ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:高良大社・玉垂宮・久留米市( 17 )

高良玉垂宮神秘書 黒龍紋は玄孫大臣



黒龍紋は玄孫大臣




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この不思議な絵は「高良玉垂宮神秘書」に載っているもので、
黒龍紋を具体的に描いたものだ。

241条に書かれている。


描き方の指示が載っている。

五か所ぐるりと巻くように。
ウロコと足と手、顔そして尾は剣の形。なるほど尾の形は特徴的だ。


これは玄孫大臣の紋ということなので、武内宿禰の紋と解釈した。




門光紋というものがある。


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住吉神が四天皇として雲間から現れたようすを描いた紋だ。

この住吉神は何故か兜率天に居た。
(神が仏の世界にいたという不思議)





本条の説明を書こうとしたが、
論理が破綻していて、上手く説明できない。(´・ω・`)

要するに、
天武天皇即位二年に仏教が入ってきて、上宮も下宮も物部氏が頭領となったため
黒龍紋も門光紋も同じように使うようになったということ。

上宮は安曇から物部そして住吉と変わるので、ややこしい。


「玄孫」ということばも、1条ではアマテラスのひ孫だと書いているのに
本条では龍宮の孫と書き換えている。

書いた本人ももう分からなくなっているのだろう。
取りあえず、原文を平仮名書きに代えたものを掲載。



五輪が終わった夜長にチャレンジしてくれたまえ。

そういえば、この黒龍も五輪だ。

この話はややこしすぎて、歴史カフェでは触れませぬ。




「二四一条
一、表筒男尊 玄孫大臣の異国のヲンムケニハ、御紋は黒龍にて、五所巻きたる龍なり。イリコ、足、手、面(つら) 尾の剣までありありと描くべし。これリウコウの御孫たる故なり。母方なり。御兄弟の流れなれば、大菩薩の御紋、門光を今に大祝職紋にいたすなり。大祝職の紋、黒龍を大菩薩の御紋にいたすこともあり、これ即ち大菩薩、大祝職同体異名たる故たり。門光を五ところ描き、龍をかくのごとく描くなり。」





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by lunabura | 2016-08-24 22:23 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(18)

高良玉垂宮神秘書・ミサキカラス

高良玉垂宮神秘書

ミサキカラス


先日、こんばんわんさんから、古代日本の帆かけ舟の線刻画が紹介されました。

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3世紀の岐阜県大垣市荒雄南遺跡から出土した土器に描かれた三隻の船のうち二隻は帆かけ舟だということです。中央の吹き流しの様子など、生き生きと描かれています。

多くの櫂(かい)はクフ王のピラミッドの脇に埋納されていた太陽の船を思い浮かばせます。



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(画像出典 ウィキペディア)
エジブトで復元された太陽の船の画像を見ると、多くの櫂が躍動的です。テレビで見た復元船には帆がついて、優雅にナイル川を通っていました。



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これは、先日紹介した「ふくおか古代ロマンの旅」(福岡県大阪事務所)のイラストです。

上が福岡のうきは市の珍敷塚古墳の壁画。下がエジプトの紀元前14世紀ごろの壁画。下の画の舳(とも)を見ると、撞木鮫(しゅもくざめ)のような形をしています。
先程の荒雄南遺跡の舳の形はそっくりですね。

これらは、いずれ古代エジプト人の渡来を裏付けるものになることでしょう。海には国境はなく、古代人にとっても海洋は境界のない自由な世界だったようです。




日本とエジプトに共通する太陽の船の舳先(へさき)にいる鳥が今回のテーマです。


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珍敷塚古墳では赤い色で描かれていますが、その姿はカラスを思い起こさせます。足、何本かな?よく分からない。

昨日、過去記事の八咫烏を再掲したのは、この「カラス」について考察したかったからでした。


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このカラスは大善寺玉垂宮の縁起絵巻にも描かれています。しかも石人の上に止まっています。これは二本足です。

この武人像が「石人」(せきじん)であるという理由は他の人物(この画像外)が多色で描かれているのに対して、単色で描かれているという点にあります。

先日、久留米大学で吉田氏がこの武人像は磐井ではないかと発表されたのですが、カラスのことは分かりませんでした。ところが、思いがけない所にその解答が書かれていたのです。それが「高良玉垂宮神秘書」の中でした。

このカラスは「ミサキカラス」と言いました。142条

【訳】(酒見から)大菩薩は御船に乗って黒崎に上陸されて、住む所を探して御覧になると、北の方角に山があり、そこが良いと思われ、御旗を三流れ投げられた。旗はほどなく飛んで上宮の上に立ち靡いた。旗が靡くその方向を旗崎と名付けた。

また一説にはその三流れの旗が届いた?ともいう。背後を固めの兵に任せて登られた。

瀬高イチカウラへ馬で行き、山の景気をご覧になったのでイチカウラという地名がついた。

その後、遥か彼方に人が大勢見えた。「異類が攻めて来るぞ」と思われて、ミサキカラスを遣わして調べさせた。すぐに行って彼の人を噛んだ。「人形だ」と言われたので「人形」と名がついた。


大勢の人がいて、異類(異国人)に見えたので、高良大菩薩は「みさきからす」を遣わすと、カラスが人に噛みついても全く動かなかったことから「ヒトカタ」と分かった訳ですが、これが石人を指すと考えられます。

石人石馬は磐井の時代のものですから、大菩薩(安曇磯良)3世紀初頭と時代が逆転している点は、前述の仏教の話と同様、時代が分からなくなっていたからでしょう。

そうすると、この人形の話は創作となる訳です。が、大善寺玉垂宮縁起絵巻が高良山と同様の縁起を伝えていることは押さえておきたいと思います。

今回のテーマである「船の先に描かれている鳥」は筑後では「ミサキカラス」と呼ばれていたのが分かりました。「みさき」を頭注では「御前」と書いていました。

真鍋はカチガラスが八咫烏であり、賀茂氏がそれを伴って縄文弥生には渡来していたように書いています。賀茂氏は「隻眼一目の神」と崇められたともいいます。鉄を作り、金銀を作っていました。


八咫烏=ミサキカラス
国によって、地方によって言い方が違うけど、船の先で安全を確かめて導いてくれる鳥のようです。










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by lunabura | 2015-08-11 21:36 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(0)

神秘書・神功皇后の船は三本マストの竜骨船だったのか。(2)

