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カテゴリ:(カ行)神社( 29 )

加茂神社(2)七郎大明神



加茂神社(2)


七郎大明神


それぞれ名前の違う複数の鳥居の中に、「七郎大明神」というものがあった。


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「佐賀県神社誌要」を見てみると、七山では見当たらなかったが、
小城郡西多久村大字板屋の「七郎神社」の縁起が載っていた。

その祭神は「稚武王尊、海童神」となっていた。
仲哀天皇の弟王とワタツミの神だ。

「七郎」とは稚武王を指すのだろう。

縁起の一部を引用する。

当社は神功皇后三韓征伐の際、
武将として渡海せられたる、仲哀天皇の弟・稚武王が、
凱旋後、三韓守護の為、平戸に宮居し、
ついに同所に薨せらるるにおよび、
その霊を勧請して、志々伎神社と号し奉祀せしが、
その後、西多久村の頭領二人例夢に感じて平戸に至り、
神霊を奉して帰村し、社殿を建立して勧請せり。(略)(一部変更)

稚武王(わかたけ)は仲哀天皇の実弟で、武将だったが、
三韓征伐の帰国途中、
警護の名目で平戸島に降ろされて、そこで亡くなっている。
その霊を祀るのが志々伎神社(ししき)だ。

警護の名目ながら軍隊は付けられなかったという。
島流しだった。
島から出ることなく亡くなった稚武王は哀しみの王だったのだ。

王が平戸に降ろされたのは、王に皇位継承権があったからだろう。

王の父親は日本武尊だった。
崩御したばかりの仲哀天皇と同じ父親だ。
次の天皇に一番近い位置にいた。

天皇の崩御は隠されたが、
姿を見せない天皇に、崩御の噂は絶えなかっただろう。

神功皇后は懐妊した。
皇后に男子が生まれれば問題が生じることは目に見えていた。

天皇崩御後、その代わりに国内戦を連戦連勝した皇后の人気は絶頂に達し、
皇后を旗頭とする体制が整ってしまっていたこの時期に
稚武王の存在は取り巻きの実力者たちには目障りだったに違いない。

三韓から戻って来た皇后の軍船は有明海経由で風浪宮に姿を現す。
長崎まわりで遠回りしながらの帰国だ。

その船団に乗っていた稚武王はきっと突然降ろされたのだろう。
何が起こったのか、分からないまま、船は遠ざかって行った。

どれほど無念だったか。

それから何百年経ったのかは分からないが、
多久村の二人の頭領の夢に稚武王が出て来た。

頭領たちは平戸に行って、稚武王の神霊を勧請して村に祀った。


七郎神社には海童(わたつみ)神も一緒に祀られていることから、
西多久村には安曇族がいたと考えられる。

海の中道にある志式神社にも稚武王が祀られているが、
同じ背景だと推定している。




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さて、この話から、加茂神社に合祀された七郎大明神とは
稚武王だろうと推測した。

もうそんな話を覚えている人もいないのだろうが、
こうして思いを馳せる人間が平成にいるのも、
悪いことじゃないだろう。

そう。
このブログの読者もまた、こうしてその哀しみを知った。



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by lunabura | 2016-08-01 23:27 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(5)

加茂神社(1)七山滝川



加茂神社(1)

七山滝川



さて、唐津市七山の玉島川を挟む二つの「かも」神社。
滝川の方は「加茂」という表記になっていた。





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微高地ではあるが、対岸の賀茂神社に比べれば平地の印象だ。
人里の中にある。







鳥居がいくつもあって、それぞれに違う名前が彫られているので
ここも周囲の神社が合祀されているのだろう。






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これが加茂神社の鳥居。





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拝殿には神紋は見当たらない。
祭神は「佐賀県神社誌要」によると、
加茂別雷神、加茂次郎義賢、素戔嗚尊、天神七代、天忍穂耳尊
となっている。

加茂次郎義賢が祭祀されている事情は
「加茂次郎義賢、肥前守に任ぜられ、安元二年八月下向して
暫時此処に止まりたり。義賢逝去の後、里人其徳を欽慕し、
加茂別雷神と共にその霊を祀りて産土神と斎き奉れり。」

とあり、1176年に加茂次郎義賢が肥前守となって下向して、
しばらくここに止まったことから、里人がその霊を祀ったという。
その時、加茂別雷神を祀った。
他の神々は合祀したとある。

合祀された神々の顔ぶれが
「素戔嗚尊、天神七代、天忍穂耳尊」という点、
この地域にこのような組み合わせで祀られていたのが不思議な感じがした。









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神殿の裏に石段があるので、稲荷ではないかと上ってみると、やはり稲荷だった。






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円錐形の丘の上に平地があり、何度も見て来た稲荷の地形だ。
賀茂神社で製錬された鉱物はこちらで武器や農機具を作り、
保管したのではないか。

