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カテゴリ:(ハ行)神社( 9 )

杷木神社 (2)磐井の弔い合戦は鎮圧された


杷木神社 (2)
磐井の弔い合戦は鎮圧された

杷木神社の古文書はキリシタン大名・大友宗麟によって焼かれてしまいましたが、
その直前に書かれた記録が残っていて、
『福岡県神社誌』に漢字だけの縁起が書かれていました。(・.・;)

万葉集のような書き方でした。
例のごとく、るな流の口語訳で紹介します。

筑前上座郡杷木大明神は鎮座の始めを知る人はいない。左の殿は伊弉諾尊、伊弉冊尊と伝え、右の殿は大己貴命、武??槌命の四柱の御神を二社に崇め奉る。

そもそも人皇二十七代継体天皇(附記、継体天皇は第二十六代なり)の御宇に筑紫の磐井らが謀叛を企て、異国の御調物を奪い取る。

是により朝廷は勅旨を下し、麁鹿火大連(あらかひのおおむらじ)を将として、官軍は筑石に進発し、筑後国にて大連は磐井と相戦う。御井郡にて官軍は大いに利を得て終に磐井を討ち殺し、麁鹿火は凱陣した。

ところが磐井の残党青人ら土の蜘蛛餘類と力を合わせ、心を一つにし、豊前筑前の間に蜂起した。これによって大連は勅旨を下し、豊前国の企救長手、鷹羽金田麿、筑前国三笠郡の田中鷲丸田中男起(或る書に男立と云う)らに官符を伝えた。

 件(くだん)の人々は勅を奉り、官兵を引き連れて、両国に発向したが、残党らの勢いは盛んで、官軍は度々利を失った。

しかし、大将鷲丸が言った。
「上座郡には大己貴命、武??槌命が御鎮座と聞く。かの御神の冥助を頼み申すのはどうだろうか、云々」
皆、同じ心だった。

 そこに池田の池と云う奇異の池があった。その池の汀に高棚を構え、真榊を立て、端で縄を曳き、大幣を捧げ、官軍の勝利を祈った。

是より鷲丸らの勢いが盛んになり、風が草を靡かすが如く、官兵は各々神助を受けた。是によって、青人土蜘蛛ら、ここかしこで滅亡し、西国立つるところ、平均す。

 天皇、大いに叡感御座し、鷲麿、男起、長手、金田丸に衣服、刀剣を賜り、杷木大明神にうつし、馬二匹、弓箭・幣帛を捧げた。即ち物部宿禰高古を祭主とし、朝敵退治の蟇目の射法を勤めた。尤恒の祭祀、是時より始まった、と云々。

維時大永二年壬午二月穀日
              神坂源大夫藤原貞家之を誌す
上手く訳せない所は元のままにしています。(+_+)

継体天皇の磐井討伐の理由は、縁起によると
異国の貢ぎ物を奪い取ったからとなっています。

これには大いに疑問があるのですが、今回のテーマはそれでなく、
縁起が伝える「磐井の残党の蜂起」です。
言いかえれば「弔い合戦」。

これは『日本書紀』には全く書かれていませんでした。
膨大な歴史を書いている本ですから、仕方ないといえば仕方ないのですが…。

御井郡の一戦ですべて終わったのではなかったのです。
全く想像していませんでした。

「磐井の残党青人ら土の蜘蛛餘類と力を合わせ」の所が実は訳が分からないのですが、
「磐井の残党は青人や土蜘蛛のたぐいと力を合わせ」と今の所、解釈しています。
青人とは目の蒼い氏族たちでしょうか。

さて、磐井の弔い合戦、蜂起した場所は「豊前筑前の間」。
戦場は磐井が負けた御井郡ではなく、豊前と筑前の間でした。

遠賀川流域でしょうか。
いろんな物部氏がいる所なので、分裂した可能性もあります。

麁鹿火の命を受けた「筑前から豊前にかけての武将たち」の名は
「豊前国の企救の長手、鷹羽の金田麿、筑前国三笠郡の田中鷲丸、田中男起」
と、具体的な名が記されています!

「企救」(きく)なら聞(企救)物部で、北九州市。

「鷹羽」は田川市。
「金田麿」という名前からは、田川郡川崎町の正八幡神社の田原麿や田麿の名前が
思い浮かびます。(ガイドブックは16番です)
景行天皇の時代から神功皇后、またのちのちの時代に掛けて当地を治めたのは田原氏

三笠郡は太宰府の近く。田中鷲丸、男起の田中姓は物部氏と思われます。
(みやま市に「田中物部神社」があります)

そうすると、麁鹿火は蜂起した場所を囲んだ所に住む物部氏や田原氏に命を下したと
考えられます。
「是によって、青人土蜘蛛ら、ここかしこで滅亡し、」とあるので、
磐井一族の蜂起は一か所ではなく、同時多発的になされた様子も伺えます。