神秘書・

神功皇后の船は
三本マストの竜骨船だったのか。(2)

前回は、弥生末期に帆柱の船を作ったという伝承が周防灘周辺各地に伝わっている話をしましたが、その船の構造について「高良玉垂宮神秘書」に書いてあるので、今回はその条を読んでみます。

(カタカナと漢字の原文を平仮名と漢字に直しています。一部の漢字には綾杉の解釈が入っています。)

213条
【訳】異国征伐の時、御船を作られたことは、神功皇后が阿弥陀如来の変化でいらっしゃるからで、六十八チウセの悲願を起こし、人倫苦界の衆生を御救いになった法蔵比丘の誓い四十八願を忘れずに四十八艘の船を作られた。

御船の長さは天神七代、地神五代合わせて十二代を表して十二丈と定められた。ともは五色で、五仏を表す。舳先(へさき)五色は五躰尊不動を表している。中の船ハリ四つは四天王、ともの船ハリは金剛界の大日、へさきの船ハリは胎蔵界の大日を表す。

以上、船ハリ六本である。三本の帆柱は過去、現在、未来を表している。船の名は竜頭鷁首と名付けた。


上記には検討すべき問題がいくつかあります。思いついた課題は次のものです。

1)船の設計理念が仏教によるものである。仏教伝来と時代が合わない。
2)船には三本の帆柱があり、竜頭鷁首であった。
3)三本マストは神功皇后の時代のものか、神秘書の成立時代のものか。

1)船の設計理念が仏教によるものである。

「神功皇后が阿弥陀如来の変化(へんげ)」と書かれています。神功皇后は香椎菩薩とも言われていますが、ここ高良山では阿弥陀如来の化身と考えられていました。

しかし、仏教の説明は時代が合いません。手掛かりが「法蔵比丘(びく)」です。

建造した船の数の「48」という聖数は「法蔵比丘(びく)の誓いの数」が起源と書かれています。「法蔵」を調べると643年生まれで 712年没。中国唐の時代における華厳宗の僧となっています。

時代が明らかに逆転しているので、213条に書かれた船の構造に仏教の思想に基づくという説明は後付けの作り話だということになります。
 


2)船には三本の帆柱があり、竜頭鷁首であった。

「竜頭鷁首」は原文は「リウトウケキシウ」となっています。
「竜頭」とは船首に竜の彫り物をしたもの、「竜頭」とは「げき」という想像の鳥の彫り物をしたもので、二艘一対の平安時代の船です。


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画像はフォト蔵より

竜頭鷁首に関しては、平安王朝文化と神功皇后を結びつけた想像の話でしょう。



3)三本マストは神功皇后の時代のものか、神秘書の成立時代のものか。

三本マストについてウィキペディアで調べると、地中海では紀元前7世紀にはマストが付けられ、三本マストの最も古い記録が紀元前240年ごろに出て来るとあります。

当時、フェニキア人が地中海から外海にでてスペインへ行った記録も書かれています。フェニキア人というと、琉球大学の木村教授が与論島沖の海底遺跡はフェニキア人のものという説を出してあります。

真鍋の家伝にもフェニキア人が日本にやって来た話が次のように書かれています。

(双子座の一対の星、カストルとポルックスは)地中海では、北極星以上にこの方が航海目標になっていた。Troyaトロヤ人Phoensiaフェニキア人は、いずれもこの星を仰ぎ見て行方をさだめていた。

そして船の檣(ほばしら)に電光なるSt.Elmoセントエルモの炎が輝く時、嵐がいかに猛り狂っても、その船だけは神に守られると信じていた。しかしその子孫がいつの頃か極東に進出した後はこの神話を語る倭人はなくなっていた。

替って風神天女が帆柱の上を舞うと嵐はやがて静まるという奇蹟にも似た伝説は仁治元(一二四一)年のころまで筑紫に語られていた。

 西海は神代のころ志那都比古命を祀り、これを日夜拝んで船の行方の平らけく安らけきを祈る信仰があった。『儺の国の星』p188
 


トロヤ人やフェニキア人は、帆柱の先端が発光すると嵐が収まることを知っていました。彼らは極東(日本)に来ていたのですが、その話がいつしか消えました。しかし、その発光現象が風神天女の舞という形に変化して伝わっていたといいます。


また、真鍋は他に、ウラルアルタイ民族の巫女の部屋に鳥の首の彫刻を飾りつける習慣があり、これが天鳥船(あめのとりふね)の守り神として、港や岬の石塔に竿につけて建てられたとも書いています。

この双子座を筑紫では聖母星と言い、「神功皇后と皇子」に見立てていました。

鳥の首、船、二つ星(双子・神功皇后母子)。

どことなく星の伝承と神功皇后の船、竜頭鷁首が重なってきます。

神秘書を書いた保房(やすふさ)は戦国末期から江戸初期を生きた人。彼の記憶には千年以上も前の皇后の面影がこのようなキーワードで残っていて、言語化するとき、一対の竜頭鷁首やマストの話となってしまったような印象を覚えます。


真鍋はフェニキア人についてさらに次のように書いています。

うみへび座のアルファド星を飛廉(ひれん)の星と言う。

フェニキア人(比鸞人・ひらん)が日本に渡航したのは、エジプトの第26王朝ネコ二世(前611~595)が、喜望峰を東に船隊を派遣した頃から始まっていた。
プトレマイオス(前304~30)の世界地図に現在とほとんど変わらぬ極東の形が描かれているのがこの背景にある。


飛廉(ひれん)とは風の神で、三韓征伐の時の倭軍の船をたすけた神です。

真鍋家ではフェニキア人が紀元前6世紀頃には日本に渡航したと伝えていたようです。


三本マストの船を持つフェニキア人が渡来していたなら、皇后の船に三本の帆柱があった可能性も充分にあります。

さて、「三本の帆柱は過去、現在、未来を表している。」と神秘書に書かれています。「過去・現在・未来」と、近代的な発想で語られている点にとても驚いたのですが、これも仏教思想の影響で、保房が考え付いたものではないかと思われます。


ところで、保房が生きていた時代、中世末期から近世初期といえば、南蛮船が渡来していたはずです。南蛮船が三本マストだとすると、保房が南蛮船から連想して書いた可能性もあると思い、画像を探してみました。

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画像出典
http://www.bungobunka.com/pro22.html


