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カテゴリ:日守神社・ひまもり・粕屋郡( 2 )

日守八幡神社・もう一つの日守伝承地


日守八幡神社
(阿恵日守八幡宮)
あえ・ひまもり
福岡県粕屋町大字阿恵天神森288
もう一つの日守伝承地

かつて「日守神社」を紹介しました。
神功皇后の伝承があるという事で紹介したのですが、
コメントでShrinePriestさんから、
もう一つ、日守八幡神社がある事を教えていただきました。
二つの日守神社があったんだ。 
早速出かけたのですが、記事にするのはずいぶん遅くなりました。

地図を見ると福岡篠栗線607号線から北に入った所で、簡単に見えましたが、
行ってみると道幅が狭く、くねっているような昔ながらの道沿いで、
キョロキョロしながら探しました。

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珍しく石段がない宮です。この角度から境内のほぼ全体が撮れました。
楠の巨木が歴史をしのばせます。

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鳥居の正面に対して、道路が斜めに走っています。

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扁額には「八幡宮」とだけ書かれています。

c0222861_2162748.jpg

拝殿です。御祭神は応神天皇と神功皇后と菅原神です。

由緒について、戴いたコメントから抜き出します。
追記となりますが、「日守八幡神社」の由緒ですが、
御祭神:応神天皇 神功皇后 菅原神
由緒:神功皇后三韓征伐の砌(みぎり)、宇美にて御生の際、此の地に暫く駐輦(ちゅうれん)、何事ならんかと日を守り給いしより、字(あざ)の名を「日守」(ひまもり)と云い、「日守石」もあり創建せられしお社にて、後篠栗線の横断に依り天神森に移築。天満宮と合祀す。(明治四十三年六月三日)
上記のデータは昭和四十一年に当時、糟屋郡篠栗町のとある神社の宮司さんによって編輯された「粕屋郡神社誌」よりの抜粋です。
(句読点、読み仮名を追加しました。)
内容をまとめると、
神功皇后の三韓征伐の時、宇美で出産する際、ここでしばらく乗り物が留まったので、「どうしたのだろうか」と日を見守られた事から、字(あざ)の名が「日守」(ひまもり)となった。「日守石」もある。この縁で創建されたお社だが、後にJR篠栗線が横断したので、この天神森に移築して天満宮と合祀した。

という事です。
この宮は移築されたものなのですね。
地図を見るとJR篠栗線はすぐそばなので、それほどの距離ではないと思われます。

c0222861_2171722.jpg

境内にあるこの石碑はその事情を書かれたものでした。


「日守石」を探しました。
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楠の根元に石があるのを見つけたぐらいで、他には見当たりませんでした。

石を観察すると、左の二つはドルメン石のようです。近くで出土したものでしょうか。
右の方の半分土に埋まっている石がそれらしいのですが、よく分かりません。
これまでの逍遥で各社で見た神功皇后の腰掛石とは違って、立っています。
石碑なのかな…。
ShrinePriestさんがまたブログ訪問してくれて、教えていただけたら嬉しいのですが。

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これは本殿の横にあった石祠です。
梅の紋なので、これが合祀される前からの道真公の神祠でしょうか。
不思議な事に、八幡神社の社殿と反対向きになっています。
しかも扉が開かないように固めてあります。
どうやって祭祀するのだろうと謎が残りました。

c0222861_2184060.jpg

これは神殿の後から撮ってみたものです。
社殿の右に楠があって、その根元に石があり、その手前に梅紋の石祠です。
位置関係が分かりますか?
移築した時に、それぞれの神社の方向を大事にした為に、
こうして互い違いなのかなとも思ったのですが、どうなのでしょうか。

日守神社と日守八幡神社は須恵川を挟んでいました。
その距離はわずか500mほど。
日守(ひまもり)には夷守(ひなもり)駅があり、万葉時代の交通の要衝でした。
(万葉歌人については日守神社の方に書いています。)
船着場があって、この一帯が「日守」と呼ばれていたのでしょうか。

神功皇后がここを通過したことを忘れずに人々が自分たちの村で祀ったために
こうして「日守八幡神社」「日守神社」の二か所に伝承が残ったのでしょうか。
「八幡」がついた当社が祭祀の中心だったと思われました。

ここに来た時は神功皇后はお産が間近で、急ぐ旅でした。
見知らぬ土地で、不安だったでしょう。
輿に乗っていました。
香椎宮からの女官たちも大勢いたはずで、通過地点の護衛も大変だった事でしょう。
地元の志免町(しめまち)のHPでは、
香椎宮で産所を占ったように書いてあります。
確かに、当時は吉の地を鹿の骨や亀の甲羅で占った可能性はありますね。

志免町公式hp
方ヶ島【ほうがしま】
http://www.town.shime.lg.jp/site/bunkazai/mukashi-hougashima.html


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Shrine priest さん、コメントありがとうございました。
訂正や補足があれば、是非コメントを寄せて下さい。

蛇足
それにしても、「阿恵」(あえ)という地名が気になります。
阿恵とは「北」という意味です。
そうすると、その南に中心部があるはずです。
地図を見るとすぐ南は別府でした。
別府があるなら、更に本府があるのではないでしょうか。

