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カテゴリ:(タ行)神社( 29 )

豊日別宮・大伴狭手彦と松浦佐用姫の子が祀った猿田彦大神



豊日別宮(草場神社)

大伴狭手彦と松浦佐用姫の子が祀った猿田彦大神
行橋市


朝鮮半島に渡る大伴狭手彦(さでひこ)を見送った松浦佐用姫(さよひめ)は
悲しみのあまり、そのまま石になったと言う。


ところが、コメントで、佐用姫は狭手彦との間に子供を設けている
との情報が入って来た。

その子供の一人が豊日別宮の神官になったという。

佐用姫は死んでいなかった!?
夫と一緒に暮らしていた!

しかも、あの豊日別宮に?
これは驚きだった。

そう、この神社は以前から注目していたのだ。

ずっと前に、ネットで、そこは大伴金村が引退した所という話を拾っていた。
しかし、文献史料が見つからず、前に進めなかった。
ネット情報だけでは、論は立てられないからだ。


大伴金村こそ、筑紫君磐井を死に追いやった黒幕ではないか。
私はそう考えるようになっていた。

だから、金村像を描くことは、磐井の乱の背景を見極めることになると思い、
もう何年も手掛かりを探していたのだ。


大伴金村と大伴狭手彦は親子に当たる。

ということは、松浦佐用姫は大伴家の嫁として迎えられて、
少なくとも三人の子を生んだということになる。

その三男が豊日別神社の神官となった。
名を神牟祢奈里(こう・むねなり)と言う。


ようやく参拝することが出来た。



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福岡県神社誌によると、ご祭神は豊日別命だ。


掲示された由緒書からまとめると、
欽明元年532年、猿田彦大神が老翁の姿で現れて
神官の大伴連神牟祢奈里に託宣して、翌日降臨したとある。

猿田彦は天照大神の分神で、
豊日別大神を本宮とし、猿田彦を別宮としたという。




なお、別の史料では、
猿田彦大神の託宣があったのは欽明天皇2年としている。

欽明天皇の即位年は諸説あるらしく、ウィキペディアによると、
541年となっているので、社伝の532年とはズレがある。


大伴金村の失脚した年を調べると、540年となっている。
ここからは、ウィキペディアの通説の年号で考察していこう。

欽明元年(540)、新羅がついに任那を奪ってしまった。
金村は外交政策の失敗を追及されて失脚する。
かつて512年の任那四県割譲事件の責任も問われた。

これをきっかけに大伴氏は凋落していったという。

しかし、この家系は万葉歌人の大伴旅人、家持を生み出している。
いや、彼らもまた軍人だった。
旅人は隼人の乱を鎮圧している将軍だ。

大伴氏は物部氏と並ぶ武門だった。

また、縁起には書かれていなかったが、史料には
厩戸皇子が587年に社殿を造営させたとある。

聖徳太子が社殿を建立したのだ。
背景を考えると、やはり大伴氏の軍事力が物を言ったのだろう。

朝鮮半島での戦いにおいても重要な位置をしめていたから
この宮を祀ることは格別の意味があったのではないか。

多くの情報に混乱しそうだ。

以下、『日本書紀』などの編年で年表を作ってみた。

●宣化2年(537)大伴狭手彦は松浦佐用姫と別れて渡鮮する。
●欽明元年(540)父・大伴金村は失脚する。
●欽明2年(541)大伴狭手彦の三男・神牟祢奈里に猿田彦大神の託宣があった。
●欽明23年(562)大伴狭手彦は再び渡鮮して高麗に勝利。
●用明2年(587)厩戸皇子が豊日別宮の社殿を造営させた。

ただし、当宮編年によると、
◆欽明元年(532年)猿田彦大神の託宣・降臨
となる。


以下はメモ
△金村の隠居地という文献はまだ確認できていない。
●当宮には勅使が来ていた。
●宇佐宮から朝廷に奉納する鏡は田川の採銅所村で鋳造され、当宮に立ち寄り、
当宮の神輿と共に中津和間の浜に向かった。


この宮は歴史の空白を埋める重要な宮だ。
聖徳太子(厩戸皇子)(574~622)が建立したという点でも
大事な宮である。

しかし、ここも、行橋市観光マップには掲載されていなかった。
当地は行橋市だが、かつては京都郡だった。
福岡県神社誌によると、京都郡祓郷村大字草賀字西の前とある。


この日、帰り道、ナビは猿田峠の道を示した。
そこにもまた、豊日宮と猿田彦神の組み合わせがあるのだ。

これはいったいどういうことだろうか。
またもや迷宮が待っているのか。





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by lunabura | 2016-05-17 21:51 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(7)

豊日社


豊日社
とよひ



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猿田峠のかたわらに鎮座する豊日社。


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長い眠りから覚めて集われた六柱の猿田彦さま。

今日はその一周年の神事に参加させていただきました。

その数日前「猿田彦は倭国の大神」と「豊日別神社」(行橋市)にあると知りました。

真実の歴史の再興のとき。
あたらしき枠組みの起こりのとき。

心強き神々の出現を寿(ことほ)ぐ。

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地図
福岡県宗像市吉留







2014年4月6日



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by lunabura | 2016-03-15 20:21 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(4)

高御魂神社・ 的物部の宮という


高御魂神社
たかみたまじんじゃ
 的(いくは)物部の宮という
旧浮羽町新川春園


前回までの賀茂神社のそば、西を流れる新川水系を遡りました。
浮羽大橋を通り、合所ダムの東の山間部を走ると、新川駐在所の前に
心魅かれる古社の鳥居が見えます。
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急な石段の上に高御魂神社は鎮座していました。