そして、官軍は杷木神社の大己貴命と武??槌命に祈願して戦勝し、
物部宿禰高古が祭主となっています。

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「大己貴命と武??槌命」にかつて祈ったのは神功皇后でした。
官軍は神功皇后の祈願に倣ったのでしょう。
朝倉には大己貴神社以外にも古くから大己貴命が祀られていました。

磐井の弔い合戦…想像もしていなかったので、かなり驚いています。

これは葛子の時代のことでしょうか。
そうすると、葛子は妃を殺され、弔い合戦に負けて、
ついに糟屋の屯倉を献上することになったのでしょうか。








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by lunabura | 2014-06-03 20:25 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(0)

杷木神社・磐井の残党を平定したという



当ブログに訪問される方のなかに、ルーツ調べをしていてヒットしたという方が
何人もいらっしゃいました。

自分の魂の遍歴(過去世)を知る事は癒しと浄化につながり、
肉体を造ったDNAの遍歴を知る事もまた癒しと浄化につながっていきます。

ルーツ調べをすると、先祖たちが過酷な人生を生き抜いて来たことが分かり、
感謝の念が生まれます。

「敵だ」と思い込んでいた人物や国が、自分の魂やルーツの中に見つかって、
憎むことの愚かしさを知らされます。

そういう点で、このブログ、精神世界の事も古代史のこともバランスよく
書き綴っていきたいなと思ったりしています。

さて、朝倉の神社、あと一つ残っていました。



杷木神社(1)
はきじんじゃ
磐井の残党を平定したという


c0222861_21301718.jpg


今回の朝倉の旅の一番の目的はこの神社だったのです。

――たしか「磐井」の文字が出てきたはず…。
そう思いながら福岡県神社誌をめくると、やはり、ありました。(訳します)

往昔は元上座郡上鄕十八ケ村の宗祠である。延喜式和名抄把伎鄕を例祭前の鎮祭区域とする。

第28代(附記継体天皇は第26代なり)継体天皇の御代以前の創始にして筑紫の磐井の残党、謀叛の際、官軍の勝利を祈願した由緒をもって、矢納めの式がある。

磐井残党平定の報賽として、朝廷より宇津志馬二匹、弓矢幣帛捧げられる。恒例の祭祀はこの時より始まったという。(大日本地誌所載)

なんと、この宮は「磐井の敵」が祈った宮なのです。
しかも、磐井の残党と戦っている!
(神社誌の表記は「筑紫の磐井が残黨」となっています)

磐井の乱は簡単には収まっていなかった!

八女地域の古墳が石人山古墳や岩戸山古墳以降も二代分ほど続いている点から、
磐井の根拠地が壊滅状態ではなかったのだなとは思っていたのですが、
思いがけない歴史がここに書かれていました。

磐井の子葛子は屯倉を差し出して、命乞いをしたのですが、その妃は殺されています。

これは、もうすぐ出す『宮地嶽神社と磐井の末裔たち』で詳述しますが、
葛子の子供が勝村・勝頼という名で、宮地嶽神社の祭神となっています。

磐井が殺されたあとも、九州王朝は簡単には滅ばず、
福津市と八女市の二極で統治が行われていたのではないかと推測していたのですが、
杷木神社の社伝から、その説が補強されるかもしれません。

この神社で祈った天皇軍は、「残党平定のお礼参り」をしているので、
磐井の残党軍が負けたことが分かります。

これが八女の前方後円墳の終焉の理由かもしれません。

神社誌にはさらに別伝が書かれているので、もう少し読み込んでみます。




※ コメント・メールの返事が遅れます。少し待っててくださいね。


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by lunabura | 2014-06-02 21:32 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(0)

別所神社(2)「皇居の辺」なる清浄の地


別所神社(2)

「皇居の辺」なる清浄の地


さて、私が当社に参拝した理由は『福岡県神社誌』にこんな縁起が載っていたからでした。
(訳します)

由緒
斉明天皇七年創立。
明治五年十一月三日村社に被定。
当社は朝倉橘の広庭の宮に遷幸された時、朝倉社の木を伐り宮殿を造られたので神怒り祟られて殿を壊された云々と日本書紀に出ている。

この時、皇太子中大兄皇子は先帝の罪を償われて皇居の辺なる清浄の地を占って陰神伊弉冊尊(いざなみ)を別けてここに勧請されたので、社号を別所神社と称し、事解男、速玉男の二神を合祭して三座とする。

いにしえ社頭の繁栄の時は当村の八並という所に神幸をされ神楽を奏して厳重に祭祀を執り行った。
この縁起の「皇居の辺なる清浄の地」に驚いたのです。
すなわち、当社は橘広庭宮の一角、もしくはそのそばにあるという事になります。

