしまい、
父の聖明王が援軍をみずから率いて向かう途中、佐知村(さちすき)の馬飼の奴婢に斬られてしまいます。

そして自分たちも包囲されて身動きできなくなった余昌たち。その城内に筑紫国造がいて、敵将を狙って射殺したために敵は退却。余昌たちは城塞から脱出して助かります。
このとき、余昌は「くらじ君」の名を与えました。

これを読んで初めて知ったのですが、倭国軍は百済と行動と共にしています。
実はこの話の前にも、百済王は何度も「筑紫」に援助を頼んでいます。

これは欽明天皇15年の話です。
西暦何年なのか、欽明天皇の即位年が定まっていないらしく、
年代の割り出しは聖明王の戦死が554年いうことから分かりました。

この話は西暦554年の話でした。
磐井の死が527年。死後27年が経っています。

百済の皇太子とともに籠城したのが「筑紫の軍勢」で、その軍勢にいた鞍橋君は「葛子の子」ですから、
兵を送ったのは筑紫君すなわち葛子(あるいは次の世代)ということになります。

倭国は百済と同盟関係にあったことになります。
宮地嶽古墳に百済の寺と同じ緑のガラス板が沢山あった問題はこれで納得しました。

ガラス板は百済の寺では舎利を治める床に敷き詰められていたとか。
きっと宮地嶽古墳の奥にも同様に敷き詰められていたことでしょう。

そして、この熱田神社は鞍橋君が新分鄕や新延を与えられて治めたそうです。

でも、るなの想像では葛子は鞍手の姫を妻に迎えたと考えられ、
鞍橋君は当地の首長の家の出身ではないかなと思っています。

ここに案内してくれたユキさんありがとう。
そして、決めました。

くらじの君も磐井の末裔なんだから、『宮地嶽神社と筑紫君磐井の末裔たち』に
もちろん書かせていただきますよ!



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by lunabura | 2014-06-23 21:42 | 神社(ア) | Trackback | Comments(0)

熱田神社(2)ヤマトタケル 鞍手から筑紫~佐賀へ


熱田神社(2)

ヤマトタケル 鞍手から筑紫~佐賀へ

そうだ、『福岡県神社誌』を見てみよう。
そうすると、祭神は次のようになっていました。

天照皇大神、忍穂耳命、邇々杵命、彦火々出見命、不合命、素盞嗚命、
日本武命、宮簀姫命
(あまてらすすめ)(おしほみみ)(ににぎ)(ひこほほでみ)(あえず)
(すさのを)(やまとたける)(みやずひめ)
これを前回の祭神名と比較。

天照大神、天忍穂耳尊、瓊々杵尊、彦火火出見尊、鸕鶿草葺不合尊、素盞嗚尊、
日本武尊、宮簀姫尊
表記は違いますが同じ神々でした。


さて、『福岡県神社誌』の由緒も訳してみます。

伝に日本武命が熊襲征伐の時、亀甲で天神地祇を祀られてそこに地神五代の大神を鎮座された、云々(うんぬん)。

文治元年に尾張国熱田大神を相殿に勧請した。その後、元弘元年に故(ゆえ)あって、社殿を司本嶽に遷す、云々。今の社地がこれである。明治五年十一月三日村社に被定。
ヤマトタケルが近くにある亀甲という所で天神地祇を祀って、地神五代を鎮座したとあります。

天神と地祇とは天津神と国津神とも置き換えられますが、
ネットを調べると、どの神が天神で、どの神が地祇なのかは厳密な区別はないようです。

この祭神で見る限りは、「天照大神」が天神で、
「天忍穂耳尊、瓊々杵尊、彦火火出見尊、鸕鶿草葺不合尊、素盞嗚尊」が地神ということでしょうか。

もう一か所、書かれていました。
マトタケルは亀甲で天照大神を祀り、戻ってきてから再び天照大神を祀ったということです。

これ以上は分かりません。
合せると、社伝のようになりそうですね。

由緒の続きを読んでみます。

なお、社説に曰(いわ)く、
第12代景行天皇27年冬、日本武尊が熊襲征伐の時、新分(にぎた)の亀甲の名を愛でられて、ここに口嗽き(今池の口という社の西北五町の所にある)司本峯の榊葉を取って大麻(おおぬさ)とし、天神地祇を祝祭された。ここに地神五代の大神を合わせ祀って戦勝を祈られた。

のち、熊襲を征服し、帰途の際、この社に立ち寄られて奉賽(ほうさい)の御祭を盛大に行われた霊跡(れいせき)なので、里民は崇敬して仮殿を営み、松や榊を植えて祀ったところ、霊験あらたかで、庶民は参り集(つど)って、日に月に盛んとなったと言い伝えている。 (後略)



ヤマトタケルは亀甲で戦勝を祈り、熊襲を征服したあと再び立ち寄っています。 


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境内の右手の大木の後ろに階段がありました。
これは剣岳に到る道だそうです。

「え?剣岳の頂上には登ったことあるけど。八剣神社の頂上じゃない?」
「そうです。剣岳の両側に八剣神社と熱田神社があるのです」
「そうなんですか」
目からウロコ。

そこで、八剣(やつるぎ)神社の記事を読み直してみました。

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●八剣神社(1)ヤマトタケルをもてなした一族の神社があった
●八剣神社(2)三柱の神々に受け継がれたのは草薙の剣だったよ
●八剣神社(3)上宮・ヤマトタケルの行宮跡は眺めが抜群だよ
http://lunabura.exblog.jp/i28/


当時、ヤマトタケルを迎えた首長は「田部今朝麿」という人でした。
松を植えた話や仮殿を建てた話も伝わっていました。
2000年近く前の話がこんなに具体的に残っているとは!