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祭神 高皇産霊神 たかみむすびのかみ
   天御中主神 あめのみなかぬしのかみ
   神皇産霊神 かんみむすびのかみ

この三柱は『古事記』でも初源に出て来る神々です。
町誌を見ると八代から勧請された宮だと書いてあります。

由緒
宇多天皇寛平7年(895)、肥後国八代郡大田郷の妙見宮を、熊抱平馬太夫行定が御伴してこの地に勧請した。

895年とは、当ブログにおいては比較的新しい宮です。
熊抱という姓は賀茂神社の大宮司としても出て来ることから、
当地全体の統治に関わっていたと思われますし、
高御魂神社と賀茂神社が深い関わりだということも分かります。

この高御魂神社はもともと妙見宮と称していたのが、
明治6年(1873)に」高御魂神社と改称しました。

これ以上のことが分からないので、はたして八代に妙見宮が存在するのだろうか
とネットで検索すると容易に出て来ました。

八代市妙見町405に鎮座しています。

祭神は天之御中主神、国常立尊、また、北斗七星です。
両宮を比較すると「天御中主神」が共通しています。

面白いことに、八代の方は795年に創祀されていました。
浮羽は895年。ちょうど百年を節目として勧請していることが分かります。

八代の方では次のような縁起を伝えていました。
妙見神の来朝
天武天皇、白鳳九年(六八〇)、妙見神は、神変をもって、目深・手長・足早の三神に変し、遣唐使の寄港地、明州(寧波)の津より「亀蛇」(玄武)に駕して、当国八代郷八千把村竹原の津に来朝せり。

妙見神は寧波(ニンポー)からの渡来神でした。
白鳳九年(680)と明記しているので、渡来人が亡命して来た可能性があります。
その渡来人の風貌が三神「目深、手長、足早」で表現されているのでしょう。

680年に渡来して、795年に上宮で祭祀されるようになり、
さらにその百年後に浮羽に勧請されたことになります。

895年以前に寧波からの渡来人の一部が浮羽の山奥に入植していて、
改めてその信仰神を勧請したと考えることが出来ます。

さらに八代の方をウィキペディアで調べていると、
次のような境外末社が出て来ました。
霊符神社
祭神 - 北辰星・霊符尊星
由緒 - 霊符神社(れいふじんじゃ)は八代神社の末社、鎮宅霊符神の総本社。

推古天皇のころ、百済国聖明王の第3王子琳聖太子が八代に日本最初の霊符神を伝え、白木山神宮寺(妙見宮の神宮寺)に鎮座した。

信仰すれば、除災興栄、富貴反映を得るという。明治維新後廃仏毀釈で荒廃したが、大正年代に再興。
所在地 - 八代神社東方約200メートル

百済・聖明王の第三王子、琳聖太子が八代に来ています。

聖明王の長子が余昌(威徳王)で、鞍手の鞍橋君の率いる軍がこの余昌軍と共に新羅に侵入して、一緒に籠城しています。鞍橋君は葛子の子です。

ウィキペディアの聖明王の系図では二人の王子の名前しか書かれておらず、この第3王子の名はありません。八代にのみ残されているのかもしれません。

余昌は526年生まれなので、第3王子はその数年後の生まれです。

527年が磐井の乱です。
乱後は葛子が筑紫君になっているので、百済の第3王子は筑紫君葛子の質として来日したのかもしれません。

三韓がそれぞれ王子を質として差し出すのは、神功皇后の戦勝以来の話にみられ、高良山の方でも、三韓の三人の王子のうち、百済王子のみが生きて上陸し、他は船の中で死んだと伝えています。

話を八代に戻しますが、第3王子の琳聖太子は「霊符神を伝え、白木山神宮寺(妙見宮の神宮寺)に鎮座した」とあります。

蛇足ですが、百済王子関連でありながら白木山となっているということは、他の白木も総てを新羅とする考えは見直さなくてはならないようですね。


以上から分かる事は、
八代には磐井の時代から百済王子を受け入れる政治的な組織があり、天武天皇の時代に中国からの渡来人を受け入れたということです。その風貌から中東の辺りの人かもしれません。それから百年後、浮羽にその神を勧請しました。

八代から浮羽へ。
何があったのか。
手元の資料からはこれ以上は分からなかったのですが、くじらさんから、次のようなコメントをいただきました。

藤波ダム下流の公園の隅に「物部本家ここにあり」という意味の石碑がポツンと立っています。

明治までは浮羽から星野にかけての山岳地帯を姫治といい、鉱物資源独占の為か、外部の人間は決して入れなかったと聞いています。

この広いエリアの物部郷はある意味、隠れ里として人の眼に触れる事無く、存続してきたのでしょう。物部の一党が代々守ってきた高御魂神社は八代 妙見宮から勧請されたと言われています。

星野で思い出すのは金山があった話です。金に限らずこの山塊には鉱物資源があって、物部氏がひそかに掌握していたことになります。

これらから総合すると、八代において妙見神が「白鳳九年(六八〇)」に渡来したという年がキーポイントになります。

これは白村江の戦い663年のすぐ後なんですね。
倭国と日本国の連合軍は唐と新羅の連合軍に負けています。

考えられるのは軍備の差。
八代にいた支配層は、唐軍の軍備との大きな開きを痛感して、寧波から武器製作集団を招いたのではないでしょうか。


倭王朝が滅び、日本国が台頭して、律令制度の支配下になることを嫌い、鉱物資源があった姫治を絶対的に隠したかった。そして、倭王朝の再興を期して力を貯えようとした。それが的物部氏がこの山岳を隠した理由ではないでしょうか。