広庭宮の所在地はいまだに特定されていないのですが、
ここに手掛かりが書かれていたので、現地を調べるためにこの宮に訪れたのです。

ちょうど氏子さんが消毒の手を休めておられたので、話を聞くことが出来ました。

「拝殿の柱の礎石は蓮の花で、珍しいんですよ」
見ると、確かに蓮の花です。

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「言われないと見過ごす所でした」
境内の説明板にもこう書いてありました。

 
また、拝殿の柱の礎石は、非常に珍しい蓮華模様が彫られており、これは朝闇寺(廃寺)より持ってきたものではないかといわれている。
この礎石は朝闇廃寺から持って来た可能性があるんですね。
全体の土台が石積みなので珍しいなとは思ったのですが、
教えて貰わなかったら気付かなかったです。

「神殿の右手に神木があったんですが、近年の台風で倒れたんです。
幸いに外に倒れたんですよ」
「それはよかったですね」
猪野天正皇大神宮では杉が神殿に倒れたのを思い出しました。
あの時の台風はすごかった。

c0222861_1823093.jpg

(木立の向こうの切り株)

「昔は鬱蒼として涼しかったのですが、すっかり明るくなりました」
明るい境内からは想像つきません。

「昔は神幸が南の宮野幼稚園の所まで行われていましたよ。石があります」
地図を見ると真っ直ぐの道がついています。

神幸が行われるお旅所というのも大事な地点です。
幼稚園や小学校などは古代のイヤシロチに造られたケースがあるので、興味が引かれます。

そして宮の場所の話をしました。
「ここは橘広庭宮のそばにあるようなのですが」
「広庭宮ならありますよ」
「え?広庭宮が伝わっているのですか?」
「はい」
「どこですか」
「万徳寺の横の川を渡って左に曲がって一軒目を右に曲がってまっすぐ行った所です」
「あの川の向こうですか」
さっき道を探してアチコチ迷ったので、万徳寺の場所は分かっていました。
思いがけず目的の場所を聞くことが出来ました。
早速、予定を変更して現地に向かう事にしました。

そして、そこに思いがけないものを見たのです。
(つづく)




斉明天皇七年(661) 
5月9日 朝倉に遷幸。
5月11日 斉明帝、中大兄皇子 福成神社にて戦勝祈願。
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移す。中大兄皇子は12日間服喪。御陵山。恵蘇八幡宮







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by lunabura | 2014-05-16 18:57 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(0)

別所神社(1)中大兄皇子は麻氐良社から女神を分けて祀った


別所神社(1)

中大兄皇子は麻氐良社から女神を分けて祀った

斉明天皇と中大兄皇子の名を伝える別所神社。
朝倉市須川のバス停(名前不明)から路地に入った所にありました。


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新緑の季節でした。桜でしょうか。春はピンクで溢れ返るのでしょうね。


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拝殿前に松の木。



説明板から。
所在地 福岡県朝倉町大字須川字下須川3197-2
祭神 事解男命(ことさかお)伊弉冊尊(いざなみ)速玉男命(はやたまのお)



c0222861_1755811.jpg

イザナミ尊が祀られていましたが、夫神のイザナギ尊の名は見当たりませんでした。
その代わり、事解男命と速玉男命が祀られています。


説明板の続きを読みましょう。
 
西暦661年、斉明天皇は百済救済のため、中大兄皇子ら文武百官を従え「朝倉橘広庭宮」(あさくらのたちばなのひろにわみや)に入られた。ほどなく病にかかられたため、中大兄皇子は麻氐良山の朝倉社の祭神「伊弉冊尊」を別けて祀り、斉明天皇の御病気平癒を祈願されたのがこの別所神社である。

 昔は須川村の氏神として祀られ、百年前までは、ここより南のお旅所(宮野幼稚園北側)まで御神幸が行われていた。
なんと麻氐良山!(まてら)が出てきました。
中大兄皇子はそこから伊弉冊尊だけ分けて祀った!

斉明天皇の葬儀を見た神はイザナミ尊だったの????
まさか。

確認のため、斉明天皇について訳した『古事記の神々』の該当部分を抜き出します。
(前後はサイドバーから入って読んでくださいな)
『日本書紀』の口語訳です。

3月25日に御船は航路に戻って那の大津に着きました。磐瀬行宮(いわせのかりみや)に住みました。天皇は名を改めて長津宮とされました。

夏4月に百済の福信が使者を派遣し、手紙をたてまつって、百済の王子・余豊璋を返してほしいと願いました。(ある本には4月に天皇は朝倉の宮に遷宮されたといいます。)

5月9日に天皇は朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に遷宮されました。この時に朝倉神社の木を切り払って広庭宮を作ったために、神の怒りにふれて雷が落ちて、御殿を壊してしまいました。

また、この宮の中に鬼火が現れました。このせいで大舎人(とねり)や色々な近侍たちが大勢病気になって死にました。
23日に耽羅(たむら)国(済州島)が初めて王子アハギたちを人質として差し出しました。
6月に伊勢王(いせのおおきみ)が亡くなりました。
秋7月の24日に斉明天皇は朝倉宮で崩御されました。(68歳)

