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カテゴリ:裂田神社とさくたのうなで( 3 )

裂田神社(1)日本書紀に書かれた裂田溝は現存していた


裂田神社(1)
さくたじんじゃ
福岡県筑紫郡那珂川町安徳
日本書紀に書かれた裂田溝は現存していた

日本書紀を現代語していく内に出て来た「裂田溝」(さくたのうなで)。
遠い過去の話かと思っていたら、今でもそれが残っているという。
しかもこの神社は古代祭祀線の南北線に乗っかってくる…。

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車で移動すると、いかにも神社らしい杜が見えて来ました。
右側の手前の杜が「裂田神社」。その左奥の森は「安徳台」です。

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車を駐車場に止めて、正面に廻りました。
田園風景の中に流れるせせらぎの横に立つ神社でした。
なんと心地よい。

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川が下の方を流れていて、そこにせり出すような場所に神社はあります。

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拝殿の彫刻は雅(みやび)な装いで、姫宮らしい雰囲気です。
そう、ここもまた神功皇后のゆかりの宮でした。
参拝を済ませて、案内板を読みました。
裂田神社安徳、宇竜頭にある。裂田の溝を記念して神功皇后を祀ってある。朱塗りの拝殿は間三間、入二間、絵馬がところせましと奉納され、その奥に神殿がある。

神殿の扉には菊花の紋章がある。境内には明治39年の鳥居をはじめ、こまいぬ、注連掛石などが、杉の老木や古株と並び、裂田の溝が周りをめぐっている。
例祭は11月28日で、針口の人たちが集まって火たき ごもりをする。
(社)つくし青年会議所

安徳と言えば安徳天皇を思い出しますが、その名の通り、
この地には安徳天皇を迎えた伝承も残っていました。
御祭神には神功皇后だけが書かれています。
どうして、ここに彼女の名が残るのか、日本書紀を抜き出しましょう。
(神功皇后は佐賀県の松浦郡に行って、ウケイをした。
西の方を討たねばならなかったのだ。
ウケイは裳の糸に針をつけ飯粒で釣りをするという方法だった。
「もしそれが成就するなら、魚よ、かかれ。」
みごと川魚がかかって、吉と出た。)

皇后はこうして神の教えの霊験がある事を確信して、さらに天つ神、国つ神を祭って祈り、西の方を討とうと思いました。そこで神田を定めました。その時、儺の川の水を引かせて、神田を潤そうと思って、溝(うなで)を掘りました。とどろきの岡に至ると、大岩がふさがって、溝を通す事が出来ません。

皇后は武内宿禰を召して、剣、鏡を捧げて天地の神に祈らせて、溝を通そうとしました。すると雷が急に鳴り出して、その岩を踏み裂いて水を通しました。そこで人々はその溝を裂田溝(さくたのうなで)と言いました。

神功皇后は夫の天皇が亡くなっても、戦争への流れを止めることが出来ず、
行き先々でウケイをしています。不安で仕方がなかったはずです。
天皇の死を隠しているために、作戦通りに着々と軍備は整えられて行きました。

佐賀県の松浦郡は朝鮮に向かう港がある所です。
この那珂川町は距離的にも近く、古くから栄えていて、重要拠点だったようです。
後の時代にも、斉明天皇中大兄皇子たちが新羅との戦争のために、
この那珂川町の行宮を目指してやって来ています。

日本書紀によると、神功皇后たちは本格的な祭祀をするために
この地で神田を作ることにしたようです。
すぐ近くまで海が迫っていて、だんだん干潟になっていく時代です。
しかし地形を見ると、田を潤す川がありません。
そこで那珂川から導水する工事を行った訳です。
それが裂田溝(さくたのうなで)です。

これらは、いくつかの伝承を組み合わせたものではないかとも思いますが
まさしく1800年前の工事の現場が残されていました。


水路をまっすぐ掘っていく途中で、神社の下の岩盤にぶつかってしまいました。
「武内宿禰に剣と鏡で祈らせると、雷が落ちて岩盤が砕かれた。」
となっていますが、横の安徳台からは紀元前の製鉄跡が見つかっていることから、
現実には、その鉄器の援助を竹内宿禰らが融通してくれたのではないかと思いました。