ありました!これは三本マストですね!保房が南蛮船を見たり聞いたりした可能性も出てきました。そのため、神功皇后の船も「かく在らん」と考えた可能性もあります。だからと言って、皇后の船が3本マストではない証拠とはなりません。

以上、神功皇后の船にマストがあったことは確信しますが、3本だったかどうかは、213条だけでは決定できませんでした。



次に竜骨について。

237条
【訳】大善寺の名の起こりは、高良山の寺社が始まった月に大菩薩のお言葉に「大いに善き所」とあったので、大善寺と付いた。大菩薩が高良山へ来られる前に、九月三日、大善寺に上陸され、五日間逗留され、船を検査し、カウラを捨てられたことから、御舟山という。七日の午の刻から舟を仕立てて酒見へ上陸され、波風の神(少童神)をおさめ、天の二十八宿、地の三十六、二十五余り併せて九十九尊を祀られた。のちには風浪権現として祀り、やがて九十九社とした。(略)


文中、カタカナのまま書いた「カウラ」を注では「竜骨」としています。

久留米の大善寺玉垂宮はその船が御神体とされています。船をどうやって御神体とするのかイメージが湧かなかったのですが、竜骨が御神体とすると、うなずけるものがあります。

酒見には風浪宮があり、近くに国際港だった榎津があります。そこから筑後川沿いに大善寺まで大型船が乗りつけられたんですね。

安曇族は大陸との交易を考えた時、風浪宮と大善寺玉垂宮は絶対に譲れなかったとみえます。

磯良(高良大菩薩)は乗り捨てた船を検査すると傷んでいたので、新たに小さな船を作った話が神秘書の中にも数カ所に出てきます。

ガイドブックでは風浪宮から大善寺玉垂宮へと筑後川(古有明海)を遡ったという仮説を出しています。神秘書でもそれが裏付けられました。ただし、いったん黒崎に出たと書いてある点が、ガイドブックとは違っています。

77番 風浪宮
78番 大善寺玉垂宮
合わせて読んでください。ブログの方ではまだ仮説を立てるに至っていません。

以上、神秘書の「神功皇后の船は三本マストの竜骨船だったのか。」という課題に対して、その可能性はあると考えました。




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by lunabura | 2015-08-08 21:16 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(27)

神秘書・神功皇后の船は三本マストの竜骨船だったのか(1)



神功皇后の船は
三本マストの竜骨船だったのか(1)


神功皇后の船にまつわる各地の伝承に「帆柱」の伐採の話が沢山出て来ます。それは主に周防灘を中心として豊前から下関にかけてです。特に北九州の「帆柱山」という山名は神功皇后の船に使った帆柱を伐採したことから付いたことで有名です。

これは新造船ではなく、朝鮮半島まで渡航して戻って来た船の帆柱が折れていたので修理をしたのですが、それを選んだ木が生えていたのが帆柱山だったのです。(下巻92仲宿八幡神社)

仲宿八幡神社の宮司さんは熊鰐の末裔で、その修理の現場が境内だったと教えて下さいました。

弥生時代末期に帆柱を持った船が存在する?
それではその帆はどうした?
それは福津市の縫殿神社で造ったのでした。(上巻5縫殿神社)


さて、神功皇后伝承地で何十か所も伝える帆柱の話ですが、考古学会では古代の船はどのようなものと考えられているのでしょうか。

弥生末期の魏志倭人伝に書かれた邪馬台国への海上ルートを実際に船で渡る実験が行われましたが、それは手漕ぎ船でした。

魏の時代は帆船があったのに、倭国へ渡る時には手漕ぎにした、と学界で考える理由は不明です。

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また、阿蘇ピンク石で造られた石棺を奈良まで運ぶのにも、実験船は手漕ぎでした。

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先日、七支刀を見に行った九州国立博物館に白村江の戦いのイラストがあったのですが、唐の帆船に挟まれていた倭国の船はこれも手漕ぎ船でした。

水手(かこ)全員でボートを漕いでいて隙間がなく、戦闘員や大将は何処に座ったらいいのか、武器は何処に置くのか?水や食糧は?疑問が沢山浮んだイラストでした。

博多や松浦からせっせと手漕ぎ船で漕いでいくのは勝機のない戦略です。でも、これが学界の最新の研究結果として堂々と大きなイラストにされたのだと思います。


しかし、「帆柱」のイラストは既に熊本の装飾古墳に描かれているので、最低でも、古墳時代には倭国に存在していました。

渡来人であるフェニキア人やエジプト人、トロヤ人、エトルリア人、ソグド人、徐福、大陸人、などなど。それらは手漕ぎのボートピープルではありえません。彼らは帆船に乗り、その技術はすでに倭国にもたらされていたはずです。




仲哀天皇の都のあった下関の忌宮神社(いみのみや・上巻1)に秦の始皇帝の末裔である功満王が帰化していますが、手土産として養蚕をもたらしたことが記録されています。が、彼らが乗って来た船の造船技術ももちろん新造船に反映されたと思います。

功満王は船の建造、あるいは修理が出来る人を必ず連れていたはずです。すなわち船大工。工具ももちろんのこと。日本に帰化するためには、技術提供も条件となったと考えています。

この時代、神功皇后、というより仲哀天皇が造らせた船は48隻と言われています。造船所として和間の浜や洞海湾が伝わっています。

この洞海湾の中心が先述の熊鰐の仲宿八幡神社ですが、同じ末裔の豊山八幡神社(とよやま・下巻93)では、推古天皇の時にもこの軍団は協力した話が伝わっています。
この時代にも当然ながら帆船が造られたと思います。

ガイドブックをお持ちの方は、上記のように船シリーズでも読んでみてください。各地の神社がお互いの事を知らないのに、整合する伝承を持っているので、わくわくすると思います。もちろん、ブログのサイドバーからもどうぞ。

忌宮神社 上巻1 造船。功満王の帰化
縫殿神社 上巻5 船の帆。
仲宿八幡神社 下巻92 造船と帆柱修理
豊山八幡神社 下巻93 推古天皇の時代



以上から、仲哀天皇の龍船は帆船だったと言えるのですが、その帆柱が3本だったという驚きの話が『高良玉垂宮神秘書』に載っていたのです。しかも竜骨があったとも。

さすがに、これを見た時は思考停止して、スルーしてしまったのですが、クジラさんがそれについて指摘されたので、調べてみることにしました。(つづく)