鞍手から中間・八幡にかけては、ヤマトタケルの話が沢山伝わっています。
恋のお話もね。
地元でガイドマップ作ってくれたらいいなあ。


佐賀に行けば、ヤマトタケルが竹内宿禰と組んで熊襲タケルと戦った話が伝わっていました。
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●大願寺廃寺~健福寺 日本武尊が熊襲タケルを討伐した所だった
http://lunabura.exblog.jp/21648939/

●真手(まて)山 熊襲タケル対ヤマトタケル
http://lunabura.exblog.jp/21679856/

●ヨド姫三社めぐり(5)石神 世田姫
http://lunabura.exblog.jp/21638581/

「日本武尊が巡幸された時、樟の茂り栄えたのをご覧になって、勅して「この国は栄(さか)の国」というがよい」と仰せられた。そういうわけで栄の郡といった。後に改めて佐嘉の郡と名づける。」

●ヨド姫三社めぐり(3)與止日女神社2 日本武尊の記憶 桜桃沈輪はいずこ
http://lunabura.exblog.jp/21619021/


ざっとこんな感じ。
「佐賀」という地名の由来もヤマトタケルの言葉から来ていることになっています。

こんな風に立体的に繋がってくると、古代のイメージが豊かに再現されます。

筑紫のヤマトタケル、点と点がつながるといいなあ。

(つづく)





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by lunabura | 2014-06-22 16:46 | 神社(ア) | Trackback | Comments(2)

熱田神社(1)日本武尊が古宮で地神を祀った


熱田神社(1)

日本武尊が古宮で地神を祀った


熱田神社に参拝してから、はや一週間が経とうとしています。


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紫陽花が美しい季節でした。

初めて同じ町の古物神社に参拝したときにも、紫陽花が咲いていたのを思い出しました。
何年前だっただろう。
私のひもろぎ巡りはこの秋で満五年を迎えます。

当初、鞍手の重要性がすぐに分かりましたが、私一人ではどうにもならないこと。
地元の方々に立ち上がっていただけたらと願う地域の一つでした。

思いがけず、熱田神社に行くことが出来ましたが、
ここもまた、案内無しでは簡単に行きつかなかったでしょう。

このタイミングで参拝できたのも、連れて行ってくれたユキさんと、古代の魂たちのお蔭です。


新しく出来た道を通っていきなり迫って来た山の姿は見慣れた山。
何度もこの辺りを他の神社を探しまわってぐるぐると回った記憶がある山です。
名前はなんだったっけ。

鞍手町発行のガイドマップを5分以上探すけど、この熱田神社は載っていませんでした。
信号機名もないので、外部の人間にとっては分かりづらい地図です。

鞍手町の皆さまには是非とも町内の神社と歴史の重要性を再認識して、
神社(祭神)と古墳が明確なマップを作製していただきたいなと思いました。

(実はこれは何年も前からの願いなのです)

グーグルを調べると、どうやら剣岳を西からアタックしたようです。
田んぼが終わって坂になり、住宅が並び始めるとその奥に鎮座していました。


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一の鳥居を過ぎるとただならぬ古社の趣。


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拝殿です。
御祭神は

天照大神、天忍穂耳尊、瓊々杵尊、彦火火出見尊、鸕鶿草葺不合尊
素盞嗚尊、日本武尊、宮簀姫尊


熱田神社の創建は12代景行天皇27年(西暦97年)、日本武尊が熊襲征伐の途中、亀甲に立ち寄り、地神の大神を祭祀したことに始まると伝えられています。
そのことを記念して亀甲に神社(古宮)が建立されたそうです。
(熱田神社広報紙より)
日本武尊が鞍手に来た時には、地元では行宮を造って歓待したそうですが、
その途中、亀甲に立ち寄ったのですね。
そこは今でも聖地で、そこから椿の花を持ち出すことも戒められたそうです。

ヤマトタケルが祀った神が「地神」だとすると、現在の祭神が天神と天孫系なので、
もう一つ、伝わっていない縁起があるのかもしれません。



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広報紙のつづきです。

その後、文治元年(1185年)に尾張国熱田大明神を勧請し、二柱を合祀申し上げて祀った。元弘元年(1331年)現在地に移ったとされています。
尾張国から勧請したのは「日本武尊、宮簀姫尊」だということになります。
私は「当社は熱田のルーツではないですかと」尋ねたのですが、
「そうではありません」との御返事でした。



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神殿を見上げると肉球が ♪
この宮大工さん、ネコが好きだったのかなあ。
重厚な神殿に思いがけない発見でした ^^
(つづく)



鞍手町 熱田神社






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by lunabura | 2014-06-20 21:19 | 神社(ア) | Trackback | Comments(3)

朝闇神社 高木の神…再びの悪夢か


朝闇神社

高木の神…再びの悪夢か

 
思いがけず長安寺の石碑で道草しましたが、道の最奥にある鳥居に向かうと、
注連縄がとても低くてくぐるのが遠慮されました。
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神額は朝闇神社。

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「闇」の字が選ばれているのは天皇の死を暗示しているのでしょうか。


説明板がありましたよ。
朝闇神社(ちょうあんじんじゃ)
福岡県朝倉町大字須川鐘突1269

祭神 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)
別名を大行事社(だいぎょうじしゃ)ともいい、祭礼は毎年9月14日に行われる。
近くには「朝倉橘広庭宮」「天子の森」「長安寺廃寺跡」があり、これらと関係があるのではないかといわれており、「朝倉」の地名は、この神社からきたものではないかと考えられている。
また、この神社の境内に祀られた「毘沙門堂」は現在も残っている。