そうすると、加茂次郎義賢が下向する前からあった地形ではないかと思われた。


ここには早くから賀茂氏が入植して活動していたが、
のちに京都から改めて勧請されたのではないか。


七山では「がも」という発音があるそうで、
「賀茂」と「加茂」の書き分けもあるので、
「がも」と「かも」と言い別けをしたのだろうか。
二つで一組だろう。
この二つの「かも」神社がいかにも古社の形を伝えているように思われた。





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境内からの眺め。
(つづく)



加茂神社






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by lunabura | 2016-07-30 22:29 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)

賀茂神社(3)八咫烏



賀茂神社(3)

八咫烏
 

神殿の裏に廻ると絶壁になっていて、
その真下では急な流れが飛沫を見せていた。




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水だ。
水こそ冶金の民に必要なものだった。



急斜面にある参道は川から吹き上げる季節風の道でもあったのだろう。
ここで賀茂の民は汗を流して金属を作り出した。
地形から確信した。



真鍋によると、賀茂の神は蹈鞴の名人だったという。
高温の火を見つめる時、片目で見ていた。
それが一目(ひとつまなこ)の神と呼ばれるゆえんだった。

彼らは八咫烏を伴としていた。
八咫烏とはカササギの一種で、
それを見ては干潟の冠水のようすを観察していたという。

のちに八咫烏が賀茂氏のトーテムとなり、
「八咫烏といえば賀茂氏だ」という共通認識が出来たということになる。

日本書紀の時代は「八咫烏」といえば賀茂氏を暗示し、
「海童」(わたつみ)といえば滅びた安曇族を指すのを
共通の認識としていたのだ。

八咫烏は鉱山を渡り歩き、奥深い山の道を知っていた。
だから、神武天皇が霧に迷って困っていたとき、山道を道案内したのだ。

そこで出くわしたのは、光る井戸から出てくる尾がある人、
岩を押し分けて出てくる尾がある人たちだった。

井戸も押し分ける岩も、坑道があったことを暗示している。

尾がある人。
鬼のパンツは虎の皮でできているが、鬼と呼ばれた鉱山従事者たちは
獣の皮を腰に巻いてどこでも座れるようにしていたのだろう。







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山伏もまた然り。








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ツタンカーメンもまた尾のついた皮を纏っていた。



・・・しっぽがあるほうが個人的には好きだ(´・ω・`)




「鬼」という言葉は、当時は「神」と同じ意味だった。
「卑弥呼が仕えていた鬼道」という例があるように。






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賀茂神社の長い参道を下っていくと「七ツ枝川」の標柱があった。

東京から来ていたMさんからの知らせでは
地元の人に、「七山の七は北斗七星だ」と教わったそうだ。


そうか。

七支刀が物部氏の神社にあり、雷神の神力を仰ぐもので、
そのデザインの元が目に薬効のあるヒカゲノカズラだと分かったが、
何故七つの枝なのか、理由が見つかっていなかった。


これが答えではないか。

七支刀は北斗七星の精霊もまた宿す物だったのだ。


北斗七星は横になると「一目」となり、
縦になると「足一騰」となる。
まさしく賀茂氏の姿そのものだ。

物部氏と賀茂氏の深いつながりをここに見た思いがした。







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by lunabura | 2016-07-26 21:33 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(4)

賀茂神社(2)景行天皇も来ていた



賀茂神社(2)
唐津市七山藤川
景行天皇も来ていた





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七山には二つの「かも」神社があり、
「賀茂」と「加茂」の書き分けがなされている。
下の地図を拡大するとよくわかる。






玉島川の北にある賀茂神社が、(1)に挙げた神社だと
チェリーさんの指摘で分かった。



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主祭神の「賀茂別雷神」について、掲示板の由緒書きには
「雷の御神威により、厄を祓い災難を除き給う厄除の神として
広く信仰されている」
とある。
この神は父が誰か分からなかったが、のちに雷神と判明する。

その母、玉依毘売も相殿に祀られて、
「母神、玉依毘媛命は沐浴のとき、
川上から流れ来し一本の丹塗の矢を授かられたところ、
一夜にして御祭神、賀茂別雷命を身籠られた」とある。

よく似た話があった。イスケヨリ姫だ。

母と丹塗矢に化身した大物主との間に生まれた。
だから神の子と言われた。

イスケヨリヒメの又の名、ヒメタタライスケヨリヒメに
「タタラ」が含まれるように、製鉄の暗号を秘めた姫神である。

そして、賀茂氏もまた製鉄、鍛冶の民である。

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ほぼ同じような世代にこのような神語りがあったのは、興味深い。




これは、日本神話の解釈は稲作でなく、
鉄や銅の物語で解く必要があることを教えている。

この玉依毘売の父が建角身命で、由緒書きには
「賀茂県主族の祖神で、霧に迷われた神武天皇の軍を
八咫烏となられ、道案内された」
とある。

賀茂氏が古代から、のちの天皇家と深いつながりがあったことを示している。




さて、掲示板には宮の由緒がさらに書かれている。

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「延暦15年(796)に京都の上賀茂社と下賀茂社を勧請した」
とするが、ここにはもっと古くから賀茂氏が入植していたことが
掲示板の続きを読めばすぐわかる。