地元の真鍋大覚氏は隕石が落ちた可能性を述べてあります。
隕石が落ちたら植えるという椋の木の古木が近くにあるようです。

隕石がそんなに都合よく落ちるのかなと疑問を持ったのですが、昨夜、韓国ドラマの「トンイ」を見てびっくり。
李王朝時代には宮殿の中に隕石が落ちているのですね。
その当時はよく隕石が落ちたというセリフもありました。
(もちろん史実かどうかは分からず、そんな記事をモチーフにして、ドラマが出来たのかなと想像。)
この岩盤が砕かれたのは隕石の跡なのか、鉄器で穿(うが)った跡なのか、
自分の目で確かめてみたい。

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神社の裏に行くと本当に岩盤が露出していました。
まっすぐ掘られてきた水路は、これにぶつかったため、迂回させています。
この下流に開削した岩盤があるはず。

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現場に写真があるので読んでみると、文面からはこのコンクリートの下らしい。
見ることが出来なくなって残念です。


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                              (つづく)

地図 裂田神社 





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by lunabura | 2011-05-11 21:25 | 裂田神社とさくたのうなで | Trackback | Comments(4)

裂田神社(2)「おひたき」の語源はギリシア語の「キタヒ」?


裂田神社(2)
「おひたき」の語源はギリシア語の「キタヒ」?
1800年前の行事が続いていた

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(神社から裂田溝(さくたのうなで)を見る。)

前回の案内板の記事に
例祭は11月28日で、針口の人たちが集まって火たきごもりをする。

という文があって、驚きました。
これって、地元の真鍋氏の本に書いてある伝統行事じゃない?
まさか「お火焚き」が残っているとは!

真鍋家って那珂川町の物部氏だったと言うのですが、
その物部氏の末裔が書いた本が『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』。
あまりの難しさに地元では忘れられているようなのですが、
私はこのお蔭でずいぶんと謎解きが出来ました。
今日はこの本を書かれた現地で読んでいきたいと思います。


那珂川では仲哀天皇の頃からお火焚きの催事が始まり、今も部落ごとに守られている。
氏族は自分たちの部落の新年の暦を神に供えて、古い暦を焼き捨てた。これが「お火焚き」で、その語源はギリシア語の「キタヒ」で「書物」の意味である。

陰暦12月15日の夜を「お火待ち」として、部落の一族が一つ家に集い、夜を徹して酒宴をした。この夜には「お火待ち星」(オリオン座のペテルギウス)が夜空に昇った。この星を別名、神直毘星(カムナビ星)とも呼んでいる。


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オリオンは冬の星座。冷たい冬風の中に堂々とその姿を表します。
オリオンの三ツ星は船乗りにとっては道しるべとなる大切な星で、住吉様と呼ばれました。

そのオリオン座の一番高い所にある赤い星がペテルギウスです。
農業をする者にとっては、収穫が一段落して、
土木工事や、農機具を整える季節が来た事を教えてくれる星でした。

「神ナビ」とは暦を作る為に月日を正しく並べる行為をさします。
この星が出る頃は、出来上がったばかりの翌年の暦を祝う時でもありました。

その暦を作ったのが物部氏です。
暦を作るのに必須事項は「満月とついたち(朔月)」と「月食、日食」の完全な予測だった。木の幹を大小に小さく切って、1年の月日を並べ衆議一決するまで立て替え、並べ直して納得のいくまで日取りを組んだ。暦が出来上ると氏族一同に触れて廻り、年毎の資料は神殿に奉納して子々孫々に伝えた。

満月は夜午後8時に昇り、朔月は午前4時に沈む。当時、二つの家系があって、一日の始まりを午後8時とする家系と、午前4時にする家系があった。この為に生じるずれは無理に合わせず、暦の日付を空欄にしておいて、それぞれの家系で解釈できるようにしていた。(神社や寺の銘で日付が空欄になっているのはこれが原因)