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祭神はあの高皇産霊尊すなわち高木の神でした。



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山里ではよく見られる氏神様的な神社の様子ですが、
ここに高皇産霊尊が祀られているというのはよくよくの事ではないでしょうか。

そう。
思い出すのは仲哀天皇の突然の崩御の事件です。

斉明天皇と全く同じように新羅と戦うために筑紫にやって来た仲哀天皇。
戦いの準備中に突然、崩御。
誰もが、このケースを思い出したに違いありません。

仲哀天皇の崩御に関しては複数の伝承が日本書紀にも書かれ、
ガイドブックでも整理しましたが、
伝承が一番厚かったのは御勢大霊石神社(小郡市)でした。

羽白熊鷲と戦うために川原(御勢大霊石神社)に布陣した仲哀帝は
前線を見まわって帰陣する途中に敵の矢に射られてしまいます。
それが原因で崩御するのですが、
神功皇后はそののち北の隼鷹神社で鷹を祀ります。

それは御勢大霊石神社に布陣するために天皇が天神地祇を祀ったとき、
鷹が飛来し、その後、北を目指して隼鷹神社の松の木に止まったからです。

皇后は鷹が不吉をもたらしたと考え、後に鷹を祀ったと考えています。

鷹はどこから飛んできたのか。
北を目指したなら、南から飛んできたのではないか。
そう考えて地図を見ると、真南には高樹神社があったのです。そこは高良山の麓。

高良山の地主神だった高皇産霊尊は高良の神に欺かれて結界を張られて
戻れなくなり、麓に鎮座するようになりました。
高良の神とは竹内宿禰ですから、仲哀帝が筑紫に来た時あるいはその直前の事件です。

高木の神が仲哀天皇に祟った。
そして、再び斉明天皇に祟った。

そう思わずにはいられませんでした。

地図を見ると、宮野神社~別所神社~朝闇神社が、ほぼ一直線上に乗って来ました。
東西のラインです。
当社に立つと真西が観測されるということになります。

どうやら祈りのラインがありそうな気配です。
都から見て朝闇神社は真東に鎮座しているのでしょうか。
まだ都の場所は特定できていません。

『福岡県神社誌』を調べたのですが、朝闇神社は載っていませんでした。
「朝倉」の語源かとも言われる重要な宮なのに、載っていないのは不思議です。

「アサクラ」とは「朝の石位」(あしたのいわくら)
すなわち、星座を表すと書いていたのは真鍋大覚。
いよいよ真鍋大覚を読み直す必要があるようですね。

でも、もう少し地形の観察をしておこうと思います。
(つづく)

地図 朝闇神社









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by lunabura | 2014-05-18 19:00 | 神社(ア) | Trackback | Comments(2)

愛鷹神社・豊玉姫は山幸彦とウガヤフキアエズと共に


愛鷹神社

豊玉姫は山幸彦とウガヤフキアエズと共に

さて、再び古賀市の船原古墳の近くに戻ってきました。

船原古墳の被葬者の生活圏に入ると思われる愛鷹神社です。

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古墳の横の谷山川を遡って一キロほど。古墳から歩いても15分。
川と山の細長い境内に神社はありました。
『小野村史』には
「社前に川あり。古賀村にて海に入る。10月9日の祭礼に鮭魚上り来ることあり」
とあるので、この川にはかつては豊かな水量があったのでしょう。

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一の鳥居は川を向いていて、社殿の後は山です。

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祭神は彦火々出見尊。豊玉姫尊。鵜草葺不合(うがやふきあえず)命。
父と母と子です。
ようやく豊玉姫が家族揃って祀られている宮に出会いました。

社殿が二つ並んでいました。
右が愛鷹神社。左は大山祇(おおやまつみ)神社です。

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社殿を右側から撮りました。
境内の木立は大きくて、上空で緑の葉を広げていました。
左に道路があり、谷山川があります。

船原古墳のすぐそばの八幡宮から車で行ったのですが、
川沿いに発達した古い集落の中をくねくねと上っていきました。
道幅が大変狭く、側溝に蓋があるおかげで落ちないですむような道でした。
そして広い車道に出て、探すのをあきらめようとしたら、ナビに「愛鷹神社」の文字が。
すぐ近くに来ていました。

さて、由緒を見てみましょう。
昔は南方の須恵嶺にあったが、永享三年二月十五日、
今の地に移転され、古宮には礎石がなお残っている。

この嶺を大目配と言って、神功皇后が御登山、遠見された事を言い伝えている。
社説に、彦火火出見尊は山幸なので、鷹を愛されることにちなんで
社号としたとある。

社前に川があり、古賀村で海に入る。
十月九日の祭礼に鮭魚が上って来ることがある。
豊玉姫命は竜神の(娘なので)御神徳があるといって、
浦津の豊猟の祈願、体の痛みを取る祈願が多い。
奉賽に履物を供えるのも古来の慣例である。

※ このほか、薦野(こもの)清滝に砂鉄の中継所の旧跡もある。(小野村史)

永享年代は室町時代。ずいぶん昔に遷宮していたんですね。
元宮は大目配山にあって、神功皇后が登山したといいます。
この「大目配山」が地図に載っていなくて、
これまで手がつけられなかったのですが、
古賀市立歴史資料館の「新古賀風土記」のガイドマップに載っていたことから、
急に状況が開けてきました。

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大目配(スパイ山)409.7m。
何々?スパイ?こりゃ何だ?