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by lunabura | 2015-08-06 01:18 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(0)

高良玉垂宮神秘書 神紋と鎧 ・玉垂命と覆面


高良玉垂宮神秘書 
神紋と鎧 
玉垂命と覆面


実は御縁をいただいて2012年の臨時の勅使祭の行列に加えてもらい、鎧と甲を載せた車を引かせていただきました。

高良玉垂宮の祭神、三柱にそれぞれ鎧と甲がありますが、御神紋を知らなかったので、どの神の御神宝を引いたのか分かりませんでした。

「高良玉垂宮神秘書」にそのことが書かれていたので、今日はそれを確認したいと思います。まずは御祭神のこと。

一五三条 一、左宮 宇佐八幡大菩薩   (末梢文字)
一五四条 一、中宮 玉垂大菩薩     (末梢文字)
一五五条 一、右宮 住吉大明神     (末梢文字)
一五六条 一、善神王 左本地 或は両部大日 右本地 或は不動毘沙門

中宮が玉垂大菩薩です。左宮に八幡大菩薩、右宮に住吉大明神。それぞれの神に関して説明があったのですが、消されてしまっています。

玉垂大菩薩が誰であるのか。私は「安曇磯良とその奉斎する綿津見の神」という立場を取っています。

一言でいうなら「安曇磯良」となりますが、現在、高良大社では「武内宿禰」とされています。それは江戸時代からの流れです。この神秘書が書かれたのはその少し前、中世末期です。

ここで注目したのは156条の「善神王」です。これこそ武内宿禰ですね。これで、玉垂大菩薩は武内宿禰ではないことが明らかになりました。

多くの宮で祭神が変遷していますが、ここでも、もともと安曇磯良だったのが、武内宿禰に変わったと考えています。

安曇磯良とする証拠も見つかりました。
22条(祭礼の次第の事)一、大菩薩抱き奉る次第の事、覆面の絹一疋、(略)

高良大菩薩に奉納するのが「覆面」の絹です。これこそ安曇磯良の顔を覆う白い布だと思います。

鎧の色が書かれていました。
40条(幸行有る時の次第の事)
一、住吉の御鎧白糸、八幡の御鎧黒糸、大菩薩御鎧緋縅。(略)


祭神の鎧は糸の色で区別が付けられています。住吉は白糸、八幡は黒糸、高良大菩薩は緋縅(ひおどし)。赤色ですね。


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最前には赤い糸!高良大菩薩です。そして、神紋は木瓜(もっこう)。
次に見えるのが黒糸!八幡大菩薩ですね。神紋は巴(ともえ)です。
最後は住吉ですが、よく見えません。



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この写真も駄目だな。住吉神の鎧は何故か上手く撮れていない。これは真横から撮ったものです。背の方に白い糸が編んであります。神紋は「五七の桐」。横向きです。これを「桐の臺(とう)」ともいいます。



それぞれの神紋の由来も書かれていました。
309条【訳】住吉の御紋に桐の薹を使われることは、鵜戸の岩屋でウガヤフキアワセズの命をお生みする時、御産屋に桐の葉を敷かれたことによる。

産屋の傍の板も桐の木である。その桐の木、桐の葉を採った所を桐嶋と名付けた。これにより、異国を攻められた時も桐の薹を御紋として御攻めになった。

住吉と申すはヒコナギサタケの御ことである。

ちょっと説明がいるけど、住吉神はウガヤフキアエズの事だと書かれています。産屋(うぶや)に桐の葉を敷いたことから桐の紋になったと書かれています。

住吉=ウガヤフキアエズ
これは意外な展開になりました。住吉に関してはもっと調べようと思っています。


さて、話を戻しましょう。次。

310条【訳】八幡の御紋は神功皇后が異国追伐の時、八幡を懐妊されていて、御舟の前の水の渦を御覧になって御紋とされたので巴である。


八幡が巴紋だという理由は、神功皇后が八幡をお腹に宿しながら見た水の渦目を見たので渦巻の巴紋になったということです。

そして、高良玉垂命は?
311条【訳】高良の御紋の木瓜(もっこう)のこと。

神功皇后が筑前国四王寺の嶺で大鈴を榊の枝に掛けて七日間、異国の退治を祈られた時、東の空に白雲が現れ、四方に開けて四方に光を放ち、四王寺の嶺に降られた。

四方に開けた白雲は四天王である。御紋の中に四本の鉾を抱えているのは四天王の鉾である。これをそのまま門光(もんこう)と名付けた。

異国追伐の時の高良の御紋はこれである。四方に光を放っているので門の光と書く。高良、四天王に従して天下られる所を四王寺が嶺と名付けた。



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これが高良山の御神紋の木瓜紋で、門光とも書きます。
神功皇后が四王寺山で祈った時、白雲が現れ、四つに分かれて光を放ち、その中央には四天王の鉾が現れたということです。

この文は第一条よりもオリジナルに近いかなと思っています。これが一条では住吉神に変わってしまい、神秘書の中で矛盾が起こります。

このからくりがようやく分かりました。今回は話が逸れるのでまずは紋の話までにしましょう。


で、3年も前の祭だったので、どの神さまのものを引かせていただいたのか、もう記憶がありません (^_^;)

御紋のこと知っていたら、覚えているでしょうけどね。
締まりの無い結果になりました(/・ω・)/ .





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by lunabura | 2015-07-29 22:26 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(12)

高良山の「一火」・三種の神器の行方・神籠石の呼称を戻さねば

 

高良山の「一火」

高良玉垂宮神秘書より
三種の神器の行方
神籠石の呼称を戻さねば


仲哀天皇の崩御後、三種の神器はどうなったのだろう。

そんな謎が頭の中からはすっかり欠落していましたが、『高良玉垂宮神秘書』を読むと、三韓征討後、安曇磯良の操縦する龍船が有明海経由で風浪宮に至るまで、共にあったと書かれていました。