景行天皇の時代にここに県主(賀茂氏と思われるが)がいて、
天皇がやって来て歓待しているのだ。
その時、雷が鳴り出して一晩中鳴り響いたために雷神を祀るようになった。

これは賀茂氏の信仰する雷神が喜んでいたからだ。
だから、景行天皇が格別に祀った。

これらから、ここには古来、原始的な雷神祭祀があっていたが、
改めて延暦15年に京都風の祭祀形態が取り込まれたという事が分かる。

これは筑紫の神社でもよく見かけるパターンだった。



さて、何度か書いているが、
真鍋は賀茂の祭・葵祭が脊振山で行われていたのを
天智天皇が見て、京都でも行うようになったという。

この脊振山の葵祭がどこで行われていたのか探さねばならなかった。

脊振山は祭神は市杵島姫(弁財天)なのだ。

賀茂神社はどこにあるのだろう。
そう思い続けていたが、
こうして予期せずにこうして七山の賀茂神社に案内された。

七山の賀茂神社は脊振山系のはずれにあるので、
これが天智天皇が見た祭りの場かどうかわからない。

しかし、周辺には景行天皇ののち、神功皇后の足跡も見られ、
天皇家に友好的な土地柄だったことは確認できた。

(つづく)












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by lunabura | 2016-07-16 23:03 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(11)

賀茂神社(1)唐津市七山藤川



賀茂神社(1)

 唐津市七山(ななやま)藤川
急斜面の山上に鎮座する宮



人に連れられて来たので、いったい何処なのかさっぱり分からない。
ただ、唐津市七山であることは間違いない。

ネットの地図で確認すると賀茂神社と加茂神社が玉島川を挟んで鎮座している。
今回紹介するのは、七山藤川なのだろう。


場所が特定できないために、神社の記事が書けずにいた。
もう三ヶ月も迷っている。

この記事を投稿したあと、違っていたら訂正してもらうことにして、
先に進むことにした。

佐賀県唐津市七山藤川1558
の賀茂神社として話を進めたい。




七山村は唐津湾にそそぐ玉島川を遡ること6キロほどの所にある。

玉島川といえば、神功皇后伝承のある玉島神社が鎮座しているが、
それを右に見て、四キロほどの所に七山村がある。

七山村は今では唐津市に編入されているようだ。
中央を玉島川が流れている。
いかにも水運で古代に栄えたような、雅な風情が残っている町だ。

まずは高所にあった賀茂神社を参拝した。


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車でいきなり神社の前に出ることが出来るが、かつては徒歩だったのだろう、
石段の長さは半端ではない。







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主祭神は賀茂別雷命。








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賀茂氏の玉依毘売の子神だ。


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佐賀県唐津市七山藤川





(つづく)








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by lunabura | 2016-07-15 23:35 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(4)

賀茂神社(6)賀茂大神は古出雲と水沼のハイブリットか


賀茂神社(6)

賀茂大神=賀茂建角身=八咫烏=阿遅鉏高日子根

古出雲と水沼のハイブリットか



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当社社伝に書かれていた宇佐(安心院)と浮羽を行ったり来たりしています。
浮羽の縁起に符合する歴史が安心院にあって、伝承の確かさに今更ながら感じ入っています。

さて、当社の四祭神のうち、神武天皇のことが確認できましたが、今日は残りの三祭神について考えて見ようと思います。特に、「玉依姫」は神武天皇の母と、賀茂別雷尊の妻・玉依比売という同名別神がいるので、それも頭に入れながら見ていきます。

ウィキペディアに書かれている当社縁起は
当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、
神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と述べている。(略)

でした。
御祭神は
神日本磐余尊(神武天皇)
賀茂別雷尊
賀茂建角身尊
玉依姫尊


「賀茂別雷尊、賀茂建角身尊」という賀茂の神は初めての神々なので、調べてみると、「山城国風土記逸文」からの引用文が基礎資料となっているので、それを書き写して見ることにしました。

文中に出て来る「加茂の社」とは京都の下鴨神社のことです。

山城の国の風土記にいう、―――加茂の社。加茂と称するわけは、日向の曾の峰に天降りなさった神賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)は、神倭石余日古(かむやまといわれひこ・神武天皇)の先導として御前にお立ちになって、大倭の葛木山の峰に宿っておいでになり、そこからしだいに移動し、(略)

賀茂の建角身命は、丹波の国の神野(かみの)の神伊可古夜(いかこや)日女(ひめ)を娶ってお生みになった子を、玉依日子と名づけ、次を玉依日売といった。玉依比売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていた時、丹塗り矢が川上から流れ下ってきた。そこでそれを持ちかえって家の寝床の近くに挿して置くと、とうとうみごもって男の子を生んだ。