8月1日に皇太子・中大兄皇子は天皇の御遺体を磐瀬宮に移しました。この夜、朝倉山の上に鬼が出て、大笠を付けて喪儀を見ていました。人々は怪しみました。
橘広庭宮の造営のために朝倉神社の木を切り取っています。
そのせいで神の怒りに触れて雷が落ちて御殿が壊れました。

それから人々が次々に亡くなり、斉明天皇まで亡くなってしまいます。
天皇の葬儀の時には「朝倉山」の上に鬼が出て大笠を付けて見ていたと書かれています。

この「朝倉山」こそ、地元では「麻氐良山」だと言われているのです。

別所神社のイザナミ尊が「斉明天皇の御病気平癒を祈願」するために麻氐良社から分祀されたのなら、
葬儀を見ていた鬼とはイザナミ尊を暗示している可能性も出てきました。

中大兄皇子は何故、イザナミ尊だけ格別に祀ったのか。

それはイザナミ尊の両脇に祀られる事解男命(ことさかを)速玉男命(はやたまのを)の神にヒントがありそうです。
この三神で思い出すのは、イザナミ尊とイザナギ尊との哀しい別れのシーンです。

イザナギ命は亡くなったイザナミ命に会いたくて黄泉の国まで行ったのですが、
絶対見ないで、と言われたのに覗いてしまい、腐りつつある遺骸を見て逃げ出します。

『古事記』から。
 最後に、イザナミの命がみずから追いかけて来ました。
そこで、イザナギの命は千引(ちびき)の岩をその黄泉比良坂(よもつひらさか)に引いて塞いで、その岩を間に置いて、互いに向かい合って立ち、イザナギの命が絶縁の言葉を言い渡しました。

すると、イザナミの命は、「いとしいあなた。こんな事をするなら、あなたの国の人々を一日に千人、くびり殺します。」と言いました。

そこで、イザナギの命が言いました。
「いとしいわが妻よ、そなたがそんな事をするなら、私は一日に千五百の産屋を建てよう。」

こういう事から、一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まれるようになりました。
黄泉の国まで探しに来てくれた愛しい夫が、約束を破った上に逃げて行き、
自分との間に岩を置いて道を断った。

女性から見ると、とても哀しいシーンです。

この時、愛は憎しみに変わり、イザナミ命は「一日に千人殺す」と宣言しました。
そして、イザナミ命は死の女神となってしまいました。

『古事記』では上記のようになっていますが、『日本書紀』にもいくつか別伝が書かれていて、
その中に事解男命と速玉男命が出てきます。

そこではイザナキ尊は「離婚しよう」と言った時、その誓いとして唾を吐きます。
唾を吐くのは約束を固めるしるしで、「唾(つは)く神」を速玉之男、
「掃う神」を泉津事解之男(よもつことさかのを)と名付けたと書かれています。

死の女神と、縁を断つ二柱の男神。

中大兄皇子は「死の女神の言霊の実現」を封じ込めるために
事解男命と速玉男命を??で固めたのではないでしょうか。

そのために「別の所」にわざわざ祀ったと思われるのです。

宮殿は落雷で破壊され、官僚や王族たちが続々と死に、ついに病の床に伏した母帝。

何としても死の女神を鎮めたい。

緊迫した祈りの様子がひしひしと伝わって来ます。
(つづく)


斉明天皇七年(661) 
5月9日 朝倉に遷幸。
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移す。中大兄皇子は12日間服喪。御陵山。恵蘇八幡宮



別所神社 麻氐良山







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by lunabura | 2014-05-14 18:51 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(4)

八幡宮 船原古墳のすぐ近くの宮・磐井の乱を見たのか


八幡宮 
古賀市谷山
船原古墳のすぐ近くの宮
磐井の乱を見たのか

さて、船原古墳のすぐ近くに八幡宮があります。
ずっと前に訪れていたのですが、あまり特徴がなくて掲載するチャンスがありませんでした。

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しかも四枚しか撮影していませんでした。
八幡宮の意味もよく分からず、歴史の興味もない頃だったのですね。
写真とはその時の意識まで写し出すので、こわいものでもあります。

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ケヤキ 800歳。

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クスノキ 800歳。
800歳のクスノキはこれまで出会った2000歳に比べたら、若々しいですね。


当時考えたのは、
香椎宮から向かうと小山田邑の斎宮のすぐ手前にあるので、
警固の者たちが、ここに駐留したのかなとか思ったりはしたのですが。

ここは船原古墳から見えるような場所です。
古墳の被葬者の氏神様の可能性もあるわけですね。

ただ、明治時代には「一村一神社運動」というものがあったらしく、
歴史を調べないと何とも言えません。

幸いに『小野村史』に載っているので、訳しながら書き写します。

村社 八幡宮 大字谷山字屋敷
由緒
筑前国続風土記拾遺にいわく、
村の乾(いぬい・北西)の方にあり、産神である。
祭神は応神天皇、神功皇后、玉依姫である。
祭礼は9月28日。木梨氏が奉仕しているという。