「目配山」といえば、
松峡八幡宮の裏の山も神功皇后が目配りしたから付いた名前でしたね。
ここは「大目配山」で、やはり神功皇后の縁でした。

祭神の豊玉姫が祭礼の日にだけ鮭になって遡上するという話は鮭神社にもありました。
昔の人たちは豊玉姫が子を置いて帰って行ったことを忘れずに
ずっと思いを掛けていたんですね。

そんな豊玉姫を夫君と子と一緒に祀ったのは誰でしょうか。
神功皇后が登った時には既に祀られていたのでしょうか。
それとも神功皇后が初めて祀ったのでしょうか。

神功皇后は和布刈神社(めかり)では三人を一緒に祀っています。
筑紫を離れる寸前に、最果ての地に三人を一緒に祀っているんですね。
しかも一族の安曇磯良と一緒に。

皇后は、荒ぶる神となって志式神社に祀られていた豊玉姫の事を
ずっと忘れずにいたんですね。
志式神社で神楽を奉納しながら、
きっと豊玉姫と御子を一緒に祀って差し上げようと思ったんじゃないかな。

そうして、姫を祀るのにふさわしい地をずっと探していた。
だから、筑紫を離れる時に、海と山のせめぎ合う和布刈(めかり)の速戸の地こそ
龍神の娘・豊玉姫と山幸である彦火火出見尊の逢瀬の場としてふさわしい、
そう思ったのかも知れませんね。

そんな皇后ですから、この大目配山に最初に三柱を一緒に祀った人は
神功皇后かもしれないなと思ったりしています。

大目配山からは、志式神社のある奈多の海が手に取るように見えたはずで、
豊玉姫が家族と共に祀られるにふさわしい山だったと思われます。

この山へ案内したのは誰でしょうか。
小山田斎宮を提供した人でしょうか。

豊玉姫がいとしい人たちと祀られているとすると、安曇族関係の人かなとも思いました。

お礼として、その人の奉斎する神々を祀るというのが皇后のやり方でしたから。

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地図 愛鷹神社



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by lunabura | 2013-05-11 20:25 | 神社(ア) | Trackback | Comments(0)

荒船神社(4)消えた神籠石の名称・阿志岐山城は何を守っているのだろうか


荒船神社(4)
消えた神籠石の名称
阿志岐山城は何を守っているのだろうか
 

さて、荒船神社が海神三神を祀る船着場だった可能性が大きくなったのですが、
もう一つ知りたい事がありました。
それは「阿志岐山城とは関わりがあるかどうか」という事です。

そこで取り出したのが『あつまれ!古代山城』(古代山城サミット実行委員会発行)
という、平成22年に発行された資料です。

その資料を見ると阿志岐山城については
神護石系山城 阿志岐城跡」という名称が付いていました。
(古代山城サミットでは、石塁があるものは(水城以外)すべて山城として、
朝鮮式と神籠石系に分けています。)

そして今年それが国指定になった時、「神籠石」の名前が消えていました。

いったい神籠石とは何だろう。
学界から神籠石の名称が消えていく理由は何だろう。
いろいろと考えさせられます。

ま、とにかく阿志岐山城を見てみましょう。
資料の写真をご一緒に。

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これは宮地岳を空から撮ったものです。
北の方から撮ったらしく、まるで蜘蛛か蟹がこちらを向いて
両足を広げているように見えます。

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次は一枚目の写真の中央から右寄りの付近の拡大写真です。
これには山城が赤線で示してありました。

これを見てあれれ!? と驚いてしまいました。
いったいこの石塁は何を守ってるんだろう。
赤線が囲んでいるのは谷なのです。

お城なら城主の住まいを守るように造るのでは?

説明文を読んでみましょう。
福岡県筑紫野市に所在する。平成11年に発見され、宮地岳(標高338.9m)の北西に面する標高約140~250mの山腹に立地する。

外郭の推定総延長は約2.3㎞で、そのうち列石を伴う土塁線約1・3㎞が確認されている。

城門や建物等の施設は未確認であるが、水門が3か所確認されている。その中で比較的良好に残存している第3水門は、谷を横断する石塁により構築されており、最大規模の施設である。また、列石を伴う土塁が複数ヵ所で調査されている。


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この地図は上が北で、前出の写真とは逆向きです。
もし城主の屋敷を建設するなら山頂部にしか平地がないのですが、
石塁はその山頂を守っている防衛線には見えません。

一番の問題は水門です。
水門が麓寄りにあるという事は、飲み水の確保にはならず、
籠城の時の役には立ちません。

これは城ではないのでは…。

そこで「谷を囲む神籠石」という視点で他を探してみました。
すると鹿毛馬(かけのうま)神籠石(飯塚市)がよく似た構造をしていました。

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川を挟んで神籠石が組まれています。
これも山城と書いてありますが、防衛施設には見えません。

狩野久・元岡山大学教授(日本古代史)は、阿志岐山城の性格を「白村江の戦いでの大敗後、中央集権的に築造された軍事防衛拠点の一つ」と解説した。

という文をネットで見つけましたが、
鹿毛馬神籠石と同様に防衛の意識が希薄な阿志岐山城を、
「中央集権的に築造された軍事防衛拠点」とするのは早計ではないかと思いました。