(その子が)成人式の時になると、外祖父建角身命は、八尋の家を造り、八戸を堅く固めて、八腹(やはら・沢山の酒甕)に酒を醸造して、神をつどい集めて、七日七夜宴遊なさって、そうしてその子と語らっていうには「お前の父と思われる人にこの酒を飲ませなさい」と。

するとただちに酒杯をささげて天に向かって礼拝し、屋根の瓦を突き破って天に昇ってしまった。そこで外祖父の名によって加茂の別雷命と名づけた。

いわゆる丹塗り矢は乙訓(おとくに)の郡の社におでになる火雷命(ほのいかづちのみこと)である。(略) 『釈日本紀』

吉野弘訳より

神賀茂建角身命の娘の玉依比売が丹塗り矢を持ち帰ると妊娠して子が生まれたが、父が分からず、神々を集めて子供に「父に杯を」と命じたら、天を指し示したという話です。これで父が雷神・火雷命だったを分かり、子供の名前は賀茂別雷命となったということです。

そうすると、登場した「父と娘とその子」の家族が当社に祀られていると考えてよさそうです。玉依姫とは風土記の玉依比売のことでしょう。書き分けのため、神武天皇の母を玉依姫、賀茂建角身命の子供を玉依比売とします。

社伝では「神賀茂建角身命は、神倭石余日古(神武天皇)の先導として御前にお立ちになって」とあるので、「父の賀茂角身命が八咫烏」ということになります。

ところで、その降臨の地、日向の「曾」とか、大倭の「葛木山」とか、見ていると、「ソ」=脊振山に天降りして、犬鳴山系の葛城に移動したと読めて仕方がありません。

脊振山こそ賀茂神社の発祥の地((儺の国の星p68)と真鍋も伝えているし、葛城山系と言った犬鳴山系には蹈鞴の歴史があるし。

ここ、浮羽を押さえると、平群(脊振山系)、葛城(犬鳴山系)、巨勢(耳納山系)と、重要な三山が掌握できるんですね。これらの地名が神武東征と共に、関西に移動したと考えるのが自然でしょう。

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賀茂氏には東征に付いて行った一派と、浮羽に留まった一派がある、と捉えるのがよさそうです。

以上から賀茂大神とは賀茂建角身のことで八咫烏だという結論になります。

一方、今日、たまたま『古事記』を読んでいたら、大国主の子供にも「迦毛大御神」が出て来たんです。

大国主の神は胸形の奥津宮にいらっしゃる多紀理毘売を娶って生まれた子は阿遅鉏高日子根神。(あぢすきたかひこね)次に妹高比売の命。別名、下光比売命。(したてるひめ)

この阿遅鉏高日子根神は今、迦毛大御神(かものおおみかみ)と言うぞ。

風土記と『古事記』を合体すると、
賀茂大神=賀茂建角身=阿遅鉏高日子根となり、両親は「大国主と多紀理比売」となります。

もちろん、多紀理比売は三女神の一人ですが、筑紫の平群・葛城・巨勢に囲まれたエリアには水沼族がいます。その降臨地は赤司八幡神社で、三女神の中でも田心姫(たごり)を中心として祀っています。

拝火教であるゾロアスター教について、
本朝では穴遅(あなむち)として神代に現れ、天平の頃は穴師(あなし)あるいは賀名生(あのう)と呼ばれ、溶鉄錬金の橐師(たくし)工人の氏族の別名となった。)『儺の国の星』143

と真鍋は書いています。大国主=大己貴なので、賀茂大神は古出雲と水沼族のハイブリットだったという結論になってしまいました。

でも、これって、古代の筑紫をよく説明しているような感じがします。
遠賀川~玄界灘の古出雲と古有明海の水沼。筑紫の君を輩出する家系。

この古出雲―水沼の連合国が別の冶金集団の高木一族と対立していたのではないかなあ。

神功皇后の夫仲哀天皇の死後、皇后は羽白熊鷲率いる冶金集団を滅ぼしまたが、残る敵である熊襲に対しては吉備臣の祖・鴨別(かのもわけ)を遣わして攻撃させています。熊襲は簡単に降伏しました。

神武の東征ルートを考えると、吉備にも繋がってきて、吉備があれほど栄えたのも、また、同じような装飾文様があるのも、賀茂氏をキーワードとして見ると、見えてきそうな予感です。

当社の祭礼に広範囲の氏子衆が参拝するのも、中央の水沼族を考慮すると理解できました。

『神功皇后伝承を歩く』をお持ちの方は、
下巻56 赤司八幡神社
下巻78 大善寺玉垂宮
上巻33 御勢大霊石神社
を御覧ください。






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by lunabura | 2015-09-04 21:14 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(2)

賀茂神社(5)三毛入野命の末裔の宮


賀茂神社(5)