社説に、当社は昔は字若宮に鎮座していた。
天文年中に今の古屋敷に御遷座したという。
当郡の中で崇敬された御社であるという。

文化13年、郡中より本朝三部本書ならびに異国退治の大絵馬など寄附奉納あって、今も掲げている。
社地は広く平らで、5~600年の巨木のクスノキ、ケヤキが鬱蒼として一見幽厳な風教を感ずる。

御祭神は八幡神の三柱・神功皇后と応神天皇と玉依姫でした。
天文年中、1532年~1555年の間に字若宮から古屋敷に遷座したということです。
若宮を調べるのは簡単ではないでしょうけど、
現地が古屋敷という字名というのが気になります。

ここは玄海灘から船で遡って来て、山の手前で荷を下ろすような位置です。
豪族の屋敷があって、積み荷の管理もしていた可能性はありますよね。

船原古墳の被葬者にとって、聖地というより小湊だったのかも知れません。

普通、古墳の造営地というのは、集落より高い所を選ぶのかな。
そうすると集落はもっと下流域に求めるのがよいのかも知れませんね。

何よりも、興味深いのはこの谷山川を下って行くと、直接、鹿部田淵遺跡に辿り着くことです。
糟屋の屯倉の候補地の一つです。

もし葛子が命乞いした屯倉でなかったとしても、
そこは仲哀天皇の時代には軍船の訓練地だったのですから、
相当な武器が格納されていたと思われます。

時代はどうなってるんだろう。
527 磐井の乱
603 久米皇子死去
6世紀末~7世紀初め 船山古墳の馬具

おお、被葬者は磐井の乱に関わったかも!
(敵かな?味方かな?)
俄然、面白くなったぞ。

これは目の前の川を下った所の古代のようすです。

c0222861_18191887.jpg


鹿部田淵遺跡
http://lunabura.exblog.jp/16495118/

に掲載しています。

ブログで紹介しているところは
皇石神社 
永浦古墳の鎧兜(⇒古賀市立歴史資料館)  
新宮町の神功皇后伝説  です。

地図 八幡宮 古賀市谷山





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by lunabura | 2013-05-03 21:28 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(0)

旗頭神社・ 竹内宿禰の陣営地だった


旗頭神社
はたがしら
北九州市八幡西区陣原
 竹内宿禰の陣営地だった

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北九州市を通る国道三号線は大変交通量が多いのですが、
その道沿いに旗頭神社はありました。

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地名が陣原(じんのはる)という事で、戦国時代の頃の陣営だろうかと思っていたのですが、
これがなんと竹内宿禰の陣営跡というので、とても驚きました。
珍しく石段が無く、平地に建っています。車の喧噪は全く聞こえません。

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御祭神は武内宿禰 志賀三神 住吉三神 大国主命 事代主命 麻生興春神霊です。

この宮は主祭神が竹内宿禰でした。加えて志賀・住吉・出雲の神々。
ずっと共に戦ってきた海人族たちの神々が祀られていました。
これで内の大臣(うちのおとど・竹内宿禰)を総大将とした
水軍の一大拠点がここにあった事が伺えます。

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それほどの大軍勢が駐屯できるのだろうかと境内の裏に廻るとけっこう広いです。
由緒書きを読んでみましょう。(一部改変)
旗頭神社由緒 
創建 大永2年(1523)
祭神 武内宿禰
志賀三神 住吉三神 大国主命 事代主命 
麻生興春神霊

二千余年の昔、応神天皇は武内宿禰に筑紫路の人民視察を命ぜられた。命を奏した武内宿禰が洞(くき)の海を過ぎるとき、西北の方に怪しい声がするのでこの地に陣を構え警戒を厳にした。陣原(じんのはる)の地名はこれによると言い伝えられている。

明応・永正の頃(1492~1520)黒崎花尾の城主として遠賀一円を領有していた麻生興春が花尾城から山鹿城に移るとき陣原の里でしばし憩い、この亀山の地は殊の外眺めがよく花尾の本城も望むことができる。没後はこの地に葬るよう家臣に言い遺して旗を指し立てて標(しるし)とした。大永2年(1523)興春の遺志によって旗指社が創建された。

慶長11年(1606)黒崎城山の城主井上之房は敬神の念が篤く特に武内宿禰の徳を敬慕していたので社殿の再興が行われ、之房が住いを陣原に移す頃、旗頭社と呼ばれ、陣原の産土の社として広く尊崇された。