麓には天満宮がかなりの数、点在しています。また装飾古墳群がずらりと並んでいます。ここは的物部の巨大な軍事産業基地だったと想定できます。


麓の三次神社や賀茂神社が大友宗麟の崇敬を受けたり、逆に焼き打ちに遭ったことを考えると、この浮羽は中世まで、各大名が喉から手が出るほど欲しかった武器供給地だったのでしょう。

しかし姫治は徹底的に隠されて、大友宗麟の手は及ばなかった。
そんな想像をしました。


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高御魂神社






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by lunabura | 2015-09-15 20:42 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(11)

(4)道真と時平が争ったもの


(4)道真と時平が争ったもの


右大臣だった菅原道真は、左大臣の藤原時平の讒言にあって
太宰権帥として筑紫に左遷された。
時に、道真57歳。時平30歳か。

そもそも、二人の争点はなんだったのか。
ウィキペディアには次のように書かれている。
時平と道真との確執については、個人的な嫉妬のみならず、律令制の再建を志向する道真と社会の実情に合わせた政策を採ろうとした時平との政治改革を巡る対立に求める意見がある。

真鍋が二人について書いているので、今日はそれを読んでみたい。

宮内の賢所(かしこどころ)とは、元来は日月星の神を祀っていた。「かしこ」とは観星台、即ち琉球の「ぐすく」から派生した「ごしょ」を平安時代の女官が改めた名である。(略)

賢所には暦の基(もとゐ)となる日月星を祭ることになっていた。今も神社の軒(のき)や廂(ひさし)に三光の流紋を飾るのがこの式例である。

時には三つ丸、時には三つ巴になるが、いずれも主旨は同じであって、延喜式の頃からいろいろ模様更えが藤原時平(871~909)の顔色を気にしながら、あれこれと創案されたと聞く。

藤原氏が太陽神一つに信仰の対象を絞る正朔をえらんだことは藤原道長(966~1027)がその日記に今の七曜を傍注していたことからも推し量ることができる。

藤原氏は太陰神と石位(いわくら)神を遠くした。記紀に出る星晨の神々をことごとく諾冊二神(イザナギ・イザナミ神)の系統に合祀した。もって多くの神々の容色が百姓の心から去っていった。

高木の神もその一柱で、これを高産神(タカミムツミ)に併せた造化三神の一柱なる神産神(かみむつみのかみ)には、高木神なる神名は如何なる創意を考えたか不詳である。

人間が神の存在をあれこれと配置転換した延喜式の挙に対して、真向から対決したのは菅原道真(845~903)であった。

天神地祇を左右する延喜式は、やがて本地垂迹、神仏混淆の弊を招き、ついには人持って自ら神となる。人能く神を作る事を上に倣い、下に常となすことが近世から現代に流行する発端となったのである。

『儺の国の星拾遺』p19

出目・袴着天満宮(久留米市)の所でも、上記の一部を口語訳で紹介したが、
ここでは少し長く引用した。
少しずつ詳読してみよう。

宮内の賢所(かしこどころ)とは、元来は日月星の神を祀っていた。「かしこ」とは観星台、即ち琉球の「ぐすく」から派生した「ごしょ」を平安時代の女官が改めた名である。(略)

賢所には暦の基(もとゐ)となる日月星を祭ることになっていた。今も神社のノキや廂(ひさし)に三光の流紋を飾るのがこの式例である。時には三つ丸、時には三つ巴になるが、いずれも主旨は同じであって、延喜式の頃からいろいろ模様更えが藤原時平(871~909)の顔色を気にしながら、あれこれと創案されたと聞く。

沖縄の「ぐすく」は御城とも書かれているが、その多くは軍事拠点の性格はなく、
聖域説などがあるようだ。

真鍋はそれを「観星台」と伝えている。星とは当然「太陽・月・星」を指す。
そのシンボルが神社に見られる三光紋である。

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(高良大社の神宝)

観星台は ぐすく → ごしょ → かしこ と変化した。

だから、宮内の賢所(かしこ)も当然ながら日月星の神を祭っていたという。

暦を決めるための観測は「日月星」の三つが揃って初めて成り立つ。
だから、「太陽神と月神と星神」を本来は祀っていたのが、
時平の時に変化したという。

それが形になったのが「延喜式」だ。


藤原氏は太陰神と石位(いわくら)神を遠くした。記紀に出る星晨の神々をことごとく諾冊二神(イザナギ・イザナミ神)の系統に合祀した。もって多くの神々の容色が百姓の心から去っていった。
石位とは星のことだ。

延喜式はあらゆる神々をイザナギ・イザナギの系統にまとめ上げてしまった。
そのために月の神と星の神々の存在が忘れられる原因となった。

すでに当時、記紀からは月神と星の神は光を消していた。

筑紫の水城で、太陰暦ではなく、新しく太陽暦の鐘を高らかに鳴らしたのは
天智天皇だった。

日本神話に星の神がいないことが私にはずっと謎だった。

真鍋の話から伺えるのは、やはり倭王朝から日本王朝への変化と
月や星の神々が消えていくのは期を一にしているということだ。

その仕上げが延喜式だったのだろう。

人間が神の存在をあれこれと配置転換した延喜式の挙に対して、真向から対決したのは菅原道真(845~903)であった。

それぞれの氏族には歴史があって神々がいた。
しかしその神々は延喜式によって都合よく書き換えられた。
道真はこれに真っ向から対決したというのだ。

この「延喜式」について、ウィキペディアを見ると

延喜式 
成立 905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たった。『弘仁式』『貞観式』とその後の式を取捨編集し、927年(延長5年)に完成した。その後改訂を重ね、967年(康保4年)より施行された。