三種の神器の中の「神璽(しんじ)の玉」―即ち、「八尺瓊(やさかに)の勾玉」を「高良大菩薩」は預かっていたと「神秘書」は伝えます。

『神秘書』は中世末期に書かれたものです。その当時から千年以上もの間、語り継がれた物の中には真実も残っているし、書き換えられたものもあります。

特に、「高良大菩薩」に関しては、安曇磯良、武内宿禰、住吉大神、と変遷していきます。

当初の高良大菩薩が安曇磯良である証拠は、大菩薩が風浪宮で浪風の神を祀ることから、明らかになりました。

浪風の神とは綿津見の神のことです。この神を祀るのは安曇族しか出来ないので、「高良大菩薩」は安曇磯良しか有り得ないのです。

福井県の気比神社にも、わざわざ安曇連が龍宮の海の神を祀りに出かけた話がありますが、これも他の部族ではよその神を祀れないことをよく伝えています。

綿津見の神を武内宿禰が祀ることは出来ないのです。風浪宮でも、仮宮を作ったのは武内宿禰ですが、綿津見の神を祀ったのは磯良でした。

また高良大菩薩に奉納する布に「覆面」の絹が含まれていることが分かりました。「覆面」こそ、磯良神のシンボルでしたね。

磯良は干珠満珠を海神から借り受け、武内宿禰に渡したので、新羅からの凱旋の時、龍船には「神璽の玉と干珠と満珠」の三つの勾玉があったことになります。

外洋船である龍船は大善寺玉垂宮に置かれ、小舟で高良山に皇后たちはやってきます。


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こうして、高良山には一時期、「三つの玉」が揃いました。これが神霊の力を発揮したというのです。その霊力を「一火」と呼びました。(読み方は書かれていません)
この「一火」について書かれた214条を今日は紹介します。(るな訳)

当山の「一火」は大菩薩が神璽の玉を、異敵を攻めた時から皇宮に行くまで預かっておられた。また干珠満珠を龍宮から借りて異国を平らげた。

これら合わせて三つの玉の霊力は高良山を一火として照らし、上宮御殿を出て八ヶ寺を巡り、鷲尾を下り、瓦礫場のそばに下り、八葉の石畳を巡り、もとのように上宮御殿に留まった。


もしこの火が消えることがあれば、当山は滅亡する。二、三日照らさなければ必ず苦節が来る。


高良山に伝わる「一火」は神霊の力となって、(原文は「威力」)高良山を照らし、上宮の神殿から出ると、麓まで下り、「八葉の石畳」を廻って再び神殿に戻ったといいます。


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この「八葉の石畳」は考古学者が「神籠石」と名前を変えて紹介したので、本来とは違うものを指すようになってしまいました。

「神籠石」とは「神が籠る石」という意味で、高良山にある巨大な磐座なんですね。


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(この画像一杯の岩盤が神籠石です)

「神秘書」では列石の方を一貫として「八葉の石畳」と書いています。これは結界でした。


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これを山城と考えてしまうと、パネルのような薄っぺらな石の説明が出来ません。


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防御の戦略も考えられませんね。


これは、本来の呼称「八葉の石畳」に戻すべき課題となってしまいました。このすり替えによっても、歴史が正しく見えない原因になってしまっています。



こうして、数行の話なのですが、沢山の説明を要して、どう説明したらいいのか、悩んでいました。

さて、話を戻しましょう。
この「一火」が消えるとき、高良山は滅亡するというのです。驚きの話でした。
そして、これを山上の「一火」とすると、麓にも「一火」があったということが書かれていました。(つづく)




ガイドブックをお持ちの方は「上巻26高良玉垂宮」「下巻77風浪宮」をどうぞ。




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by lunabura | 2015-07-26 21:28 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(6)

干珠満珠の形は勾玉か・高良玉垂宮神秘書から


干珠満珠の形は勾玉か

高良玉垂宮神秘書から



この数日の読書は「高良玉垂宮神秘書」です。高良山の始まりは神功皇后の三韓征討が関わっていました。

この本はカタカナで書かれていて、ブログを書き始めたころは、読み解くのが必死でしたが、ガイドブックを書き終えた今では、内容が良く分かるようになっていました。


先日、「干珠満珠はどんな形をしていたんでしょうかね」という質問を受けました。その翌日、神秘書を読んでいたら、たまたま(いつもコレですが(^_^;))、その答えが書いてあったんです。

で、今日はその部分を訳して紹介します。また、ガイドブックが楽しめるように、( )に掲載神社の番号を付けて紹介しています。お持ちの方は活用してくださいね。


五〇九条
 【訳】干珠満珠は龍宮にて賜ったのち、彼の玉を龍宮から高良へ持って行かれたが、神代(くましろ)に納められたとも申す。それ故に神代(くましろ)を神の代とは書くなり。また、神辺(くまべ)を神の辺(ほとり)と書くなり。彼の玉を神代に納められた。また、阿上に在るとも言う。干珠は白い玉、満珠は青い玉である。長さ五寸ほどである。頭は太く、尾は細いという。それ故に高良を玉垂宮と言う。


解説します^^

「干珠満珠は龍宮にて賜った」
三韓征討の前に、神功皇后や竹内宿禰は志式神社の奈多の浜で神楽を奏して安曇磯良から干珠満珠の秘法を授かったことを指す。干珠満珠を持っている海神の宮が龍宮。(ガイド72番志式神社参照)



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舞台となった奈多の浜


「彼の玉を龍宮から高良へ持って行かれた」
凱旋後、神功皇后の軍船は安曇磯良が舵取り(船長)となって、有明海から入港した。大善寺玉垂宮で乗り捨て、小舟に乗り換えて高良山へと向かう。(ガイド77番風浪宮、78番大善寺玉垂宮参照)

「神代(くましろ)に納められた」
「神代」とは地名の事です。高良山の北麓にあります。筑後川には今も神代橋が掛かっています。その近く、干珠満珠を納めた場所が伝わっています。

「阿上に在る」は注によると「河上に在る」です。「河上」なら佐賀大和の與止日女神社かと思われます。そこにも干珠満珠の宝珠が伝わっています。

「干珠は白い玉、満珠は青い玉」
何度も出てきましたね。北の夜空に輝くポラリスとツバーンの象徴で、その星の色が白と青。海神は二つの玉を捧げて航海の安全を祈ったといいます。

「長さ五寸ほどである。」
出ました!一寸は約3.03センチメートル。3センチ×5=15センチ!大きいですね!!てのひらサイズです。

「頭は太く、尾は細い」
これは勾玉!見事に説明しています。

ということで、干珠満珠は15センチほどの長さの白と青色の勾玉でした。勾玉といえば緑色です。古代は色は四色ほどに分類されたというので、緑でも青に含まれます。



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こんな感じかな。鞍手歴史民族資料館に行くと見られる。(ガイド19神埼神社)