その後、長年の風雪と共に老朽も加わったので幾度か加修改築が行われたが文久2年(1862)の社殿造営で今日に至った。
この由緒書きでは竹内宿禰が陣営を構えたのは応神天皇の時代になっています。
応神天皇は神功皇后の皇子です。
前回の熊野神社で皇子としばらく別れる決意をした神功皇后ですが、
その皇子を預けたのが竹内宿禰でした。

皇后の亡きあとも竹内宿禰は生き続け、筑紫の国々の視察を命ぜられて、
再び筑紫に戻って来た時に、ここに陣営が継続していたとすると
ストーリーがつながってきます。
武内宿禰はこの時、若松恵比須神社でも松を植えたと伝えられています。
伝承をつなぐと古代の交通の要衝や陣営地などがだんだん姿を表して来ました。

さらにこの陣営に関する別の伝承が『福岡県神社誌』に書かれています。
社伝にいわく、神功皇后が西夷を討とうと武内大臣を施主にして新羅に至った。新羅の王は戦わないで降伏した。高句麗・百済の二王も畏れて和平を申し入れた。

皇后は凱旋の時にここで陣を構えた武内宿禰の軍令が厳整としていたので、「いくさばる」と称した。その後、社廟を建てて旗頭神社と名が付いたのが当社の起源である。
これを見ると神功皇后の時代に既にここに陣営を構えていたのが分かります。
ここは軍事的に重要な所でした。

それから1000年以上も経って城主・麻生興春がここに来た時
その眺望のよさに自分の墓所として選び旗指社となりました。
最初に石段がなくて平地だと書きましたが、
全体が高地にあって眺望が確保された立地だったのがこれで分かります。

江戸時代になって城主・井上之房が武内宿禰を敬慕していて
住いをここに移して旗頭社となりました。
武内宿禰の活躍は武将たちの崇敬の的だったのですね。

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神殿です。こんな身近に武内宿禰が祀られていたとは。

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周囲に古木が残っていて、とても大きいです。

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梅の木かなあと思ったけど、何の木かなあ。

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裏の方に出るとタギツ宮の鳥居がありました。宗像の姫神です。
奥津神社(タギツ島比売命、伊須岐依姫命、大己貴命)です。
これはかなり古い組み合わせのようですね。
タギツ姫と大己貴命は楯崎神社によると夫婦神です。

伊須岐依姫はイスケヨリ姫でしょうか。
そうだとすると神武天皇の大后で、三輪と三島の通婚で生まれた姫です。
鉄の民の姫です。

周囲の地名を眺めると、穴生に鉄竜、鉄王。これはすごい。
考古学的にたたら跡の出土を調べる必要がありますね。
(誰か八幡の古代製鉄を調べていないかな…。)

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境内にある稲荷神社と椋の木です。物部氏の鉄の暗号です。

う~む。このタギツ姫の宗像族が加わると、志賀安曇族・住吉族・出雲族+宗像族という
そうそうたる海人族たちの顔ぶれとなります。
これに前回の熊野神社の熊野族を加えると五大海人族になる。
(あれ?熊鰐さんの熊族が熊野族だ…。)
武内宿禰はこの倭国の水軍をすべて掌握していたんだ。なかなかのものだ。

考えるに、この近くに古代製鉄所があって、
それを守る陣営がもともと、ここにあったのではないでしょうか。
神功皇后と朝廷の百官が北九州に滞在中に海軍はここに拠点を置いた訳です。

皇后の滞在が長引いたのは、香坂王との戦いの為の準備に加えて、
皇后の乗る船の帆柱が折れて、修理をしなくてはならなくなったという事情が絡んでいました。
その修理所が中宿八幡宮(なかやど)です。次回はそこへ行きましょう。


地図 旗頭神社








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by lunabura | 2012-03-30 14:49 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(2)

福成神社・景行、神功、斉明、中大江皇子が参拝・朝倉橘広庭宮は近い

福成神社
ふくなりじんじゃ
福岡県朝倉市入地
景行、神功、斉明、中大江皇子が参拝した宮
朝倉橘広庭宮は近いぞ
 
前回の太刀八幡宮から南へ1.5キロ。
歩いても30分かからない所に福成神社はあります。
筑後平野の中の集落の中央部にあり、
くねくねと曲がる狭い道に突然神社が現れるような所です。
神社を中心にして町が形成されたような印象を受けました。

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一の鳥居です。道路に並行しているので、左右をキョロキョロしないと
通り過ぎそうです。

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参道のモザイクがおしゃれで、
両脇の桜の木が春にはさぞかし美しいだろうと思われます。

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拝殿です。柱があるだけでとても開放的。
雨風の時には雨が降り込むのでしょうか。

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拝殿には沢山の絵馬が奉納されています。羅針盤が中央にありますね!
海人族に関係があります。