となっている。

道真の左遷は901年で、四年後の905年に勅命が出たということは、
延喜式の計画はかなり早くから提起され、道真は強く反対していたということになる。

高木の神もその一柱で、これを高産神(タカミムツミ)に併せた造化三神の一柱なる神産神(かみむつみのかみ)には、高木神なる神名は如何なる創意を考えたか不詳である。

高皇産霊神(たかみむすび)は宇宙から出現したのち、姿を隠した。
なのに、アマテラスの時代になって、高木神と名を変えて、
アマテラスの参謀のような姿でまつりごとの主体者になっていた。

私は『古事記』を訳しながらこの不自然さに、とても驚いた。
これがずっと謎で、本来は別神ではないかという思いがいまだに捨てきれないでいる。
しかし実態が分からず、ついつい同神として取り扱っている。

真鍋大覚でさえ、高皇産霊尊に高木神という名をつけた意図を測りかねていた。

「延喜式」は神社のランク付けをして、神々を自由に取り扱った。
その思い上がりが、仏と神を混淆していくという、
本来の姿から掛け離れた宗教形態を生み出したと言いたいのだろう。

今、人々が神社に対して御利益を求め、単なるパワースポットになってしまったのも、
真鍋が生きていたら、この延長にあると言うのだろう。

道真が時平との対立に勝っていたら、平成の神社の在り方も違っていたかもしれない。

そして、ここまで書いて思った。
私たち渡来人の集合体が日本人としてまとまった事に、
案外、延喜式は一役買ったのかもしれない。

禍福は、あざなえる縄の如しというではないか。




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by lunabura | 2014-12-21 17:17 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(2)

(3)道真の遺言・「思ふ所」とは何だったのか


(3)道真の遺言
「思ふ所」とは何だったのか


太宰府天満宮の始まりは菅原道真が埋葬されたことからだという。
天満宮のHPを読んでみよう。

太宰府天満宮は、菅原道真(すがわらのみちざね)公の御墓所(ごぼしょ)の上にご社殿を造営し、その御神霊(おみたま)を永久にお祀りしている神社です。「学問・至誠(しせい)・厄除けの神様」として、日本全国はもとより広く世のご崇敬を集め、年間に約700万人の参拝者が訪れています。
成り立ち

道真公は、承和12年(845)に京都でお生まれになりました。幼少期より学問の才能を発揮され、努力を重ねられることで、一流の学者・政治家・文人としてご活躍なさいました。しかし、無実ながら政略により京都から大宰府に流され、延喜3年(903)2月25日、道真公はお住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、ご生涯を終えられました。

門弟であった味酒安行(うまさけ やすゆき)が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました。

延喜5年(905)、御墓所の上に祀廟(しびょう)が創建され、延喜19年(919)には勅命により立派なご社殿が建立されました。その後、道真公の無実が証明され、「天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)」という神様の御位を贈られ、「天神さま」と崇められるようになりました。

太宰府天満宮の本殿の地下に菅原道真は眠っているのだが、
ここに決めた理由は「牛が伏して動かなくなった」ためだという。


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いったいこの牛は何処に連れて行かれようとしたのだろうか。
火葬場へと向かっていたのだろうか。


くるま座さんは興味深い資料を提示した。

それは「道真の遺言」と、「太宰府で亡くなった貴族たちの遺骨の取り扱い」
について書かれた記述のコピーだ。(出典不明)

『北野天神御伝』は延喜三年正月、道真が次の遺言をしたと伝える。

余見る、外国に死を得たらば、必ず骸骨を故郷に帰さんことを。思ふ所有に依りて、此事願はず。

大宰府をはじめ京の外で死去した中央貴族の遺骸は、骨送使の手によって都へ運ばせている。しかし、道真は「思ふ所」によって、あえてそのことを願わなかった。そして、遺言のとおりその遺骸は大宰府に葬られることになった。

当時は客死しても火葬されて遺骨となって自家に送られたらしい。
骨送使という官人までもいたということだ。
だから、道真が太宰府に埋葬されることは「当時の慣例を破った」ものだったのだ。

道真の辞世の詩の結びには「帰家」とあり、家に帰る事を切に望んだはずの道真が
あえて墓所を安楽寺に求めた。

いったい「思ふ所」とは何だったのか。
それは墓所とした太宰府天満宮の前身が「安楽寺」だということにその答えがある、
とくるま座さんは言う。

「ということは、安楽寺はもっと古くからあったの?」
「そう」とくるま座さん。


「牛が動かなくなった」という差し障りの無い縁起の背景に「隠されたものがある」
と解釈することに無理はない。


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確かに、境内の志賀社の札には
「古代後期より中世にかけて海外貿易を行っていた安楽寺(太宰府天満宮)は海上安全の海の神として祀る。」
とあり、安楽寺が古くからあったような文面となっている。

これを見て真っ先に思い出したのは宮地嶽神社の宮司が言われた
「「安」「阿」が付くのは安曇族です」ということばだった。

太宰府天満宮の志賀社は綿津見の三神を祀っている。
ほかでもない、安曇族そのものが祀っている証しだ。

そうすると、「安楽寺」も安曇族の経営する寺だった可能性がある。
海外貿易を担える古代豪族は他には数少ない。

さらに突き詰めれば、ここは倭王朝の重要拠点だったと考えられる。

今、安曇磯良の話(第一回)を志賀島で話したところだが、
仲哀天皇と神功皇后を支えた二雄、竹内宿禰と安曇磯良の歴史上の扱いの差が
気になってしかたがない。

竹内宿禰の話をした直後だったので、その差は印象深かった。

竹内宿禰の名声は轟き、古代豪族がこぞって、我が祖先としているのに、
安曇磯良は名前どころか痕跡までも、すっかり消されているのだ。

両雄はそれぞれ「高良の神」(竹内宿禰)、「高良玉垂の命」(安曇磯良)という神名で祀られたが、
やはり後世には両神とも竹内宿禰に集約されていく。

だから、安曇磯良の名を消す必要があったのだと確信するに至った。
誰が消したのか?
それは倭王朝と日本王朝という二大勢力が日本王朝に収斂されている点に
ヒントがある。