以上、高良山に伝わっている話を紹介しました。実際は違うかも知れません。與止日女神社のものは宝珠の形をしています。


「干珠満珠を納めたことから、高良を玉垂宮という。」
「玉垂」はやはり干珠満珠から発生した言葉でしたね。


【要約】
龍宮から賜った干珠満珠を凱旋後、高良に持って来た時、神代に納めた。
河上(與止日女神社)に有るとも言う。
干珠は白玉、満珠は青玉、長さは十五センチほどで、勾玉の形をしている。
干珠満珠を納めたことから、高良を玉垂宮という。




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by lunabura | 2015-07-18 13:33 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(2)

高良大社 高良玉垂宮 (Ⅰ)筑紫の国魂のおわす宮


高良大社 (高良玉垂宮) (Ⅰ)
こうらたいしゃ      ( こうらたまたれぐう )
福岡県久留米市御井町
筑紫の国魂のおわす宮

福岡の北の方から久留米市に向かうと、平野の向こうに特徴のある山脈が見えて来ます。
耳納山脈です。その右端に一段低くなった山があります。それが高良山です。

広い筑後平野のどこからも見える山で、ここは古代からの重要拠点でした。
その山の頂上よりちょっと下がった所に高良大社があります。
平野から見ても、その横の高良会館が見えてすぐに分かります。

石の鳥居を通って、ヘアピンカーブの道を上ると、開けたところに出て来ます。
道沿いの駐車場に車を止めて降りると筑後平野が一望に。まずはその眺望に見とれてしまいます。

振り向くと高良大社の赤い鳥居です。
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この先の石段けっこう長いです。
朱塗りの山門が息をきらした参拝者たちを華やかに迎えてくれます。
その山門を潜ると、また別の世界。

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拝殿は大変重厚な、伝統を感じさせる建物です。本殿と拝殿は1660年の建造でした。
これって江戸時代が始まった頃?その屋根を見るとすごいです。

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当時の最高の技術の結集が見られます。

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境内の脇では弓道の試合があってました。

さあ、御祭神はどなたでしょう。
由緒書きが書いてありました。
御由緒
左殿 八幡大神
正殿 高良玉垂命
右殿 住吉大神

御神徳 延命長寿・開運厄除・家内安全・商売繁盛など生活万般

高良の大神は、悠久の昔から筑後川の流域に生活してきた人々が、
その生活守護の大神様として奉持して参りました筑後国一の宮であります。

ここは一の宮なんですねえ。筑紫の国魂とも呼ばれています。
筑後でなく筑紫ですから、福岡市方面も含まれています。中心的なお宮なのですね。

御祭神はこれまでにブログで紹介した神社で祀られている御祭神と一部が重なっていました。

まず、八幡大神
左殿の八幡大神とは応神天皇の事です。神功皇后の御子です。
そうです、駕輿(かよい)八幡宮で休憩した時に、
お腹の中にいた赤ちゃんです。そう言えば、この宮も八幡宮という名になってました。

香椎で神功皇后のお腹に宿り、母上のお腹に入ったまま一緒に新羅まで行って、
凱旋して帰った経歴の御子なので、勝利を導く軍神として、全国で祀られるようになりました。

住吉大神
右殿の住吉大神も、これまで神功皇后の旅の守護の神として紹介して来ました。

小山田斎宮で神懸かりした時に現れた神です。
皇后の船旅の安全を守ってくれた神で、今でも、福岡や大阪で祀られています。
(詳しくは別項でと思っています。)この久留米の山の上に、この神々が…。なんでだろう。

では高良玉垂命とは?
この神が誰なのかは分かっていないそうです。
武内宿禰説や藤大臣説、月神説など諸説あるとか。

武内宿禰と言えば、神功皇后をずっと支えてきた人です。
この人は数百歳生きたと言われています。
御神徳に「延命長寿」とあるのとイメージが重なってそんな説が出て来たのでしょうか。

藤大臣説については、
高良山の近くにある大善寺という所の玉垂宮の記事を見ると、
仁徳天皇の時代の話という事なので、少し系統が違っているようです。

月の神様というのは資料がないのですが、意外な所から
この説には十分に理由がある事が分かりました。
それは主祭神の玉垂(たまたれ)そのものがヒントになりました。

次回は「玉垂」についてのお話です。

                                 (Ⅱ)につづく
                              

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by lunabura | 2010-01-05 00:00 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(0)

高良大社(2)玉垂命とは干珠満珠を授けた海の神


高良大社 (高良玉垂宮) (Ⅱ)
こうらたいしゃ  (こうらたまたれぐう)
玉垂命とは干珠満珠を授けた海の神  
高良山にはカペラの伝承があった


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「玉垂(たまたれ)」について気になる事があって社務所に電話で尋ねた事があります。
それは合気道の開祖の植芝守平の本『合気神髄』に「高良の神」の事が載っていたからです。

植芝守平氏はNHKドラマの『坂の上の雲』とちょうど同じ時代の人です。
明治から昭和を生きた人です。
その人の語録集に合気道の呼吸について述べる時の象徴として「玉垂」が出てくるのです。

玉依姫は白玉で潮干珠(しおひるたま)、豊玉姫は赤玉で潮満珠(しおみつたま)、その玉を使いこなすのが高良玉垂の神。


このような内容が合気道の本に書いてあったのでびっくりして、高良大社にお尋ねしたところ、
やはり、玉垂とはこの干珠(かんじゅ)、満珠(まんじゅ)を指すとの事でした。
ほんのこの前まで、玉垂のことについては、常識だったのでしょうか。

玉垂」が干珠満珠だとすると、高良玉垂命とは
潮の満ち引きを司る神と言う事になります。

人は潮が引くときに、息を引き取ります。潮が満ちる時に生まれます。
潮の満ち引きは月のなせる技です。
ですから、月の神様とも言われる訳です。これが御神徳の「延命長寿」にもつながってきます。


「玉垂」をよく考えると「玉を垂れる」という事ですから「玉垂命」とは「珠を与える神」という意味になります。
では、それは誰でしょう。
海神です。志式神社の神楽でそれを見て来たばかりです。

高良玉垂の神が海神だとすると、名前は綿津見(わたつみ)神という事になります。

志式神社の神楽の「磯良舞」、覚えてますか?