私はこの二つの神籠石に関しては
水を大量に使用する生産施設ではないかと考え始めています。

神籠石とは筑紫の古代史を歩むものにとっては大きな謎であり、
かつ、愛着が深いものです。
神籠石とは「神が籠る石」という意味です。

その名を消して、遠い近畿勢力に結びつけるより、
地元の倭国の施設として考えるのが基本ではないでしょうか。

いずれにしろ、今後の発掘成果に注目したいと思います。


さて、神籠石はこれくらいにして本題に戻りましょう。

c0222861_22191064.jpg

荒船神社が関連の地図に載っていないので、
いくつもの写真を見比べて推測ラインを赤色で描いてみました。
正確な地図が手に入るまで、これを載せておきます。

荒船神社は阿志岐山城から見ると麓にありました。
阿志岐山城を造ったり、維持したりする人々を乗せた船が停泊する船着場。
荒船神社はその上にある見張り場であり、祈りの場だと考えました。
この湊は「中つ海」を巡行する連絡船の船着場でもあったのでしょう。

宮地岳は周囲を取り囲むようにして神社がいくつも並び、
山中には童男丱女(どうなんかんじょ)岩という徐福伝説を持つ磐座もあります。

この宮地岳は久留米市の阿志岐などを含めた「中つ海文化圏」として
アプローチする方が、方向を見誤らないと思いました。

宮地岳については別の角度からいつかアプローチしたいと思います。

今回は沢山の情報をコメントやメールでいただいて助かりました。
ありがとうございます。 






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by lunabura | 2012-09-07 20:00 | 神社(ア) | Trackback | Comments(16)

荒船神社(3)蘆木氏は太宰府に直属していた


荒船神社(3)

蘆木氏は太宰府に直属していた


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ほんの少し石段を上っただけなのに、境内からの眺望は抜群です。
右側から宝満山の山裾が流れて、その先に丘陵地帯があります。

c0222861_23582430.jpg

太宰府はこの丘陵にあります。

c0222861_23585056.jpg

境内の正面鳥居からの眺め。背振山が見えています。
この境内から一望できる平地は川から湖沼へと変化して
一面の葦原となったのでしょう。
それが今は豊かな田園になっています。

通る船ははるか遠くでも掌握できる場所に神社はありました。
その古代の風景を眞鍋氏が伝えています。

アシキ
『儺の国の星・拾遺』p201アシカビ星
昔は舟人を「あきしき」或いは「あかし」といった。蘆木(あしき)はまさに太宰府に直属して千歳川の水行を司った氏族の名であった。

やがて「あしかひ」の名が現れた。葦の葉陰に船の帆影が遠く眺められる風景であるが、川水だけが岸の左右に高く茂った葦の茎の間にはるかに開けている光景が峡(かひ)であり、又往来の頻(しきり)なる風景が交(かひ)であったことになる。

祖先は暇(いとま)あり、憩(いこひ)あり、もって荘重にしてかつ優美な言葉で身の廻りのあれこれを自由自在に表現するだけの綽綽(しゃくしゃく)たる余裕があったものとみえる。

「あきしき」「あかし」「あしき」は舟人を指していました。
その中で蘆木(あしき)は氏族の名となり、
太宰府に直属して水行を司ったと伝えています。
千歳川とは筑後川の事です。
この蘆木川(あらふね川・宝満川)は筑後川に注ぎます。

葦の繁茂力は大変強く、小さな川では現代でもこの通りです。

c0222861_003162.jpg

山口八幡神社へ向かう橋の上から。宮若市)
完全に川を埋め尽くしています。

c0222861_004691.jpg

これは生立八幡神社へ向かう途中の川。
水量が多いと、中央にはさすがに葦は生えず、船が運行できます。


「峡」(かひ)とは海峡のように、細長い状態を指していて、
葦と葦の間の細い視覚から船が見えるのを「あしかひ」と言い、
川で、葦の生えていない中央の流れを「かひ」と呼んで海峡のように見立てました。
これは船の上から見ないと生まれない言葉ですね。

そこを行き交う船の「交ひ・かひ」とも重ね合わせました。
宝満川~筑後川ならではの光景だったのでしょう。

舟人は川を遡る時は、必ず海の上げ潮に乗せる。これを昔は「あじろき」といった。海の魚も川の魚もこの時刻に水の垂みに集まるから、ここに杭を打ち並べて網を張り掬(すく)い捕る。これを平安時代には網代木(あじろぎ)といった。

この潮ざかい舟人の待つ泊り場であった。松峡(まつかひ)の名はすでに仲哀帝9(200)年にみえる。太宰府のありし古邑の地であった。

「かひ」の字は松峡(まつかひ・まつお)にも付いています。
この名が仲哀帝9年に見えるとしたら、神功皇后伝承のある松峡神社の事ですね。
夜須であり、層増岐野だった所です。(サイドバー⇒松峡神社)

何々?そこが「太宰府のありし古邑の地」だったって?
これはまた新たなテーマが (・.・;)。でも今日はパス。

阿志岐を発って筑後川を下り、赤司(アカジ)八幡宮を通って更に下ると
高良大社の麓に辿り着きます。
そこにもアシキという地名があったそうです。
(おぼろげなので、くじらさん、愛読者さん、教えてください!下の地図付近でOKですか?)