唐突に出す名前だが、豊玉彦(豊玉姫の父)の影を私はずっと見ていた。

豊玉彦から安曇磯良へと続く安曇族こそが
倭王朝の主たる系統だと今は確信している。

安曇の子、イワレヒコ(神武天皇)の東征を母方として支援して来た安曇族だが、
この東征こそ、先々、安曇磯良の名を消す種を蒔いてしまうことになった。
東の地に日本王朝の芽が生じたからだ。

道真が「思ふ所」とは、何だったのか。
消えた倭王朝の残り香を伝えようとしたのだろうか。
その手掛かりを残すために、「骸骨を故郷に残さんことを願」わず、
ここに埋葬されることを願ったのだろうか。



地図 太宰府天満宮


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by lunabura | 2014-12-18 20:22 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(2)

(2)道真と鳩文字


道真と鳩文字


所は変わるが、宗像市赤間の古社、八所宮(はっしょぐう)の神額は小野道風の書だという。
鳩文字で書かれているのが特徴だ。

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八の字や点など、複数の鳥が見えている。


聞き覚えで、あいまいだが、太宰府に居た時に鳩文字を習得したらしい。
道風が太宰府に居たのかどうかは未確認だ。


で、思い出したのが、菅原道真の鳩文字だ。
これはくるま座さんが数年前に発表した研究の中に出て来たもので、
今回はどんな話だったのか、思い出してみたい。

道真の没後、都では道真を陥れた藤原時平の一族が次々に死んでいく。
そして三十年経った頃、小さな子供に道真の霊が憑いて、託宣したという。

「自分に思いを寄せるものがいればこれらの詩句を詠じるがよい」
その詩というのが次のものだ。

離家三四月 落涙百千行 
万事皆如夢 時々仰彼蒼
盈城溢郭幾梅花 猶是風光早歳華
雁足将黏疑繋帛 烏頭点著思帰家

このような話が『江談抄』に載っているそうだ。

これは『菅家後集』の巻頭の作品と巻尾の作品を組み合せたものだという。
その二つの作品を並べてみた。

476 五言自詠 
離家三四月 落涙百千行 万事皆如夢 時々仰彼蒼

故郷を離れて数ヶ月、とめどもなく涙が頬をつたう。全ては夢と思うほかなく、今は天を仰いで我が身の運命を訴えるだけだ。
(訳は市のパンフレットより)

514 謫居春雪
盈城溢郭幾梅花 猶是風光早歳華 雁足将黏疑繋帛 烏頭点著思帰家

大宰府の内にも外にも春の雪が降り積もって、どれほどの白梅が咲いたのかと見誤った。これは歳の初めに咲いた美しい花に相違ない。雁の足に雪が粘りついているのを見ては、蘇武が匈奴から帰還できた故事を思い、カラスの頭に白いものがポツンとついているのを見ては、燕の太子丹が故郷に帰れたことを思う。(…自分も家に帰りたい!)
(514の訳は 古典・詩歌鑑賞(ときどき京都のことも)より)
476は太宰府で詠まれた詩として有名だ。
514は辞世の詩だ。

この二つの詩の赤字の部分を組み合わせたものを読み取れば
道真の思いが分かるというのだ。
もう一度、書いてみよう。

離家三四月 落涙百千行 
万事皆如夢 時々仰彼蒼
盈城溢郭幾梅花 猶是風光早歳華
雁足将黏疑繋帛 烏頭点著思帰家

青字の「離家」と「帰家」に注目するだけでも、道真の思いが伝わってくる。

託宣の真偽はともかく、当時の人々はこれを受け入れたのだろう。

そして、「476 五言自詠」を道真がふすまに書いたと言われるのが次の書幅。


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これを見て驚くのが「鳥の姿」が沢山描かれているという点だ。
止まっている鳥、飛んでいる鳥、振りかえる鳥。
私は14羽見つけたけど、どうだろうか。
もっと居るかもしれない。

くるま座さんはこの「鳥」に注目した。
「太宰府天満宮と鳥」といえば、「ウソ替え」を思い起こす。

この行事は木彫りの鷽(ウソ)を取り替える行事だが、
もともと大江正房が企画したものだそうだ。

「鳥を替える」は「鳥に替える」とも解釈できるとくるま座さんは言う。

つまり、有名な「飛梅」の「梅」を鳥に替えると「飛鳥」となって「あすか」となる。
「あすか」は奈良だけでなく、九州にもあり、
それは即ち、九州王朝の存在を示すものだというのがくるま座さんの結論だ。

また、鳩文字は呉王夫差(?~紀元前473)の剣に彫られているという。
この夫差の子孫が熊本の松野連(まつのむらじ)に繋がっていくのだ。


「何かが隠されている。それは九州王朝の存在なのです。道真はそれを伝えたかった」
と、くるま座さんは語る。

「飛梅」と「飛鳥」の解釈はもう少し説明が欲しいところだが、
ちょっと、面白い。

(つづく)





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by lunabura | 2014-12-16 19:36 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(4)

(1)太宰府天満宮 道真の正室と舅


太宰府天満宮
道真の正室と舅(しゅうと)