私たちは当たり前のようにカレンダーを手にしますが、旧暦のカレンダー作りは今でも計算と予測が大変で、閏月(うるうづき)の入れ方がとくに難しいそうです。

しかし季節がよく予測できるために、現代でも農業や漁業関係者はもちろん、洋服の製造や仕入れの業者など、季節ものに関わる人の大切な情報源になっています。

暦の編纂を行ったのは那珂川町では真鍋勝次が最後で、勝次は陰暦11月になると沐浴潔斎して暦の計算に取り掛かかった。その遺言は     
「明治43年4月19・679日にハレー彗星は近日点を通過する」という内容だった。
明治42年に亡くなったが、この遺言は的中した。

ハレー彗星は、西洋で発見されるよりずっと前に、日本で知られていたそうです。
その予測に成功させる事は、和暦のレベルの高さを証明する事になるので、勝次氏は渾身の力を込めて予測されたのでしょう。

長距離の測量には球面測量の計算が必要だそうですが、そんな計算法も古代から伝わっていました。
古代祭祀線を理解するには、こんな事も計算できないといけないので、
るなさんはお手上げです。くるま座さん、頑張ってくださいね。
と言う事で、「火たきごもり」という行事は「古い暦を焼く」ことから始まったのが分かりました。この行事が1800年も続いたとは素晴らしいですね!

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(裂田溝から裂田神社を見る。)

暦については、後の世の闘争の原因にもなって行きました。
曽我氏と平群氏がいて、早良郡脇山に住んでいた。平群氏は一年の元旦を望旦夏至に固執し、曽我氏は朔旦冬至に改革した。

曽我も平群も「月」の意味で、「曽我」は月の東洋的異称。「平群」は月の西洋的異称だった。これが暦法の採否を巡って中大兄皇子の激烈な論争と対決の背景となった。

ここに出てくる早良郡脇山とは福岡市の西の方にあります。
那珂川町からは西北の方になります。
朝鮮半島で国の興亡があるたびに、大勢の人たちが逃げて来て、それぞれに集落を作っていました。
亡命者同士、緩やかな和平関係が結ばれていたと思われますが、
水利権の争いや、どの氏族の暦を採用するかなど、将来の氏族闘争の火種が生まれました。

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これは「和名抄」に書かれていた地名を現代の地図に落としてみたものです。
平群氏や曽我氏が福岡に居たのは地元でもあまり知られていません。

竹内宿禰が近畿地方に渡来人たちを連れて行って開拓した話になっているそうですが、
そうすると、このエリアに集結していた渡来人たちが、竹内宿禰や神功皇后が
東征した時に、一緒に大和地方に移住したのではないかと考えるようになりました。

彼らが土木技術に長けていた名残がこの裂田溝かもしれません。
ちなみに、実際に工事したのは国栖(こず・くず)と呼ばれる部族です。

ギリシア語で「月」を「フェンガリ」と言い、「ヘグリ」と変わったと思われる。
近東系の出であって、月氏(ササン)の子孫であったと思われる。
早良(さわら)には平群氏が百済人をここに租界せしめた。

考古学的にも、各地の地域の土器が一か所で発見されたり、
朝鮮式の古墳があったりするようなので、
少しずつ、そんな資料に当たって行きたいなと思っています。

                   (裂田溝と安徳台につづく)




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by lunabura | 2011-05-11 19:19 | 裂田神社とさくたのうなで | Trackback | Comments(4)

裂田溝と安徳台・溝の幅を測った・阿蘇山の火砕流


裂田溝と安徳台

さくたのうなで・あんとくだい
福岡県筑紫郡那珂川町山田
溝の幅を測った
え?ここまで阿蘇山の火砕流が…。

裂田溝は現在よく整備されて、町歩きのメインルートにもなっています。
今日は、現場でどうしてもしてみたかったこと、
「溝の幅を測る」にチャレンジです。

真鍋氏の本によると、「裂田溝は近東の古尺である俔尺で測られている」という
一文があって、これを確かめたかったのです。
しかし、「あっ。巻尺忘れた!」というドジから始まりました。