三毛入野命の末裔の宮


町誌を見ていると「三毛入野(みけいりの)命の裔」という文字がさりげなく二か所に出てきています。
???
どこかで聞いた名前だな。

そう思って調べると、神武天皇の兄でした。
『日本書紀』によると、
三毛入野命はイワレビコ(神武天皇)たちと共に東征する途中、海難に遭い、常世の国に行ってしまいます。

その時の恨みの言葉が「私の母や叔母は海神(わたつみ)なのに、どうして波を立てて溺れさせるのだ」です。

この時、もう一人の兄、稲飯(いなひの)命も「我が祖は天神、母は海神。どうして陸に海にと、翻弄するのだ」と嘆いて剣を抜いて入水します。

海神とは即ち、安曇族。
二人の母と叔母とは即ち、玉依姫と豊玉姫のことです。

これを踏まえて町誌を読んでみましょう。

由緒
当社については、迦毛大御神御神跡で賀茂社の総本社に座すという伝など諸伝があるが、藩内通俗諸書の述べるところでは、後村上天皇の御代正平元年(1346)に西征将軍懐良親王が領主三毛入野命の裔山北四郎永高に命じて、九州鎮護のために、山城国愛宕郡賀茂下上大神宮を勧請されたのが創始である。(略)時の大宮司は熊懐平馬太輔行景であった。(略)

「領主・三毛入野命の裔」と出てきました。時代は1346年。懐良親王が来た時の話です。

迎えた領主・山北四郎永高は三毛入野命の末裔だったのです。町誌では、この時、京都の賀茂神社を勧請したのが創始であると書き、古伝はバッサリと切り捨てて、内容が一行も書かれていません。

 しかし、ウィキペディアに誰かが書いて置いてくれたお蔭で、私たちは縁起を知る事が出来ました。その出所は当社の古文書です。

 で、今回のテーマは「三毛入野命の末裔が当地の領主だった」ということです。

これを推理すると、神武天皇が安心院から浮羽にやって来た時、実は兄も一緒だったのではないでしょうか。

賀茂氏が姫を三毛入野命に娶(めあわ)せたとすると、その子供が代々、当地を治めたということになり、辻褄が合います。

イワレビコは安心院では侍臣の天之種子を水沼の姫と結婚させていました。こうして、各地で姻戚関係を結ばせることによって、着々と支配体制を固めていきました。

その後、軍備が整うと、三毛入野命とイワレビコ命は共に安曇族の船に乗って、東征したのでしょう。

浮羽では、賀茂氏と天孫族は協力関係の絆を太くしました。


さて、町誌によると、境内には箱式古墳や有紋土器が散在していたとあるので、確認してきました。

境内は整地されていて、その様子は分からなかったのですが、気になる丘の方に行ってみると、おびただしい古墳があったのです。


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三王神社とあります。




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石碑を撮って一歩下がった時、穴に足を踏み入れそうになりました。
見ると、石棺の蓋がずれています。向こうにはマウンドが並んでいます。
ここは古墳群だったのです。


ここは賀茂氏の領土なので、聖地のそばにある古墳群は代々の賀茂氏の長のものかもしれません。

それは、賀茂氏でも、三毛入野命という神武天皇の兄の系譜となります。もちろん、安曇の系譜でもあります。

当社の4月11日の例祭には京都の葵祭の規式によって神幸が行われているそうです。

12月11日の氏子祭には、往時は生葉、竹野、筑前上座、下座、夜須の社家が集まって奉仕したそうです。上座、下座(朝倉)夜須までもが当社の氏子だとすると、かなりの広範囲です。

そして、その範囲こそ、神功皇后が羽白熊鷲討伐で通った古代路と重なるのです。

夜須では大本営、松峡(まつお)八幡宮を設営しています。いったい、どんな豪族が協力したのだろうかと、考えていました。

賀茂神社の縁起から、三毛入野命の末裔と協力関係があった豪族だったのが分かりました。




「神功皇后伝承を歩く」をお持ちの方
「羽白熊鷲のとの戦い」
40番砥上神社から、51番美奈宜神社まで、通してお読みください。
松峡宮(大本営趾)から秋月野鳥(のとり)の熊鷲を攻撃、滅ぼして朝倉へ降りて来る道筋を描いています。







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by lunabura | 2015-08-23 16:41 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(2)

賀茂神社(4)鉱物資源を求めた渡来人たち


賀茂神社(4)

鉱物資源を求めた渡来人たち


ふたたび、うきは市の賀茂神社に戻ってきました。



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同じような朱色です。

ウィキペディアに書かれている当社縁起は
当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と述べている。(略)

となっています。
御祭神
神日本磐余尊(神武天皇)
賀茂別雷尊
賀茂建角身尊
玉依姫尊

はっきりと、「賀茂別雷尊、賀茂建角身尊」と、賀茂の神が祀られています。安心院の足一騰宮のケースから考えると、玉依姫はやはり、神武天皇が母を祀らせたのかもしれませんね。