何年振りだろうか。
太宰府天満宮に改めて参拝した。

雨が雪になり、雪が雨になっていた。
歴史を歩き始めて見る天満宮は別世界だった。

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赤い太鼓橋を渡ると志賀社があった。
御祭神は海神 綿津見三柱神だ。

「古代後期より中世にかけて海外貿易を行っていた安楽寺(太宰府天満宮)は海上安全の海の神として祀る。」(説明板)
これは安曇族と安楽寺の強いきずなを示していた。
  

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菅原道真の正室の社があった。
「楓社」とある。

正室の名は島田宣来子(のぶきこ)。
女性の名前が残っているのは大変珍しい。
読み方は東北で「せきこ」と振り仮名をうっているものがあった。

宣来子は道真の五歳下。
25歳で嫁いだので、当時としては遅い結婚だっただろう。
しかし、別の資料では10歳で嫁いだことになっている。
いったいどっちが正しいのか、真実はここでも一筋縄ではいかないようだ。

道真がこの地に左遷された時、宣来子は京都に残った。

これまで逍遥して気になっていたのが、吉祥女という夫人のことだ。
これが正室を指すのか側室を指すのか私には分かっていない。

これまでは若くして死んだ側室として解釈してきたが、今立ち止った。
宣来子の墓所は北政所吉祥女住所蹟(きたのまんどころきっしょうにょじゅうしょあと)
となっているのを知ったからだ。

筑紫で道真と並んで祀られている吉祥女とは誰の事だろうか。
素直にこの宣来子としていいのだろうか。



宣来子の父は島田忠臣。
正殿の真裏に祀られていた。
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忠臣は道真に詩を教えたという。
そしてその忠臣は道真の父是善(これよし)の弟子だったという。


島田忠臣の名を立て続けに三人位から聞いた夏があった。
私はその名を知らなかったのだが、年配の人には有名らしい。

道真の師匠なら有名なはずだ。

その夏、道真の真実を追う男に会った。
道真の真実が分からないから、その周囲の人を調べていると言った。
私が神功皇后を追っている時の手法と同じだった。

その男は島田の一族が平家一門で、飯塚の山の中に逃げ込んだことを突き止めていた。
そして、私はその一族を知っていた。

山の中に平家が逃げ込めたということは、それを導く一族がいたということだ。
それが何族かが分かっていない。


また、その麓の老松神社は大己貴神と少彦名神が滞在したと伝え、
また道真と親交を結んだということなので、同族として支援したのが分かってきた。
その地名は桂川町土師だ。
「出雲」も近い。
これは多くのヒントに満ちている。




話を太宰府天満宮に戻そう。


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その摂社には天穂日命社があって、菅家祖神として祀っている。


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そして、野見宿禰社も菅家祖神を祀る。
いずれも熔鉄の神と、私には見える。


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柿本人麻呂もこうして並ぶと青銅の神。


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武内宿禰を祀る高良社もあった。

神功皇后の時代を継承する力学関係が在る程度、続いていたことを暗示している。


道真は亡くなるまでの二年間蟄居していただけだろうか。
否。
高良山麓にはいくつもの伝承があるので、参拝したのはこの間のはずだ。
支援者がいたことは明らかだ。

道真の子は多かったようだが、九州では追討されたのか、不穏な話をいくつか聞いた。


そして、道真の最期の詩の冒頭に「松梅」と書かれていたことを知った。
「松」と「梅」だ。
続きが分からない。
さっきネットに出て来たのに、もうその詩が見つからない。
(検索が得意な方、見つけたら教えてほしい)



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道真を知ることは、亡びた倭王朝の残照を知ることになることを確信した。

それは栄華の時代を照らし出してくれるだろう。
そして、古出雲の輪郭を明らかにしてくれることだろう。

今回は皆さんに力を借りたい。
道真の伝承の神社に関して社号・住所・縁起・祭神など教えていただきたい。
リンク先でも結構。

亡くなる前の二年間が明らかになればと思う。




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by lunabura | 2014-12-14 22:37 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(18)

妻垣

宇佐・安心院トレッキング(30)

 妻垣神社(足一騰宮)7

妻垣


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なんとこのシリーズ、「30回」を迎えてしまいました。 (@_@
二日の旅でしたが、謎の多い宇佐八幡。ここまで書くことがあったとは。
予想としては数回で終わるだろうと思っていたんですが。

真鍋大覚の資料もけっこう多くて、謎解きに役立っています。
というか、ようやく真鍋の本の内容が理解できるようになったかな…。
資料が沢山あるので、最後の締めくくりの時に、しっかりと調べようと思っています。

そして、このシリーズを前に「安曇族と志賀島」を連載して、
安曇族のイメージを掴んだことも意義が大きかったです。
(安曇族のシリーズはまだ未完なんですが…)
すべては繋がっていますね (^-^)


妻垣神社の拝殿に「ともかき」という神社社報が置かれていました。
そこには神社の歴史が綴られていました。
今回は神社の正式名「妻垣」(ともかき)について、書き写したいと思います。

前号のあらすじ2600年前、御東征途中の神武天皇は宇佐に立ち寄られ、ウサツヒコ・ウサツヒメ兄妹より盛大なもてなしを受けた。天皇は共鑰山に、御母玉依姫こと比咩大神の御霊を祭り、そのお社を「足一騰宮」と名付けられた。

地名「妻垣」「安心院」の起こり 
東国へ旅立たれる前、中臣氏の遠祖にあたる侍臣・天之種子命(あめのたねこのみこと)とウサツヒメの結婚式が天皇御自らの御媒酌のもと、この地で執り行われ、スサノウ命の御歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」になぞられて、式場を垣根でおおった故事より、この地を「妻垣」と呼ぶようになったと伝える。
 そして、天皇は天之種子命に足一騰宮をお守りする役をお命じになり、東国へと旅立たれました。以後、二人の子孫・矢候宗彦(やこうむねひこ)にはじまる矢候(矢野)氏は宮司として明治維新まで神社をお守りすることとなる。
(後略・安心院については前回参照のこと)