蘆木氏が掌握する湊々に「アシキ・アカシ」の名が付いているようです。

昔、千歳川と蘆木川は今の三井郡に巨大な沼を形成していた。

太宰府の大子(たいち)、即ち天官暦官は南の巨勢、北の葛城そして西の平群の山を
「月、或いは星の地、或いは日を巡るに似たり」と語っていたときく。

太宰府には大子という官職があり、
天体観測をして暦を作る最高官吏で、天子に直接面会が出来ました。

南の巨勢、北の葛城そして西の平群の山を
「月、或いは星の地、或いは日を巡るに似たり」と語っていた
というのは難解な言葉ですが、
これは大子が川を行き交う船を見て、空の星や月の運行に重ねたようです。

まずは巨勢・葛城・平群について。
福岡にはかつて葛城氏や平群氏がいたと伝えています。
場所がかなり分かって来ました。

c0222861_035681.jpg

これは近畿に移動する前の勢力図という事になります。

この三つの勢力地を連絡する船があったのでしょう。
それを太宰府が掌握していました。

川を遡るのには上げ潮を利用するという事は、一日に二回、遡る事が出来るのですが、
月の満ち欠けに連動しているので、朝だったり、昼だったり、変化する訳です。
ですから遡る船の時間を見れば逆に月の満ち欠けが分かる事になります。

その運航時間は月や星を見て決めるのでしょうが、
逆に言えば船の運航を見れば暦が分かるという訳です。

大子は夜には星を見て、昼には船が遡る様子を観察して、暦を確認したのでしょう。

「月、或いは星の地、或いは日を巡るに似たり」は
「月或いは星の、地或いは日を巡るに似たり」と句読点を打つと理解しやすいでしょう。
本当に美しい文言です。

この荒船神社の境内からも、それは良く見えたことでしょう。
川の舟人の暮らしは月の満ち欠けに直接関係していたのですね。

さて、ここまで調べると、御褒美がありました。
もう一人、尋ねていた人からの電話でした。

「荒船神社の祭神が分かったよ。無格社で、海神三神と書いてある。
隣の神社は老宮神社で字は七刀。祭神は菅原神。」

海神三神といえば志賀の綿津見三神でしょうか。

c0222861_045096.jpg

どおりで。
これは境内にあった船石。お汐井の砂が載せてありました。

そして。
何々?老宮神社の地名が「七刀」だって?菅原神なら熔鉄の神じゃん。
(つづく)





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by lunabura | 2012-09-05 00:06 | 神社(ア) | Trackback | Comments(20)

荒船神社(2)「ふね」とは褐鉄鉱・隕石の風化地層だという


荒船神社(2)
 「ふね」とは褐鉄鉱・隕石の風化地層だという


c0222861_13381885.jpg

祭神の手掛かりはないだろうか。
思いついたのは、他の荒船神社を調べてみる事でした。
そこで、ネットで見つけたのは、
--- 荒船山と古代の信仰のはなし その2 貫前神社と荒船山 ---
(略)
下仁田町の南野牧に「荒船神社」が存在します。
「經津主神」「建御名方命(たてみなかたのみこと)」の2柱を祀っています。
(略)
http://plaza.rakuten.co.jp/uchiyamawakuwaku/diary/200706020000/ 

これは長野県佐久市の神社のようです。
もともとは美女三女神を祀っていたのが、この二柱になったそうです。

「經津主神」(ふつぬし)と「建御名方命」だ。
あれ?
ちょうど『儺の国の星・拾遺』でオリオン座について調べていた時に、
「ふね」と「ふつぬち」という言葉が出ていたぞ。
こりゃまた偶然。

長いのですが、そのままの文章を書き写します。
(イイボとは蹈鞴の産物のことです。)
『儺の国の星・拾遺』p168 イイボ星 オリオン座 IC 434

陸奥出羽で砂鉄が地下に埋蔵されている地帯を船山(ふなやま)と言い、これを採掘する長者を船木という。

古事記神武紀には神八伊耳命(かむやいみみのみこと)の子孫に、陸奥(みちのく)の石城(いわき)の国造(くにのみやつこ)、伊勢の船木直(ふなきあたえ)の名がみえる。

「ふね」とは斧土(ふなつち)の略で、褐鉄鉱リモナイト(2Fe2O3・3H2O)の風化地層である。「き」とは技術者の古称であった。造る人と掘る人では別の氏族になっていた。

昔は「ふつぬち」といった。なお燃料になる亜炭泥炭を「ふるまき」といった。

陸奥北、下野結城(ゆうき)に「古間木」の名がみえる。「まき」とは薪木即ち燃料で、昔は「もえぎ」といった。わずかな火で長い時間をかけて、酸化鉄の粉末を還元するには最良の炭となった。

「ふる」とは星の古語で流星隕石のごとく、天から降る意に流用されている。隕石には年輪のごとき層を重ねた組織が多い。これが地に落ちて古間木(ふるまき)即ち石炭(いしずみ)を作ったものと祖先は信じていた。

「ふつぬち」とは神代紀には
  次に木の神名は久久能智神(くくのち)を生みたまひき。

即ち「くくぬち」であり、中世あたりから櫟(くぬぎ)、即ち窯の薪木の名となったが、筑紫では歴木(ふみき)とも書いて年輪が識別できる石炭の意に通ってきた。「櫟」の右のつくりの「楽」は銘(らく)、即ち熔鉄のことであった。

タクロを三河で設楽(しだら)という。いかにも銘を作る施設をよく表現している。戦国(1467~1568)の世に南蛮渡りの鉄砲が武器としての勢力をのばしたところは尾張春日井小牧があった。

ここも昔は流木が野原の下に埋没していた所であった。「ふるぬち」とは隕石が風化分解した赤土であった。

福岡県の南の大牟田市に「歴木」という地名があって「くぬぎ」と読みます。
この大牟田市はかつて炭坑で賑わった街なので、
この地名が「石炭」に由来するというのは大変納得です。