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神殿です。

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訪れた時には銀杏の実が色づく頃でした。
境内にはネットが敷かれ、銀杏の実が収穫されていました。
季節に即した人々の営みが今なお息づいている処でした。

ここは旧朝倉町。各地の史跡に説明板が設置されています。
これを読みながら驚愕しました。
福成神社 朝倉町大字入地字宮ノ本1673

祭神 宗像三女神(田心姫命・市杵島姫命・湍津姫命)
   斉明天皇
   天智天皇
別名を「印鑰(いんやく)大明神」ともいい、朝倉町で最も古い神社である。毎年10月26日には祭礼が行われる。

 その昔、神功皇后が熊襲を征伐し、三韓に兵を進められた時、宗像三神を祀り海路の安全を祈られ、この地に来られたといわれている。この時皇后は、「神の助けによって大いに福成りぬ。」と言われたことから、福成神社といわれるようになったと伝えられている。

また斉明天皇も、百済救援の時、中大兄皇子らと共にこの神社で戦勝祈願をされたといわれている。

なお、神社の東方には、謡曲で有名な「綾の鼓」の舞台となった桂の池跡があり、謡の中に出てくる「源太老人」を祀ったといわれる地蔵尊が、神社の西側にたてられている。
あっと驚く名前が次々に出て来ます。上から順に見ていきたいと思います。

印鑰(いんにゃく・いんやく)
印鑰神社はこのブログでは、高良玉垂宮にちょっと出て来ましたが、
「印」とは印鑑。「鑰」とは鍵。
朝廷から預かった印鑑と鍵を特別に保管した所が神社になったりしています。
ここも、そのような役所があったのでしょうね。
中心的な場所だという事を示しています。

神功皇后と三女神
神功皇后は太刀神社からここに来たのではないかと考えました。
田油津姫攻撃をするためには、ここからは海路になるのです。
その為に水の神である宗像三女神に神助を祈願しました。

ここに三女神を祭ったのは景行天皇です。
その時代から三女神を守護とする氏族の拠点だった事を意味します。

その氏族とは水沼の君です。
「宗像三女神は水沼の君のもちいつく神である」
という日本書紀の記述が整合して来ます。

最近わたしは「みぬまかたむなかた」と変化したのではないかと
考え始めています。

水沼の君の一族は有明海から中つ海(筑後川+宝満川)の
浅い海の航海技術を持っていたと考えます。
この時代は水が豊かでした。
しかし、「中つ海」が堆積して陸地化すると活躍の場を失い
新天地を求めて宗像市に移ったのではないかと思い始めています。

宗像方面のある学芸員の人と話し合ったのですが、
  宗像族は安曇族より新しい。
  古代には宗像族は宗像市に見つからない。
  いったいどこにいたのだろう。
  鞍手郡の六ケ岳に降臨したというが、その前は何処に居たのだろう。
という問題でした。
そしてこの筑後川流域に古くから三女神の祭祀があるのを知ったのです。

ここは水沼の君のエリア。
その祖は国乳別(くにちわけ)皇子。景行天皇の子です。(⇒弓頭神社)

この福成神社で景行天皇が三女神を祀ったという点。
近くの太刀神社も三女神。
そして赤司神社(久留米市)にも三女神。
三女神の元の形が次第に浮かび上がって来ました。
詳しくは赤司神社でさらに考えたいと思います。

斉明天皇と中大兄皇子も参拝した
ここは景行天皇の祭祀した宮という事で神功皇后がやって来て、
新羅に勝ちました。
400年以上経って斉明天皇と中大兄皇子もその故事に倣ったのでしょう、
朝倉橘広庭宮に到着後、三日目には参拝したと伝わっています。
新羅と戦うために是非ともこの神の神助を仰ぎたかったからです。

朝倉橘広庭宮はまだ宮跡が特定されていませんが、
モガリの宮となった恵蘇八幡宮木の丸殿はここから東へ5キロの所です。
広庭宮はかなり近いことが分かります。

そして、源太老人の墓が神社のすぐ左隣にある事から、
宮に仕える女官たちの宿舎も近い事が分かって来ました。

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これがその源太老人の墓石です。そこにも説明板がありました。
今から約1300年前、斉明天皇が朝倉橘広庭宮に遷られた頃、天皇にお供してきた女官に、庭掃きの「源太老人」が思いを寄せていた。しかし、身分の違いからこの恋は実らず、源太老人は「桂の池」に身を投げて自殺してしまった。

一方女官は、毎晩源太老人の亡霊になやまされ、とうとう気が狂い池に身を投げてしまったのである。そこで、源太老人の供養のためにこの地蔵尊がたてられ、隣には源太の墓がたてられたのである。

この地区では、毎年4月13日になると、源太老人の供養のためにお祭りが行われている。なお、現在、桂川にかかる橋名を「宮殿橋(ぐうでんばし)」といい、その横には「桂の池跡」の石碑がたっている。
源太老人の恋の話はどこかで聞いたことがあったのですが、
その話の現場がこの朝倉だったとは全く知りませんでした。