神武天皇の侍臣・天之種子をウサツヒメと、めあわせた時、
「八雲立つ」の歌に因んで付けられた社号でした。

これは水沼族との縁結びでもあるのでしょう。
2600年前だとすると、神功皇后の時代より800年も前の話になります。
水沼族が入植した時期は、赤司八幡宮とどちらが古いのかなあ。

三女神を祀る水沼族の赤司八幡宮で景行天皇や神功皇后を歓待したのも、
神武天皇の時代からのことだったのがここでわかりました。
両族の縁は深かった。


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(拝殿 菊を葉が半分隠している)

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(五七の桐の紋)
まだまだ、謎は残りますが、この辺でおいとましましょう。


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これは一の鳥居から見える山々。御許山や米神山でしょうか。

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こちらは三女神社の方角?
右の尖った三角山は稲積山というそうです。

地元の方、山の名前とか分かったら教えてくださいね。

それでは、佐田神社に向かいましょう。




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by lunabura | 2013-09-14 21:31 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(0)

妻垣神社(足一騰宮)6  磐座と玉依姫

宇佐・安心院トレッキング(29) 

 妻垣神社(足一騰宮)6

 磐座と玉依姫

妻垣(ともかき)神社の境内はかなり広く、磐座が点在していました。

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これは舗装道路の終点にあった説明板です。

足一(あしひとつ)の印岩(復元)
 昔、神武天皇様の一行が、宇佐都彦命・宇佐都姫命に招かれて、この処に来たとき、この土地があまりにも素晴らしかったので、御母玉依姫命の御霊(みたま)をお祭りしたところ、玉依姫様が川中の岩の上に御姿を現され、信心を忘れさせないように、この岩に足一(あしひとつ)の印を付けておくと告げられて、一気に共鑰山(ともかきやま)に騰がられた事が、足一騰宮のはじまりであります。
                    奉納 浜松市 金子吉尾
平成二十一年六月吉日  妻垣神社

宇佐都彦命・宇佐都姫命に招かれた神武天皇が母君を祀られた時、
母君が顕現されて、岩に足一の印を付けて共鑰山に騰がられたということです。
ついに玉依姫の名前が出て来ました。
川の中にその岩があるそうですが、この日は時間がありませんでした。


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これは参道の左手にあった「龍の駒」(りゅうのこま)
「足形石(馬蹄石)」(あしがたいし・ばていせき)です。

「龍の駒」「足形石(馬蹄石)」のいわれ
ここ共鑰山(ともがきやま)には「馬城(まき)の峯と同じく、八幡大菩薩が人皇(にんのう)(応神天皇)の昔、龍の駒に乗り、この山に飛び翔けた」という「龍の駒、蹄跡(ひずめあと)の伝承が、字権現」にも伝えられてきたが、場所が崩落の恐れがある為、今回、当所に「移転復元」したものである。
  平成十六年二月十五日

この石は「権現」という場所から移動したものですが、
八幡大菩薩が龍の駒に乗ってこの山に飛び翔けたという伝承がありました。
時代が応神天皇の時代ですから、先程の「足一の印岩」よりぐっと下がります。

なんとここには「馬蹄石」という名が出てきました。
これを見て、高良山(久留米市)の馬蹄石を思い出す人も多いでしょう。
同じネーミングです。
高良山の馬蹄石にも馬のひずめほどの穴が穿ってありました。
当社の穴は未確認ですが、検索して写真を見ると、やはり数センチの穴が見られます。
当社は高良山ともつながりがあるのでしょうか。
高良山の方も、大学稲荷神社があって鉄の文化があったと考えています。

磐座に穿った穴は「足一騰」のシンボルとして、各地に見られるのかも知れません。
もう一度、ここには参拝して観察する必要がありますね。
誰か、同行の方、写真を撮っていませんかねえ?


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これは車道の左手、神門の斜め前にある説明板です。
柱に書いてあるように、妻垣神社には奥宮があって磐座があるようです。
(ここも時間が無くて行けませんでした (+_+))

共鑰山の院(御神山)の謂われ(ここより米上(めーとる)の磐座)

八幡宇佐宮御託宣集「御遊化(ごゆうげ)の部」に(通称、ここ「御神山」(ごしんやま)は)比咩大神(神武天皇御母、玉依姫)の御在所(院)であり。

かつて応神天皇の御霊が霊界修行の時、ここ院の内において、玉依姫と共に、利生(りしょう・衆生済度)の語らいをされた時、玉依姫が「安楽の御心」となられた故に、尓(しか)言うなり。
と説かれていて、ここは共鑰山の「御神体に相当する」場所である。

従って、「安心院」(あじむ)の名称は、玉依姫様がこの磐座の院の内において、「安心」された事に由来する訳である。
今回、石玉垣の保存修理と案内板を設置しました。
保存修理と案内板 奉納者  浜松市 金子吉尾氏
(御参拝には磐座付近30メートル程、山の急斜面ですからくれぐれもご注意ください)
               妻垣神社


当社が比咩大神を玉依姫とする由来がこれで分かりました。
神武天皇が母君を祀られた事から、玉依姫の神域として連綿と守られていたのですね。
当地を安心院というのは、この神域を「院」といい、姫が「安心」されたからと言います。
あんじんいん→あじむ ということです。
この御神山は三次元にありながら、霊界とも重なり合っているのでしょうね。