神武天皇の移動ルートは安心院から浮羽へと縁起は伝えています。その様子を推理しました。

浮羽の賀茂氏は神武天皇がやってくる以前から、筑紫を貫流する「ありなれ川」が流れていた頃に、船で筑後川の上流に辿りついて産鉄に取り掛かり、地元の水沼族や北部の安曇族と連携を結んで交易を行い、安心院にもその勢力を延ばしていた。


一方、山幸彦の一派が安曇族に通婚し、玉依姫にイハレビコ(神武天皇)が生まれた。イハレビコは成人すると、安心院や浮羽(うきは)を回って武器生産のようすを視察した。

この時代は船にミサキカラス(八咫烏・カチガラス)を載せて干潟や湖沼のようすを調べさていていた。賀茂氏は「先導するもの」として、八咫烏というトーテムで呼ばれた。

そんな流れでしょうか。

賀茂氏の製鉄技術と、安曇族や水沼族の運搬力が早くからシステム化されて、日本の各地を開発していた姿が見えてきました。

その代表例が長野の安曇野です。
また、阿蘇の盆地でも、湖沼の水を抜いて葦原にして、鉄を産し、のちには水田化させています。阿蘇は神武天皇の次男、三男が開発に関わったので、「鉄を統べる者は倭国を統べる」ような状態だったのでしょう。(統(す)べる)

スズ鉄の生産は葦を燃やせばいいので、環境をそれほど破壊しなかったのですが、砂鉄による製鉄は山の木を切り倒して燃やすために、伐採された山はがけ崩れが起こり、水田は土砂で埋もれ、自然災害を伴うような産鉄でした。良質の砂鉄が採れる糸島や熊本の海岸部ではその方法で鉄器を作っていました。

渡来人たちが倭国を目指して来た目的に、鉄や金や銀、水銀があったのがくっきりと見えてきました。それほど、鉱物には魅力があるのでしょうか。

現代人は月や宇宙にロケットを飛ばしていますが、その目的の一つに「資源の開発」があることを考えると、人類って何千年も変わらない性(さが)を持っているようです。



そろそろ転換期に来ていると思うんですがね。


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境内の狛犬。


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境内裏の小塩川。



地図 うきは市(赤) 安心院(青)







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by lunabura | 2015-08-20 21:58 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)

賀茂神社(3)足一騰宮2・賀茂氏と安曇族と水沼族と中臣氏の大連合


賀茂神社(3)
足一騰宮2

賀茂氏と安曇族と水沼族と中臣氏の大連合



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「足一騰宮」(あしひとつあがりのみや)という不思議な言葉も、「足が一つ騰がっている姿」即ち、「片膝立てた姿」と考えれば、それが何を象徴しているのか見えてきます。

「片膝立て」とは冶金の民が炎の色を見る時に取る楽な姿勢のこと。言い換えれば、ここには冶金の民がいたということになります。

ここで神武天皇を迎えた宇佐都比古、宇佐都比売は兄妹で三女神の神裔だといいます。(三女神社縁起)。水沼族は三女神を祀る氏族ですが、ここ安心院でも祀っていたことが分かりました。

神武天皇以前に水沼族は安心院(あじむ)に入植していたことになります。三女神社(二女神社)は水沼の聖地だったのです。川沿いにあったので、船着き場を掌握したのでしょう。

一方、神武天皇は磐座のある共鑰山(ともがきやま)に母・玉依姫を祀りました。そして、侍臣の天之種子命(あめのたねこのみこと)と宇佐都比売を結婚させました。それからこの地を「妻垣」(ともがき)と呼ぶようになったといいます。

天之種子命は天皇からここを守るように命ぜられ、その子孫・矢候(やこう・矢野)氏が代々社家を勤めていました。天之種子命については、当宮縁起にも『日本書紀』にも、中臣氏の遠祖と書いてあります。

こうして神武天皇は母の玉依姫を祀るための仕組みを作りました。それは安心院が安曇族の統治する地だという宣言でもあります。

「安心院」(あじむ)という地名は、玉依姫が霊界で「安楽の御心」になったことから「安心」院となったと当宮縁起には書かれています。少し無理があります。

「安楽」は大宰府の「安楽寺」という安曇関係の寺の名であり、「安心」(あんじん)には「安曇」(あんどん)の音韻変化がみられます。あるいは「阿知女」(あちめ)「アジメ」「アジム」と変化したのかも知れません。いずれにしろ「安曇」の発音の変化の一つでしょう。