あの、インパクトのある白髪の神さまが出て来た舞です。同じ話をもう一度書きましょう。

 磯良舞   (いそらまい)   ( 武内神 豊姫神 磯良神 海神 )  
神功皇后らが新羅へ進軍する時のお話です。
48艘の船団でいよいよ新羅へ。
その時、武内神が干珠満珠を貰い受けようとしました。

磯良神は大和で40万年、ひたちで40万年、勝馬(かつま、志賀島)で40万年過ごされた神。

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いそら神が干珠満珠を海神のところに行って、貰おうとするが、
なかなかもらえず、豊姫が代わりに海神の所に行く。

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すると海神は「神楽を舞うならば、授けよう」と言う。豊姫は神楽を舞い、海神から干珠満珠を授かる。

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豊姫はそれを武内神に渡す。
でした。

ね、ほら干珠満珠が出て来たでしょ。
珠を授けている赤い髪がモシャモシャした神が海神です。
(同じような話は海彦山彦にも出て来ます。⇒豊玉姫)

玉を授ける神は海神なのです。
これが、タイトルの「玉垂命とは干珠満珠を授けた海の神」の理由です。

干珠満珠は星空にもありましたよ。

今の北極星はポラリスです。『冬のソナタ』でぺ・ヨンジュンがチェ・ジュウに
雪の玉に隠してプレゼントしたネックレスがポラリスンでした。

えっ?そんなの関係ない?
いえいえ、ポラリスは現在の北極星だと覚えやすいでしょ。

しかし、5000年前の北極星は龍座のツバーンでした。(そう、北極星は変化するのです!)

北極星は徐々に場所を変えてしまい、2500年前は北天には目立つ星がなくなって、
ポラリスとツバーンが暗黒を中心にぐるぐると回っていました。神功皇后の頃もそうです。

このポラリスとツバーンを干珠満珠だと言い伝える氏族がいたのです。

ポラリスは白い星…白い干珠
ツバーンは青い星…青い満珠

海の神は青玉と白玉を祭壇に供えて、船人の海路が無事でありますようにと祈ったそうです。

北極星がない時代には、この白い星と青い星が北を教えてくれていたという事なのですね。

ですから、植芝氏の言う赤玉白玉はもっと昔は青玉白玉だった訳です。
ちなみに、神楽では金玉銀玉でしたよ。

干珠満珠は海神の持つ珠で、水と命を司り、それは星空にもあった。という事です。

そして、これらは背振山でも祀られたそうです。すると、高良山と背振山と、筑紫の主な山々では
海神が祀られていた事になります。

海から遠い久留米に海神?

久留米は盆地で海は近くにありません。そんな所に何故、海の神?

不思議に思ったのですが、手掛かりが奥宮にありました。
そこには水分(みくまり)の神が祀られています。
水を司るのは海神です。宝満宮竈門(かまど)神社の上宮でも同じでした。

玉垂宮と竈門神社は似た祭神の組み合わせです。並べて比べてみましょう。
高良玉垂宮                 宝満宮竈門神社
 高良玉垂命  海神              玉依姫命(海神の娘)
 八幡大神 (応神天皇の別名)       応神天皇      
 住吉大神 (神功皇后の旅の守り神)   神功皇后  
 
このように高良玉垂宮と宝満宮竈門神社の主祭神は「海神の父と娘」でした。
応神天皇は名前を変えて、どちらの宮にも祀られていました。
ただ、住吉大神については裏の日本史では武内の宿禰ではないかとも言われています。

この神社の御神徳が「延命長寿」という事から、それらが混同して伝えられて、
高良玉垂命が誰だか分からなくなってしまったものと思われます。

高良の星はカペラ星だった。

真鍋大覚氏によると、
銀河はカペラのある所で細く縊(くび)れて、漢人は上を北河、下を南河に区分する。(別名として)韓門(からと)の星、高良星の名がきかれた。

有明海と玄界灘の潮高を見合わせて往来(やりくり)する水城(みずき)を筑紫のひとびとは「からとぼし」と言った。

カペラは極東に来て、記紀の天の御中主の神になり、カイベラの神になり、カワベラの星になったと語られている。
真鍋氏の文章は難しいですねえ。言い換えると、
夜空の天の川の細くなった所にカペラ星があります。

古代中国ではその上下を北河と南河と呼んだそうです。
そして日本では、カペラを高良の星とも呼び、神話では天の御中主の神となったという事です。

古代の人は、その天の川を地上に反映させました。
福岡県の筑紫の真ん中を縦に走る水路を天の川に見立てたそうです。
針摺瀬戸(はりずりのせと)と名付けられました。

今ではもちろん陸地になっていますが、古代日本では玄界灘と有明海が水路でつながっていて、
潮の高さを見合わせてやりくりした所が水城でした。
水城にも広い湖が広がっていたそうです。

天の川のように水路が細くなった所にあるのが高良山。

ですから、空から写し取って高良の山にカペラ山と名付けました。
それがなまってカウラ、コウラと変化しました。

カペラなる高良山の北が玄界灘、南が有明海。
そして、カペラとは天の御中主の神だと言う事になります。

そんなロマンチックな話を誰が言っていたかというと、それが、海人族の人たちです。
それを、暦を作る真鍋家が伝えていたのでした。

地図を見てみましょう。高良山、針摺瀬戸、水城、宝満宮竈門神社の位置関係です。
(地図をクリックしながら動かすと写真が出て来ます。)



市街化した灰色の平野部がかつてはかなりの所まで海だったという事です。
高良山がかつては海と縁が深く、海神族の人たちが海の神を祀ったのもうなずけます。
天の川に見立てるとは、なるほどですねえ。

そういえば、小郡市には彦星と織姫の神社があるのを思い出しました。


(Ⅲ)につづく

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by lunabura | 2010-01-04 00:00 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(5)

高良大社・玉垂宮(3) 70年に一度の大津波を伝える豊姫


高良大社 高良玉垂宮(Ⅲ)
(こうらたいしゃ  こうらたまたれぐう)

70年に一度の大津波を伝える豊姫

シリウス(夜渡星)が津波を教えてくれた

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本殿から筑後平野が見渡せました。向こうの山は背振山。
その手前の市街地がかつて海が入り込んでいた所。