安心院について、るな的には「安曇」(あずみ)の変化ではないかと思っています。
「あンずみ・いん」が「あじむ」となったのでは?と。
これについては、これから考えて行きたいのですが、
この伝承を見て、ちょっと驚いたのです。るなの説を補強する説だったからです。

玉依姫は安曇の姫君なのですよね。
父君は海神豊玉彦。姉上は豊玉姫。

神武天皇がこの地に来た時、誰が船を出したのだろうかと思った時、
当然ながら母方の安曇族の船が一番安全なのです。

国東半島の根方に奈多宮という、安曇の根拠地と同じ名前を見つけて、
安曇族がここまでやって来たのではないかと想像したのですが、
当社の縁起を見て、間違いないと確信したのでした。
神武天皇が母君を当地に祀ることで、安曇の当地への寄港を保障したのかも知れません。

安心院の語源はウィキペディアでは、
安心院という地名の由来については種々の説があるが、一説には芦が生えていたことから芦生(あしぶ)の里といったのが後に「安心」に転じ、中世に宇佐神宮の荘園となって倉院が置かれたことから「院」をつけて「安心院」と書かれるようになったという。この盆地の成因については、かつて湖であったという説があり、この説によれば、地名の由来の芦生は、湖が干上がって干潟となり芦が生えていた様を表しているとされる。

とあります。
やはりこの盆地はもともと葦が生い茂る湖沼だったのです。
スズ鉄の材料の宝庫です。
当地で生産された鉄の運搬・商いを安曇族が担った可能性は高いと思います。
(鉄に関しては、次に訪れた佐田神社で思いがけないものを見つけました。
先の方になりますが、紹介する予定です)

さて、神武天皇の母君・玉依姫は、当時まだ生存されていたでしょうか。
御霊ということは、亡くなった後でしょうか。
生存中だとすると、奴国で皇子たちの安泰を心から祈られていたことでしょうね。

さて、比売神は誰なのか。問題を考えましょう。
三女神、二女神、とまだまだ不確定でしたが、当社は一女神でした。
しかも桜もちさんの言われる「龍女」です。
海神豊玉彦の海神とは龍神のことだから、その姫たちは龍女と言えるのです。
豊玉姫が祀られていたとするなら二女神となるのですが…。
はたして豊玉姫を安心院に見つけることは出来るのでしょうか。

もう一つ、問題が残っています。
当社はもともと宇佐都比古・宇佐都比売が居たのですが、
この兄妹神は、三女神の神裔だということが三女神社縁起に書かれていました。
三女神は水沼の君の祀る神でしたよね。

そうすると、宇佐都比古・宇佐都比売は山頂に祖神の三女神を祀ったはずで、
神武天皇がやって来られて玉依姫を祀られたために、祭神が上書きされたとも考えられます。


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by lunabura | 2013-09-13 21:17 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(0)

「足一騰」の謎 4 鬼の真実 八ツ橋は金の延べ板

宇佐・安心院トレッキング(28)

妻垣神社(足一騰宮)5
「足一騰」の謎 4
 鬼の真実 八ツ橋は金の延べ板
 

背振の御祭には必ず「おこしごめ」が店に出ます。これは昔の砂鉄精錬の生産品であります玉刃金を菓子に造形化した土産にほかなりません。

あたかも京都の銘菓で世に知られる八ツ橋が賀茂の神々の辛苦の結晶の黄金の延板を模した品にほかならないのと同じことであります。庶民には年寄りも子供も平等に楽しめるたべものが、お祭の象徴として歓迎されたからであります。

那珂川には昔から節分の豆撒きの行事はありませんでした。立春を祝うところは長門及び豊前豊後より東の方の地方であります。

鬼は蹈鞴の工人を象徴し神格化したものであります。そして豆は砂鉄がみごとに熔けて真金になった時の姿でありました。鬼は自らの仕事の出来栄えに我を忘れて、その見事さにみとれて仕事一途の一意専心の労をしばし忘れる本性をこの行事に托したものと解釈されます。

工人が自らの天職に没頭している時の姿は、佐嘉葉隠巻二には
  端的只今の一念より外はこれなく候。
と記されております。遠い加茂の神々の頃の物語が、この一節によく描写されております。

「そほり」とは「一目」の古い倭詞(わことば)でありました。
『儺の国の星』p69


背振山(せぶりさん)は福岡と佐賀の県境に聳える神山で、多くの名山を従えています。
この山の祭が京都に持ち込まれて葵祭となったのは天智天皇によるものだそうです。

「おこし米」は砂鉄から出来た鉄の粒。
「八ツ橋」は黄金の延べ板を造形化したものだということです。
どちらも、お宝がお菓子になったのですね。

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ウィキペディアでは「おこしごめ」は平安時代、「八ツ橋」は江戸時代からとなっていますが、
もっと古いルーツは筑紫や佐賀から見つかるかも知れません。

「豆」は砂鉄から出来た真金の象徴。
これを作ったのは「鬼」と呼ばれる加茂の工人たち。
豆まきが那珂川町(福岡県)には無かったという点、
また豆撒きが周防灘沿岸より東の行事だったというのも、謎解きの手掛かりになりそうです。

「一目」とは加茂の神々が坩堝の光を見る為に片目になること。
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北斗七星も漢字を当てると「一」と「目」にも見えます。
それを「ソホド」「ソホリ」と倭人は読んだといいます。
「足一騰」とも言いました。

赤鬼、青鬼は山に住んでいて、里に降りては悪さをしますが、
鉄や金を作る時の一心不乱の姿は「ものづくり」として真摯なものでした。

さあ、そんな「足一騰」の名を冠した「足一騰宮」に次回は戻りましょう。



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by lunabura | 2013-09-12 21:30 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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