神武天皇が宇佐に来た時は安曇族の海船に乗り、駅館川(やっかんがわ)を遡るのは水沼族の川船だったと思われます。

その目的は何か。
それはこの盆地がかつては葦の生える沼地だったことがヒントになります。
葦から採れる鉄はスズ鉄(リモナイト)です。

鉄を作るのは賀茂の民。
「足一騰」に象徴されていたのは賀茂の民です

水沼族の本貫地である久留米の赤司八幡神社から大善寺玉垂宮にかけての筑後川には、今なお葦が茂っています。その上流域にうきは市の賀茂神社があるのです。

「足一騰」は星にもその名が付いていました。
「足一騰星」と呼ばれたのは北斗七星です。

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北斗七星が横になった時の形を「一」と「目」即ち「片目」に見立て「一目星」(はなみのほし)とも呼びました。これは炎の輝きから視力を守るために、あるいは集中するために片目を閉じる「一目」(ひとつまなこ)のことです。

賀茂(かも)の語源は燕語の「一目」即ち「かなむり」の倭約で、「かなむり→かも」と変化したものだろうと真鍋は推測しています。その風貌は緑眼鼻高とも言っています。

「足一騰宮」とは賀茂氏の宮だたのでしょう。ここで鉄を生産し、武器を作っていたのです。その現場は隣の佐田神社の方です。

宇佐都比古と宇佐都比売は「三女神の神裔」だということですが、思えば、三女神のうち、二女神がオオナムチと結婚しています。それぞれに二人の子が生まれ、タキリ姫の方にはアジスキタカヒコネが生まれています。このアジスキタカヒコネこそ、「賀茂大神」と言われています。

思いがけず、系図からも賀茂氏の名が出てきました。

そして、中臣氏がここに結婚という形で残りました。中臣氏は祈りを司ります。水沼もまた神と人の仲立ちをする巫女の家系です。玉依姫を祀るための盤石の体制が整いました。

さて、この宮にはもう一つ、重要なものがあります。
馬蹄石の磐座です。

「龍の駒のヒズメの跡」(馬蹄石)といいます。「龍」とは明らかに海神のことで、神霊となった玉依姫がつけた趾とも言われています。

この「馬蹄石」が、久留米の高良山の磐座、神籠石にも残されています。

高良山に残る馬蹄石に関しては神秘書にこう書かれています。
高良大菩薩(この時は安曇磯良)がやって来たとき、山を支配していた高木の神が下って来た。高良大菩薩が証拠として神籠石に付けられた「馬のヒズメの跡の穴」を見せると、高木の神が納得して山を下ったとい内容です。

何故、高木の神が「穴」を見て納得したのか、理由が書かれていないので、当時の常識で、伝わっていない事情があるのだろうと思っていたのですが、どうやら「足一つ」という賀茂氏、あるいは安曇族を象徴するものの可能性が出てきました。
他に馬蹄石の伝承が見つかれば何らかの答えが出そうです。

安心院で見られた賀茂氏と安曇族と水沼族と中臣氏。
この連合が、うきは市の賀茂神社でも、高良山の麓でも見られます。

複雑ではありますが、婚姻を重ねることで、筑紫君が形成され、勢力を拡大していったと読み取る事もできますね。


※ガイドブックをお持ちの方。
「水沼が神と人を仲立ちする巫女を生みだす家系」については「下巻78大善寺玉垂宮」に。
タキリ姫とオオナムチの結婚については「下巻70楯崎神社」に書いています。







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by lunabura | 2015-08-19 22:47 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)

賀茂神社(2)足一騰宮1・神武天皇は安心院からやって来た?


賀茂神社(2)
足一騰宮1
 

神武天皇は安心院からやって来た?


賀茂神社、昨日再び行って来ました( ´艸`)

ここには神武天皇がやってきましたが、近くには景行天皇が来ています。そちらも確認したかったのです。

うきは市の賀茂神社は京都や脊振山よりも、はるかに古い伝承を持っています。

神武天皇や景行天皇の味方であり、鉄を産み出せるというで、天皇たちは武器調達のためにここまでやって来たのだろうと思われます。

ウィキペディアを見ると、ここ「山北」に来る前には宇佐にいたことが書かれています。

当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、

「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」

と述べている。(略)
(ウィキペディア)

この宇佐の方にも神武天皇の伝承が濃厚に残っているんですね。そして、実際に行ったところ、神武天皇がいたのは宇佐というより、安心院(あじむ)でした。

周防灘から駅館川(やっかんがわ)を遡って、水沼の君と関わる三女神社(二女神社)に上陸し、葦の生える沼を渡って足一騰宮(あしひとつあがりみや)に足跡を残しています。現在、足一騰宮は妻垣(ともかき)神社という社号に変わっています。

過去記事ですが、賀茂氏、八咫烏について考えるために、この足一騰宮(妻垣神社)のシリーズをしばらく再掲していきたいと思います。




 妻垣神社(足一騰宮)1
ともかき・あしひとつあがり
 神武天皇が母君・玉依姫を祀らせたという

三女神社の次に妻垣神社に参拝しました。
「妻垣」はいろんな読み方があるようですが、神社の由緒書に「ともかき」と書いてありました。

コメントによると、神武天皇三女神社から当社に向かったという伝承があるそうですね。
(同じルートを辿ったんだ!!)