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裂田神社付近の水路は以前より広くなっているというので、昔に近いものと言う事で、
連れて行ってもらったのが山田地域でした。
片側は舗装道路で、反対側は石組。完全に作り変わっています。
これではちょっとターゲットにならない。
でも、くるま座さんが車から1メートルの定規を持って来てくれたので、
ちょっと測ってみるか…。

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1メートル、2メートルと測り始めたら、
「その定規は1mではないよ。」と奈東南雄さん。(ハンドルネーム)
「あれ?ホント。101センチだ。」
(何でそんな変な定規が存在するのだ…。と思いながら測り直す。)
「斜めになってるよ。」と再び奈東南雄さん。
「あは、ホント。」定規をだんだん斜めに置いていた。
「橋の端に合わせて計らないと。」
「そうですね (・.・;)」我ながらいい加減だ。と思いつつ測り直す。
「出発点はきちんとしてるの?」
「え?いいえ。そう言えば、川ってどこを測るんですか?川幅って、川底?それとも、土手の所?」
そんな基本を考えてみたこともない。

「川幅は土手の端から端を言うけど、この工法だと、川底を測ったらいい。土手が90センチくらいだから、石垣ののり面を測って、足し算をしたらいい。」
なるほどですね。といって再び測り直し。
「最後は50センチ!」
「全体でどれだけ?」
「あっ。定規を何回置き直したっけ。」
テンションが上がると足し算もままならず、5回も測り直したのでした。
それで、350センチが川底の幅で、斜めの石垣や土手を合わせたら約5mになりました。

これだけ整備されているのですから、これで古代尺と比べようと言う愚かさに
我ながらアホらしいのですが、現地に行って見ないと状況は分からなかったので、
取り敢えず、やってみたかった事をやって、満足しました。

あとでネットで調べると、昔の素掘りの跡もあったそうですが、
古代史跡としての保存はされず、消滅しています。
幅も3~5mでいろいろとあるそうです。当然ながら何回も改修されています。

で、眞鍋氏が書いている古代尺は何センチ?
裂田溝も早鞆の門も近東の古尺である俔尺(けんしゃく)1.05006メートルで設計してある。

ふうっ。細かいな…。私から見ればほとんど1メートルなのに。
眞鍋氏はそれじゃ済まないんだ。
しかも失明されてからの口述筆記ですから、暗記力も半端ではない…。

結論から言えば、現代の水路では古代の水路の幅を想像する事も出来ず、
古代尺測量実験は失敗に終わりました。

それにしても、この裂田溝を巡るコースはよく整備されていて、
田園風景の中を「さるく」(方言で「歩きまわる」という意味)のはとても心地よく、
トイレや説明板が完備されていて、一度は全体を歩きたいなと思いました。

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そして、説明板を見ていて驚きました。

9万年前の阿蘇山噴火の時に火砕流がここまで流れ込んだというのです。
阿蘇4期という有名な噴火…。
正面に見える安徳台はその火砕流で出来た丘だったとは!
阿蘇からここまでどんだけ~?さすがにぞっとする。

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(裂田溝から安徳台を見る)
約30万年前から9万年前までに大規模な噴火が4回 (Aso1-4) あった。地下から大量の火砕流や火山灰を放出したため、巨大な窪地(カルデラ)が形成された。

その中でも4回目の噴火 (Aso4) が最も大きく、火砕流は九州中央部を覆い一部は海を越え山口県にまで達し、火山灰は北海道に至る日本全土の他朝鮮半島でも確認されている。

Aso4の火山灰でできた地層を見つければ、9万年前の地層であることがはっきり分かるため、植物学、考古学など様々な研究で時代を示す指標として使われている。
(ウィキペディア)

この阿蘇の噴火は「ホピの予言」と繋がっています。
信じられないかもしれませんが、彼らは阿蘇山の噴火を伝えていたのです。
次回はちょっと寄り道して、幣立神宮(へいたてじんぐう)に託された
「ホピ族からのメッセージ」について書きたいと思います。

那珂川町 阿蘇山 





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by lunabura | 2011-05-09 16:43 | 裂田神社とさくたのうなで | Trackback | Comments(8)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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