今回必要な情報だけ抜き出すと、
「ふね」は葦から生まれた褐鉄鉱(スズ鉄)の風化地層のこと。
「き」は技術者の古称で、「ふなき」とはスズ鉄の採掘長者をさす。
「まき」とは流木が積み重なって風化して野となった所で、
その薪はタタラ製鉄に最良のマキとなった。

最近の水害では倒木が川をふさいで氾濫するケースを目の当たりにします。
そこに土砂が流れ込んで平地を形成すると、倒木が良い燃料に変化する訳です。

山の中で出くわす思いがけない平地には、こんな成り立ちの野もあるのでしょう。
馬を放牧する平地を「牧場」というのも語源は同じなのかもしれません。

「ふね」は古くは「ふなつち」「ふつぬち」とも言った。

「ふつぬち」が「ふつぬし」と変化するのは容易です。
「ふつの御魂」とはスズ鉄で作った刀で、「ふるの御魂」とは隕鉄で作った刀でした。

隕鉄による製鉄は実は半信半疑だったのですが、
中国で斧の刃先に隕鉄の刃が作られたものが出土しています。
以下もまた眞鍋氏の文です・
記紀にある「布留の御魂」は隕鉄を精錬した剣で、「布津の御魂」は砂鉄を精錬した剣である。
昔から隕石が落ちた所には椋(むく)の木を植えて祀った。椋の木の実は羽根つきに使われる黒い実。2000年以上前には、その形が隕鉄の象徴だった。
1500年前頃には真金、即ち砂土を溶かして得た鉄を指した。

最初に掲載した長野県の荒船神社の住所をもう一度見てみましょう。
下仁田町の南野に「荒船神社」が存在します。
「經津主神」「建御名方命(たてみなかたのみこと)」の2柱を祀っています。

住所に牧が出て来ます。
この牧の地下に良質の燃料があったとすると、
製鉄のための格好の資源を渡来人たちが発見して定住したという推測が出来ます。
ここは神々の交代劇があり、渡来人たちが技術を持って来た事が書かれています。

その近辺の地図を見ると、こちらとよく似た地名が散見します。
長野といえば安曇族が行った所でもあります。
私は長野の安曇族はスズ鉄を求めて山に分け入ったのではないかという仮説を持っています。
倭人たちには金より銅より鉄が一番なのです。

さて、話を戻しましょう。
この荒船神社も社前の宝満川がかつて「あら舟川」と呼ばれていたことから、
ここは製鉄に関わる資材や製品を運搬する舟々を監視する所ではなかったのかと
いう思いが生まれました。

c0222861_13374988.jpg

境内からは宝満川がよく見えます。
う~ん。ここはやっぱり船着場?
(つづく)


※メールやコメントへの返事が遅れています。
待っててくださいね。








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by lunabura | 2012-09-03 13:41 | 神社(ア) | Trackback | Comments(0)

荒船神社(1)阿志岐山城の麓の宮


荒船神社(1)
福岡県筑紫野市阿志岐手原1051
阿志岐山城の麓の宮

♪ 思いすごしも恋 それでもいい 今のうち~ ♫
そんなサザンの歌ではないけど、今回は勘違いからスタート。

この荒船神社の存在はくるま座さんから聞いたのですが、
私は彼の話を聞いて、これは船着場だと勝手に思い込んだのです。

そして行ってみてびっくり。
国道35号線を曲がると私があれほど撮りたかった宝満山のビューポイントがありました。
宝満山が見事な神奈備山に見える所だったのです。
車を止めて見回すと360度の展望に興奮。まずはご覧あれ。
ここは阿志岐(あしき)なのです。

c0222861_23405753.jpg

中央が宝満山(829m)。
宝満山御笠山とも呼ばれるので、「御笠の山に昇る月かな」と洒落てみたいけど、
残念ながら真北なので、月は昇りません。

c0222861_23454336.jpg

これは西~南西の方向。夕陽が沈む方向です。
左から基山?中央の奥が背振山。右手前が天拝山?
(地図を見ながら当てはめました。違ってたら教えてね。)

c0222861_2346329.jpg

そして、これが東。宮地岳です。
そう。最近ニュースになった阿志岐山城がある山です。
かつてはこの山も御笠山と呼ばれていた証拠がくるま座さんの地道な研究で3つほど見つかりました。

この山は場所によっては三角錐の神奈備型に見えるのですが、現地ではそうは見えませんでした。

そして今日、目指す荒船神社はこの宮地岳の右端です。
銀色の三角屋根がキラキラと見えているのが分かりますか。

c0222861_23463994.jpg

車に戻って道なりに進むと橋に出ました。宝満川です。
ここで散歩している人に神社を教えて貰いました。
ここからも銀色の三角屋根が見えています。
橋を渡って右折してすぐのはずですが、鳥居が道沿いに無いので、
行き過ぎてしまい、往復するうちに、ある角度から鳥居が見えて、やっと行き着きました。
民家の庭を通って行きます。これしか道はありません。

c0222861_2347381.jpg

正面に廻り込むと、いかにも古社の風情。

c0222861_2347208.jpg

扁額に荒船神社と書いてありました。明治時代の築造です。

c0222861_23473991.jpg

石段は急です。

c0222861_23475623.jpg

石畳がいい味を醸し出しています。

c0222861_23481660.jpg

拝殿に上がって参拝しました。
ところが御祭神が分かりません。

いつもの『福岡県神社誌』を見るけど、掲載されていません。
こんなの初めて…。
資料館に行って、筑紫野市史を見たのですが、不明神だと言う事が分かりました。
荒船社(阿志岐)
阿志岐の宝満川沿いの小高い丘の上にある。『続風土記付録』によれば、この社があるところはヤクジンモリ(疫神森)と呼ばれていた。側を流れる川を当時は「あら舟川」といい、そこから荒船社と名付けられたようであるが、地名から推測するに本来疫神を祀った社であったと思われる。