さて、神楽「磯良舞」に突如として出て来た豊姫について
ここ高良大社で思いがけない伝承を見つけました。

志式神社の時には神功皇后の妹という説をそのまま書きましたが、
実は「? ほんとかな。」が頭から離れませんでした。

そして、高良大社の伝承を調べているうちに
豊姫は玉垂の神の配偶神だという伝承が出て来ました。

まず、その伝承を紹介します。
これは高良山について研究された古賀寿氏の小冊子からの抜粋です。
山本家の家伝によると、
高良の神は朝鮮半島から凱旋ののち、
本山の地を開かれて「蓮の池」という所にお住まいになっていた。

この辺りに「城内」「屋久良志多」「門口」「馬場」という地名が残るのは、
すべて高良の神の御住居に因むものである。

やがて高良の神は本山の松苗を高良山に植え立てて山中にお移りになったが、
高良山の座主院を「蓮台院」と呼ぶのも、「蓮の池」から来ている。

山本家は高良の神孫で、この故事に因み、毎年正月初子の日に本山の松苗三本を
高良山に植え付けるのを例とした、といっています。

『筑後将士軍談』もこの話を採録していますが、いずれにしても、
地元では「本山」は高良山の本山だと主張していた訳です。

ここに、高良の神の配偶神である豊比咩(とよひめ)の神が鎮座することも、
高良山との深いかかわりを物語るものと思われます。(略)

かつて豊比咩神社がその南の付け根近くに鎮座していたことからすると、
高良の神は上津(かみつ)土塁を通って、
本山に妻問いに通われたという伝説があったのでしょう。

高良山文化研究所『高良山雑考』―「本山」と高良山―(古賀 寿著)
(高良山研究叢書 第一集)昭和61年1月30日発行


土地勘がないと、分かりにくいのですが、この文で注目したいキーワードは
1、高良の神は朝鮮半島へ出征して凱旋して帰って来た。
2、豊姫は高良の神の配偶神である。

という点です。

「1」の朝鮮半島へ出征した高良の神は神功皇后と関わりがあった事を示唆しています。

しかし、今日は「2」の豊姫の話にテーマを絞りたいと思います。
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豊姫                                   海神
(海神に舞を見せて、干珠満珠を貰う)                  (豊姫に干珠満珠を授けた神) 

(宇美神楽座・志式神社にて)


この豊姫については、大変興味深い話があります。やはり真鍋大覚氏の本の中です。
例の如く難解な文章なので今日はまとめだけを書きます。

豊姫淀姫はとトヨがヨドにひっくりかえっただけで、
同じ海の女神である。

(実際、豊比咩神社を調べると、神社の由緒書きでさえも、トヨだったりヨドだったりしています。)
筑後平野一帯に祀られている神である。

このトヨ(ヨド)とは「七十」の古い読み方で、「高波」という意味がある。
夜渡七十(よどしちじゅう)」という現象があった。

70年に一度、大津波が有明海の中を縦横に走った。
その事から、有明海周辺では,70すなわちトヨ、ヨトの海の女神を祀っている。


あの遠浅の海が70年に一度かき回されて、海の水が入れ替わっていたという事になります。
大変な災害です。

ですから、この70年に一度の現象を後世に伝えて、被害のないようにお祀りするために
有明海一帯に豊姫や淀姫を祀っていたのです。

たしかに、70年おきでは、世代交代をしてしまって、直接教えてくれる人がいなくなります。
豊姫さまの話にして、津波を後世に伝えた訳です。 

地図  有明海  豊比咩神社 与止日女神社
  


海は現在の平野部にかなり入り込んでいたので、津波は広い範囲で起こったと思われます。

古代の人はこの津波を何とか予知しようとしました。それがもう一つの豊姫の姿です。

シリウスは夜渡星とも呼ばれていた。


夜渡星(よどのほし) (シリウス)
有明海にはシリウスに「とよみぼし」あるいは「よとみほし」の別名があり、
延喜式神名帳の頃には豊姫あるいは淀姫が筑後三原と肥前佐賀に祀られておりました。

潮の空間(からま)すなわち海面が静止した時に
シリウスが水平線から離れる瞬間に
上下互いに溶け合ったように連なる時は
必ず地震津波が現れると語られておりました。

仲哀帝9年(200年)の時もまた然りと伝えられます。
昔の人は外界の波に動じない海淵を沼津あるいは志登と呼び、
星影の揺らめきを見て海の異変を察しておりました。

やがてこれが倭語(やまとことば)の鯰、即ち漢名(中国語)の鮎魚(せんぎょ)と結びつき、
地震鯰の説が通りだしたのかもしれません。)

シリウスは冬の夜空で最初に目に飛び込んでくる大きな星です。見ていると、常に光がまたたいています。

有明海の周りでは津波を予知するために、シリウスが常に観測されていたのがこれで分かります。
 
「いそら」とは人魚の古名であり、やがて海水に浴して潮見する巫女の代名詞にうつりました。女人の敏感な素肌や黒髪を以って、水温水質さては浮かせた身の波間に踊るを以て大風大浪を案ずる日課が「いそら」の務めでありました。 

夜渡星(よどのほし)とは暁の闇の中を一人起きて白衣一つを身にまとい渚に浸る姿をよく描写した名であります。

『儺の国の星』(真鍋大覚)(一部変更

厳しいシャーマンの日常
ここで私たちは初めて古代の巫女がどんな事をしていたのかを知る事が出来ます。
毎日夜明け前に起きて、白衣一枚で海の中に入り、
水温水質を肌で感じ取り、身体を浮かせてその動揺を観測して、
台風や地震を予知しなくてはならなかったのです。

巫女はきっと生涯を海神に捧げた事でしょう。人々はそんな巫女を海神の妻と呼びました。
それが豊姫であり、淀姫だと言う訳です。

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巫女は真っ暗な海に入って行く

真鍋大覚氏は地震雲を世に伝えた人ですが、真鍋家では代々、暦を編纂していました。
暦を作るためには、太陽、月、星を観測し、歳差運動を知らないと作れません。

暦の編纂者は地震や台風、日食などの予知もしていました。
真鍋氏は、昭和になって那珂川町の依頼でそれを本にして世に出しました。
儺の国の星』『儺の国の星 拾遺』です。

絶版です。
この本を読むと、古代日本史の謎がかなり究明されます。
私たち日本人への贈りもの、2000年の知恵を多くの方に研究してもらいたいと願っています。

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by lunabura | 2010-01-03 00:01 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(25)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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