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カテゴリ:高良大社・玉垂宮・久留米市( 22 )

高良山の「一火」・三種の神器の行方・神籠石の呼称を戻さねば

 

高良山の「一火」

高良玉垂宮神秘書より
三種の神器の行方
神籠石の呼称を戻さねば


仲哀天皇の崩御後、三種の神器はどうなったのだろう。

そんな謎が頭の中からはすっかり欠落していましたが、『高良玉垂宮神秘書』を読むと、三韓征討後、安曇磯良の操縦する龍船が有明海経由で風浪宮に至るまで、共にあったと書かれていました。

三種の神器の中の「神璽(しんじ)の玉」―即ち、「八尺瓊(やさかに)の勾玉」を「高良大菩薩」は預かっていたと「神秘書」は伝えます。

『神秘書』は中世末期に書かれたものです。その当時から千年以上もの間、語り継がれた物の中には真実も残っているし、書き換えられたものもあります。

特に、「高良大菩薩」に関しては、安曇磯良、武内宿禰、住吉大神、と変遷していきます。

当初の高良大菩薩が安曇磯良である証拠は、大菩薩が風浪宮で浪風の神を祀ることから、明らかになりました。

浪風の神とは綿津見の神のことです。この神を祀るのは安曇族しか出来ないので、「高良大菩薩」は安曇磯良しか有り得ないのです。

福井県の気比神社にも、わざわざ安曇連が龍宮の海の神を祀りに出かけた話がありますが、これも他の部族ではよその神を祀れないことをよく伝えています。

綿津見の神を武内宿禰が祀ることは出来ないのです。風浪宮でも、仮宮を作ったのは武内宿禰ですが、綿津見の神を祀ったのは磯良でした。

また高良大菩薩に奉納する布に「覆面」の絹が含まれていることが分かりました。「覆面」こそ、磯良神のシンボルでしたね。

磯良は干珠満珠を海神から借り受け、武内宿禰に渡したので、新羅からの凱旋の時、龍船には「神璽の玉と干珠と満珠」の三つの勾玉があったことになります。

外洋船である龍船は大善寺玉垂宮に置かれ、小舟で高良山に皇后たちはやってきます。


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こうして、高良山には一時期、「三つの玉」が揃いました。これが神霊の力を発揮したというのです。その霊力を「一火」と呼びました。(読み方は書かれていません)
この「一火」について書かれた214条を今日は紹介します。(るな訳)

当山の「一火」は大菩薩が神璽の玉を、異敵を攻めた時から皇宮に行くまで預かっておられた。また干珠満珠を龍宮から借りて異国を平らげた。

これら合わせて三つの玉の霊力は高良山を一火として照らし、上宮御殿を出て八ヶ寺を巡り、鷲尾を下り、瓦礫場のそばに下り、八葉の石畳を巡り、もとのように上宮御殿に留まった。


もしこの火が消えることがあれば、当山は滅亡する。二、三日照らさなければ必ず苦節が来る。


高良山に伝わる「一火」は神霊の力となって、(原文は「威力」)高良山を照らし、上宮の神殿から出ると、麓まで下り、「八葉の石畳」を廻って再び神殿に戻ったといいます。


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この「八葉の石畳」は考古学者が「神籠石」と名前を変えて紹介したので、本来とは違うものを指すようになってしまいました。

「神籠石」とは「神が籠る石」という意味で、高良山にある巨大な磐座なんですね。


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(この画像一杯の岩盤が神籠石です)

「神秘書」では列石の方を一貫として「八葉の石畳」と書いています。これは結界でした。


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これを山城と考えてしまうと、パネルのような薄っぺらな石の説明が出来ません。


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防御の戦略も考えられませんね。


これは、本来の呼称「八葉の石畳」に戻すべき課題となってしまいました。このすり替えによっても、歴史が正しく見えない原因になってしまっています。



こうして、数行の話なのですが、沢山の説明を要して、どう説明したらいいのか、悩んでいました。

さて、話を戻しましょう。
この「一火」が消えるとき、高良山は滅亡するというのです。驚きの話でした。
そして、これを山上の「一火」とすると、麓にも「一火」があったということが書かれていました。(つづく)