もともと疫神は治病、あるいは災害防除の神として祀られる例が多く、はやり病などに効く神として信仰されている。現在地元では牛馬の神として信仰されており、疫神としての性格は伝えられていないが、明治時代には雨乞いに効く神とされ祈願に訪れる参詣者が多かったそうであり、災害防除としての疫神の性格を窺い知ることが出来る。

念の為にくるま座さんにもう一度確認。
1月15日近くのどんと焼きの祭の時に氏子さんに尋ねたそうです。
今の若いもんは信じないだろうが、唐の船が行ったり来たりした。
江戸時代まで疫神社だったが明治になって本来の荒船神社に戻った。
下を流れる宝満川をエキジンフチと呼んでいた。

この時点で、船着場だというのは私の勘違いだと判明しました。

それにしても…「唐の船が通った」とは。
赤司八幡神社でも全く同じ言葉を聞いた事を思い出したのです。

もっと具体的に何か分からないだろうか。
そう思うのですが、行き止まりです。

それでも、シンクロニシティーの神は私に微笑んでくれました。
(つづく)


地図 阿志岐 荒船神社








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by lunabura | 2012-08-30 23:54 | 神社(ア) | Trackback | Comments(11)

粟島神社・神功皇后の鎧かけの松


粟島神社
あわしまじんじゃ
福岡県朝倉市日向石
神功皇后の鎧かけの松の伝承があった 


私たちはいったん駐車場に戻り、秋月の城下町の中の道を通って移動しました。
秋月は「杉の馬場」から路地に入ると、江戸時代の空間が残っていて
武家屋敷などが店になったりしてとても面白い所ですが今回はパスです。
(皆さん是非探検してね。)

城下町を出ると秋月八幡宮のある山を廻り込みながら寺内ダム方面へ。
「秋月から寺内ダムに抜けられるの?」
「うん。もちろんよ。」
「そうなんだ!」
私が想像した羽白熊鷲の逃走ルートを車は走って行きました。

小石原川が緩やかに流れて、小さな盆地を形成しているような地形の中を走ります。
標高は高いまま、フラットな土地が開けていました。
右に左に、気になる形のいい山が。
「ほら、あそこ。」
「え?どこどこ?」
「山の所。」
示された左の丘を見ると石段が見えました。

c0222861_1132158.jpg

近づくと車道には大きな石碑もありました。

c0222861_1134681.jpg

舗装してあるけど農道みたいでそのまま畑に入り込む道です。
車で入ると、延々とバックで戻ることに。

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歴史ある石段!

c0222861_1141686.jpg

すぐに御堂があって、覗くと歩けないほどの急な石段が。
あれ?ここには何も祀られていない。
正面を上るのが、はばかられて見回すと左に石段があったので、そちらを上りました。

c0222861_1143462.jpg

振り返るとこんな景色です。
石段に手すりがついているのでここを上ってよかったんだ。
そして先を見るとまた御堂。そして左右にも石段。
どうなってる?

結局どれを通ってもよかったのです。
でも、地元の人にだけ分かる参拝の仕方があるんでしょうね。

c0222861_1153921.jpg

拝殿に出ました。
ここは神仏混淆の神社のようで、信仰が盛んなようすです。
由緒書きがありましたよ。
粟島神社の御神体である粟島大明神はその昔、神功皇后ゆかりの鎧かけの松の根元に祭られていたと言われ、寛政10年頃、石造りの神殿に納められ拝殿は嘉永年中に建立されたと言い伝えられ、霊験あらたかな神として今日まで永く信仰を集めてまいりました。
 近年拝殿の老朽化が激しくなりその左上方の土地を隣接者の御協力を得て造成を行い、又多くの方々の御寄附を頂き、ここに新しい神殿の建立に至ったところであります。

粟島大明神は女神にして腰より下の病に特に利玉有り子宝、安産の神と言われております。
又粟島神社は少彦名命大己貴命を共に祀り諸病平癒、商売繁盛を祈る神社であります。粟島神社の大祭は3月3日で毎月3、13、23日が成願日となっております。
この新しい神殿を期に御参拝の皆様がさらに大成願成就される事を祈ります。

 平成12年(西暦2000年)12月吉日

神功皇后の鎧かけの松の伝承が書かれていました。
場所は拝殿の下の古い境内のようです。

c0222861_1165524.jpg

少し探したのですが、場所は分かりませんでした。

c0222861_1171496.jpg

帰りながら境内から川の方を撮りました。日本の原風景のような光景です。
神功皇后もさすがに鎧を身に付けていたのですね。
同じ光景が見えたでしょうか。

c0222861_1173944.jpg

下りて山の方を撮りました。この山のどこかに羽白熊鷲がいます。
そして、皇后軍の別動隊も佐田川を遡ってあの山に向かっているはずです。

古代は敵の居場所も味方の居場所もどうやって分かったのでしょうか。
ここに立つと、皇后軍には地理が分かる案内人がいただろうと思えました。

マーサに尋ねました。
「帰りは寺内ダムを取ってもいい?地理関係が知りたい。」
「いいよ。すぐそこよ。」
こうして、皇后軍のルートをそのまま走って行きました。

c0222861_11839.jpg

これは境内にあった石。地名は日向石
古代祭祀線が気になる場所でした。





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by lunabura | 2011-12-16 11:13 | 神社(ア) | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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