別府の南を見ると、弥生銀座を抱える丘陵地帯があります。
奴国の王たちがいたと言われる所です。

あれ?
そう言えば、「地名から那国本宮の地が推定された」記事を書いたぞ。

王子八幡宮・竈門神社
福岡県粕屋郡志免町南里宝満山
地名から推測された那国本宮の地
応神天皇出生地であり、玉依姫の陵墓なのか? 
http://lunabura.exblog.jp/16413004/

そうそう、これこれ。

また、次の記事は、神功皇后の駕籠を担いだ人たちの伝承地です。

駕輿八幡神社
神功皇后が休息した宮
(駕輿丁―かよいちょうー宝輦を担いだ人たち)
http://lunabura.exblog.jp/13304380/


ここは神功皇后の伝承の密集地帯です。
次回は御手洗八幡宮に行ってみましょう。


地図 阿恵日守八幡宮






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by lunabura | 2012-08-22 21:13 | 日守神社・ひまもり・粕屋郡 | Trackback | Comments(14)

日守神社・神功皇后伝説と夷守駅とドルメン石


日守神社
ひまもりじんじゃ
福岡県粕屋郡粕屋町仲原西区
神功皇后伝説と夷守駅とドルメン石

ずっと心に引っ掛かりながら、一年たってようやく訪れることが出来ました。
607号線、錦町の信号から柚須方面に進むと粕屋仲原郵便局があり、
その脇から入って、数軒目に神社はあります。駐車場はありません。
神社は参道を残して、家々に取り囲まれています。
神社を中心にして発展した名残ではないかという印象を受けました。

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ささやかな遊具が置かれていて、町の鎮守様のような風情です。
この小さな神社には古い歴史が残されていました。

神功皇后
日守(夷守)の由来のはなし
神功皇后(じんぐうこうごう)は、お産のために現在の宇美町に向かいましたが、その途中、現在の粕屋町乙仲原西区にある日守付近で休憩しました。
そして“日を守りたまいて(太陽をじっと見て)”、「今は何時頃ですか。」と尋ねられました。
この伝説から、休憩した場所を「日守(ひまもり)」と呼ぶようになり、神功皇后が腰掛けた場所をまつって日守神社ができたと言い伝えられています。
(粕屋町のHPより)

前回の若八幡神社からは直線で1.5kmほど南の位置にあります。
神功皇后はこうして休み休みしながら宇美へ向かったのでしょうか。
彼女は途中からカゴに乗り換えた事が駕輿丁八幡宮の伝承から分かります。
通ったルートが特定できるのではないかと錯覚させるほど、
彼女の足跡が濃厚に残されていました。

地図 香椎宮 ⇒ 若八幡宮 ⇒ 日守神社 ⇒ 駕輿八幡神社



夷守駅家
人口も少なかった当時、重要な地点は歴史的に継続されるもので、
奈良時代にはこの場所は夷守駅となって、万葉人が行き交いました。
由緒書きがありました。
夷守駅と歌碑
奈良時代、聖武天皇の時代(724-749)、九州には大宰府が置かれ、政治の中心でもありました。奈良の都への交通の手段は、主に馬によってなされていましたが、当時九州には、11の駅家(馬と人夫の宿)が置かれていたとされています。夷守(日守)はその駅が設置された場所とされ、西海道の交通の拠点でもありました。

万葉集第4巻には次のような歌が詠まれています。

草枕 旅ゆく君を 愛(うつく)しみ 副いてぞ来し 志可の浜辺を

この歌は大宰府の帥(そちー長官)であった大伴の旅人が奈良の都にいる弟の大友稲公、姪の胡麿に遺言を伝えたいと申し出たところ、天皇は両人を勅使として見舞いに訪れさせました。

幸い旅人の病気が全快したので、二人は都へ帰ることとなりました。大伴百代・山口若麿・大伴家持らがこの日守まで送り、ここで別れの宴を催したとき、二人との別れを惜しんで大伴百代が詠んだ歌だとされています。

粕屋町で唯一の万葉歌詞詩で、地元の方々の浄財によって、この歌碑が建立されています。  
  粕屋町教育委員会

大宰府からは船で一緒に乗って来たのでしょう。
ここで上陸していよいよお別れです。宴が出来るようすから、
駅家にはある程度の施設があった事が伺えます。

ここからは馬を乗り継いで、山越えして、豊前に抜けて行ったと思われます。

ドルメン石
拝殿の左脇に平たい石がありました。

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ドルメン石のようです。もともとこの辺りは遺跡だらけだったらしく、
田んぼにしようと掘れば至るところから甕棺などが出て、
鏡や勾玉など、農家はその処置に困って、神社などに持っていったようです。
考古学が生まれる前なので、仕方がないのですが、
箱崎宮の鐘が鋳造される時に、集まった青銅鏡が
たしか一万枚ほどはあったと聞きます。
そのために考古学的な研究は困難になっているようです。

このようなドルメン石も、あまりにありふれたもので、
取り敢えず近くの神社へと持ち込まれたものかも知れません。
それでも、神社という形態があったので、この地の歴史が地名と共に残されました。
神社も地名も大切なものですね。

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境内にあった桜が、ちょうど見ごろを迎えていました。




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by lunabura | 2011-05-29 17:00 | 日守神社・ひまもり・粕屋郡 | Trackback | Comments(8)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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