三女神社(二女神社)は周防灘から駅館川(やっかんがわ)を遡上して
安心院(あじむ)盆地に入った時、最初に舟を泊めるような地形でしたが、
そこからさらに支流を遡上していったのでしょう。

平坦な地形から、当時は湖沼で、葦原だったのではないかと思われました。

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今はそこに青々とした稲が風にそよいでいます。
目指す妻垣神社は正面の烏帽子型をした妻垣(ともかき)山の三合目あたりにありました。

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一の鳥居です。かつては石段を登っていったのですね。
今はその横に車道が通っています。
ヘアピンカーブをぐっと登ると神門前に出ますが、駐車場はそれをやり過ごして先の方にありました。

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車から降りて神門に向かいましたが、この参道から入ると、
当社もまた横から参拝するような配置になっていました。

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一旦神門に出て、入り直ししました。

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深い紅色の拝殿です。
当社は二礼二拍手一礼です。
御祭神は
比咩大神(玉依姫命)八幡大神 神功皇后です。

当社は宇佐神宮を中心とした八ヶ社の一つですが、
このように、比売大神に関しては「玉依姫命」と明記してあり、他社と一線を画しています。

その由緒について、書き写しましょう。(一部改変)
妻垣山(ともかき山)は太古、比咩大神の御降臨された霊地にして、宇佐神宮第二殿と言われる。

八幡大神は称徳天皇、天平神護元年宇佐八幡、此の地に行幸、駐輦の地に同年十月八日、勅使石川豊成に八幡の神託有り、神殿を創建し奉祀。

神功皇后は淳和天皇、天長年間に御勧請し奉祀。 

この山は比咩大神の降臨地で、宇佐神宮の第二殿ということです。

当社が玉依姫を祀る事情について、さらに詳しく書いてありました。
足一騰宮
神武天皇、御東遷のみぎり、宇佐国造の祖、莵狭津彦、この処に宮殿を建立、奉賛餐せる旧跡で、当時、天皇、天種子命を以て、神武天皇の母后玉依媛命を祭らせ給う。

当社は比咩大神を祀って八幡社と号し、かつては普賢寺以下四坊の神宮寺を擁し、当郡、中津、島原の領民百余村の氏子を有し、宇佐郷の宗社として崇敬され今日に至る。

神武天皇が東遷の時に、莵狭津彦が宮殿を建てて、もてなした旧跡で、
天皇が母君を天種子命に祀らせたということですね。
それゆえに、比咩神とは玉依姫だということです。
思いがけないところで、玉依姫に再会しました。

さて、足一騰(あしひとつあがり)の宮。
この不思議な名前の宮は『古事記』に出て来ますが、
いつかは行って見たいとかねがね思っていた宮でした。

神武天皇と宇佐津彦の伝承と共に、こうして現地が残っているとは感激です。
『古事記』の神々から抜粋してみましょう。

イハレビコの命は同じ母から生まれた兄のイツセの命とお二人で、
高千穂の宮で話し合いました。
「どこに行ったら、平らかに天の下にあるこの国の政治をして、
臣下たちの奏上する話が聞けるだろうか。やはり、東に行こう。」
と言われて、日向を発って、筑紫に行きました。

そこで、豊の国の宇佐に着いたとき、
その国の人で、名前はウサツヒコ、ウサツヒメの二人が
足一騰宮(あしひとつあがりの宮)を造って、たいそうもてなしました。

そこから移動して筑紫の岡田の宮に一年滞在しました。
またその国より、上って、安芸の国の多祁理(たけり)の宮に七年刊滞在しました。
さらにまた上って、吉備の国の高島の宮に八年間滞在しました。

イハレビコが後の神武天皇ですが、母が玉依姫ですね。
イハレビコを迎えて食事をもてなしたのがウサツヒコ、ウサツヒメですが、二人は兄妹だそうです。

当宮から岡田宮に移動しています。
岡田宮は一宮神社という名で、熊鰐一族が現代に至るまで、
その磐境神籬(いわさかひもろぎ)を守っていましたね。

どちらもその神籬を守っているのですから、素晴らしいです。

神武天皇もまた、祖神を祀って神助を得る事が大移動の一つの目的でした。
ほかには、物部氏に迎えられて馬見山の祖神を祀りにも行きましたね。

そして、ここは?
縁起からは、神武天皇が玉依姫を祀らせたのですが、
もともと別の目的があって来訪したはずです。

当地は真鍋大覚の記述から、鉄を作っていた所と考えています。
神武天皇は武器の調達に来たのではないか。

それは「足一騰」という言葉そのものが教えていました。

(つづく)


妻垣神社




一宮神社や岡田宮については、ガイドブック上巻2に書いています。
サイドバーからもどうぞ。

安心院シリーズ全体を読み通すにはサイドバーの「宇佐・安心院トレッキング」からどうぞ。






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by lunabura | 2015-08-16 21:25 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(4)
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