この女官は、天智天皇の寵妃だという説もあり、
一目見ることも許されないのはやはり身分がかなり高い人だっただろうと思いました。
女官の宿舎や桂の池跡は宮から近いとのことで、只今、朝倉町に問合わせ中です。

このすがすがしく明るい宮の近くに大きな池があり、その橋は宮殿橋と言った。
女官の宿舎がすぐ近くにあった。
朝倉橘広庭宮をめぐる女官や掃除人たちの哀しい事件。
想像だにしなかった王朝絵巻がここに眠っていたとは。
ここの地名は「宮ノ本」。

近辺の神社にも天智天皇の伝承がいくつか見られるので、
今年はぜひ全体の位置関係を把握したいなと思っています。

田油津姫攻撃の想定ルート
さて、神功皇后はここから船で有明海に行くのですが、
そのルートはどうなっているのだろうかと考えました。

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すでに、小郡市の「津古」から船に乗って、
行在所の老松神社で祭祀をしたという伝承を紹介しています。(⇒老松神社(小郡市))

そのラインを結ぶルートを考えると、
いったん大本営のある松峡八幡宮に戻る為に陸路を北上。
針摺(はりずり)で宝満川を渡り、津古(つこ)に出る
と考えたら上手く行きました。
「針摺」は入り海が一番狭い所。
「津古」は有明海へと渡る帆かけ舟が停泊する大きな湊でした。

しかし、この想定ルートに自信がなくて、神社誌を見ていると、
「神功皇后がお腹が痛くなった」という神社がラインに乗って来ました。
それが地図の左上の松尾宮です。
次回はそこに行きましょう。

地図 福成神社





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by lunabura | 2012-01-07 21:07 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(4)

筥崎宮・若鷹たちよ。名古屋で暴れて来い!


筥崎宮
はこざきぐう
若鷹たちよ。名古屋で暴れて来い!
 
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八幡さまも応援してるよ!
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by lunabura | 2011-11-15 00:01 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(2)

阿弥陀が峯と埴安神社・二上山が見える久光・三輪・奈良


阿弥陀が峯と埴安神社
福岡県朝倉郡筑前町久光
二上山が見えるここは久光・三輪・奈良
 

栗田遺跡から見える二上山。綺麗にV字になる所があるはず!

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都合良いことに東へと向かう道がありました。

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道は山に並行です。

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Vの間の山が見えなくなって来た。

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ここじゃない? 完璧。

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すると直角に離れて行く道がありました。この先に観測点があるかも?
写真の道を手前の方に走ると集落があって、鳥居が!

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埴安神社だ。土の神様だ…。光と関係ないんだ…。ちょっと期待外れ。

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でも場所はどんぴしゃりなんだけど。

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ムラの鎮守の神様です。

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摂社があって菱形の御神体石が祭られていました。

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社殿の裏に廻ると、さきほどの二上山がよく見えました。
しかも、さらに奥にVが重なってる。これで条件は揃った。
やっぱり祭祀点だろうか。

二上山の名前は分からないのですが、そこは「阿弥陀が峯」という地名でした。
「阿弥陀」ならサンスクリット語で「光」。仏教が入って来ての名なら死者の山か…。
今立っている地名は「久光」(ひさみつ)。

太陽は谷から昇るかな…、と地図を広げようとして嫌な感。
私たちは東に向って走った。という事は「阿弥陀が峯」は北?(焦)

あ“~。やっぱり。V字の谷から太陽は昇らない~。
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(黄色の破線は皇后軍の推定進軍ルート)

と言う事で、るなの推論は見事にハズレ。

でも、この横の地名は何だ。三輪、奈良、大己貴神社と並んでる。
まるでここは奈良県?と勘違いしそうな地名がずらり。
近畿と福岡の地名の並びが似ている事は有名だけど、ここは原郷。
奈良の原風景を見ているのだろうか。

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結局、ここ「久光」は太陽祭祀線がない所でしたが、
この埴安神社は、栗田遺跡で出土した赤い磨研土器や
仙道古墳のあの面白い埴輪なんかを作った人たちが奉斎した神社なんでしょうね。







さて、神功皇后軍の話に戻りましょう。
地図を見ると、皇軍はこれまでは羽白熊鷲に対して山影を移動していましたが、
ついに敵陣から流れて来る川を遡らなくてはならない所に出て来ました。
敵に姿をさらす事になります。
これで敵前逃亡者が出てしまい、「これは大己貴の神の祟りだろう」と言う事で、
皇后は大己貴神社で祭祀をしています。

そして、この敵の目をそらすために、ある作戦が別動隊で実行されていました。
それは美奈宜神社(みなぎ)で起こっていました。 
次回はその神社に行ってみましょう。








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by lunabura | 2011-11-10 21:28 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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