ガイドブックをお持ちの方は「上巻26高良玉垂宮」「下巻77風浪宮」をどうぞ。




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by lunabura | 2015-07-26 21:28 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(6)

干珠満珠の形は勾玉か・高良玉垂宮神秘書から


干珠満珠の形は勾玉か

高良玉垂宮神秘書から



この数日の読書は「高良玉垂宮神秘書」です。高良山の始まりは神功皇后の三韓征討が関わっていました。

この本はカタカナで書かれていて、ブログを書き始めたころは、読み解くのが必死でしたが、ガイドブックを書き終えた今では、内容が良く分かるようになっていました。


先日、「干珠満珠はどんな形をしていたんでしょうかね」という質問を受けました。その翌日、神秘書を読んでいたら、たまたま(いつもコレですが(^_^;))、その答えが書いてあったんです。

で、今日はその部分を訳して紹介します。また、ガイドブックが楽しめるように、( )に掲載神社の番号を付けて紹介しています。お持ちの方は活用してくださいね。


五〇九条
 【訳】干珠満珠は龍宮にて賜ったのち、彼の玉を龍宮から高良へ持って行かれたが、神代(くましろ)に納められたとも申す。それ故に神代(くましろ)を神の代とは書くなり。また、神辺(くまべ)を神の辺(ほとり)と書くなり。彼の玉を神代に納められた。また、阿上に在るとも言う。干珠は白い玉、満珠は青い玉である。長さ五寸ほどである。頭は太く、尾は細いという。それ故に高良を玉垂宮と言う。


解説します^^

「干珠満珠は龍宮にて賜った」
三韓征討の前に、神功皇后や竹内宿禰は志式神社の奈多の浜で神楽を奏して安曇磯良から干珠満珠の秘法を授かったことを指す。干珠満珠を持っている海神の宮が龍宮。(ガイド72番志式神社参照)



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舞台となった奈多の浜


「彼の玉を龍宮から高良へ持って行かれた」
凱旋後、神功皇后の軍船は安曇磯良が舵取り(船長)となって、有明海から入港した。大善寺玉垂宮で乗り捨て、小舟に乗り換えて高良山へと向かう。(ガイド77番風浪宮、78番大善寺玉垂宮参照)

「神代(くましろ)に納められた」
「神代」とは地名の事です。高良山の北麓にあります。筑後川には今も神代橋が掛かっています。その近く、干珠満珠を納めた場所が伝わっています。

「阿上に在る」は注によると「河上に在る」です。「河上」なら佐賀大和の與止日女神社かと思われます。そこにも干珠満珠の宝珠が伝わっています。

「干珠は白い玉、満珠は青い玉」
何度も出てきましたね。北の夜空に輝くポラリスとツバーンの象徴で、その星の色が白と青。海神は二つの玉を捧げて航海の安全を祈ったといいます。

「長さ五寸ほどである。」
出ました!一寸は約3.03センチメートル。3センチ×5=15センチ!大きいですね!!てのひらサイズです。

「頭は太く、尾は細い」
これは勾玉!見事に説明しています。

ということで、干珠満珠は15センチほどの長さの白と青色の勾玉でした。勾玉といえば緑色です。古代は色は四色ほどに分類されたというので、緑でも青に含まれます。



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こんな感じかな。鞍手歴史民族資料館に行くと見られる。(ガイド19神埼神社)


以上、高良山に伝わっている話を紹介しました。実際は違うかも知れません。與止日女神社のものは宝珠の形をしています。


「干珠満珠を納めたことから、高良を玉垂宮という。」
「玉垂」はやはり干珠満珠から発生した言葉でしたね。


【要約】
龍宮から賜った干珠満珠を凱旋後、高良に持って来た時、神代に納めた。
河上(與止日女神社)に有るとも言う。
干珠は白玉、満珠は青玉、長さは十五センチほどで、勾玉の形をしている。
干珠満珠を納めたことから、高良を玉垂宮という。




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by lunabura | 2015-07-18 13:33 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(2)

高良大社 高良玉垂宮 (Ⅰ)筑紫の国魂のおわす宮


高良大社 (高良玉垂宮) (Ⅰ)
こうらたいしゃ      ( こうらたまたれぐう )
福岡県久留米市御井町
筑紫の国魂のおわす宮

福岡の北の方から久留米市に向かうと、平野の向こうに特徴のある山脈が見えて来ます。
耳納山脈です。その右端に一段低くなった山があります。それが高良山です。

広い筑後平野のどこからも見える山で、ここは古代からの重要拠点でした。
その山の頂上よりちょっと下がった所に高良大社があります。
平野から見ても、その横の高良会館が見えてすぐに分かります。

石の鳥居を通って、ヘアピンカーブの道を上ると、開けたところに出て来ます。
道沿いの駐車場に車を止めて降りると筑後平野が一望に。まずはその眺望に見とれてしまいます。

振り向くと高良大社の赤い鳥居です。
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この先の石段けっこう長いです。
朱塗りの山門が息をきらした参拝者たちを華やかに迎えてくれます。
その山門を潜ると、また別の世界。

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拝殿は大変重厚な、伝統を感じさせる建物です。本殿と拝殿は1660年の建造でした。
これって江戸時代が始まった頃?その屋根を見るとすごいです。

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当時の最高の技術の結集が見られます。

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境内の脇では弓道の試合があってました。

さあ、御祭神はどなたでしょう。
由緒書きが書いてありました。
御由緒
左殿 八幡大神
正殿 高良玉垂命
右殿 住吉大神

御神徳 延命長寿・開運厄除・家内安全・商売繁盛など生活万般

高良の大神は、悠久の昔から筑後川の流域に生活してきた人々が、
その生活守護の大神様として奉持して参りました筑後国一の宮であります。

ここは一の宮なんですねえ。筑紫の国魂とも呼ばれています。
筑後でなく筑紫ですから、福岡市方面も含まれています。中心的なお宮なのですね。

御祭神はこれまでにブログで紹介した神社で祀られている御祭神と一部が重なっていました。

まず、八幡大神
左殿の八幡大神とは応神天皇の事です。神功皇后の御子です。
そうです、駕輿(かよい)八幡宮で休憩した時に、
お腹の中にいた赤ちゃんです。そう言えば、この宮も八幡宮という名になってました。

香椎で神功皇后のお腹に宿り、母上のお腹に入ったまま一緒に新羅まで行って、
凱旋して帰った経歴の御子なので、勝利を導く軍神として、全国で祀られるようになりました。

住吉大神
右殿の住吉大神も、これまで神功皇后の旅の守護の神として紹介して来ました。

小山田斎宮で神懸かりした時に現れた神です。
皇后の船旅の安全を守ってくれた神で、今でも、福岡や大阪で祀られています。
(詳しくは別項でと思っています。)この久留米の山の上に、この神々が…。なんでだろう。

では高良玉垂命とは?
この神が誰なのかは分かっていないそうです。
武内宿禰説や藤大臣説、月神説など諸説あるとか。

武内宿禰と言えば、神功皇后をずっと支えてきた人です。
この人は数百歳生きたと言われています。
御神徳に「延命長寿」とあるのとイメージが重なってそんな説が出て来たのでしょうか。

藤大臣説については、
高良山の近くにある大善寺という所の玉垂宮の記事を見ると、
仁徳天皇の時代の話という事なので、少し系統が違っているようです。

月の神様というのは資料がないのですが、意外な所から
この説には十分に理由がある事が分かりました。
それは主祭神の玉垂(たまたれ)そのものがヒントになりました。

次回は「玉垂」についてのお話です。

                                 (Ⅱ)につづく
                              

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by lunabura | 2010-01-05 00:00 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(0)

高良大社(2)玉垂命とは干珠満珠を授けた海の神


高良大社 (高良玉垂宮) (Ⅱ)
こうらたいしゃ  (こうらたまたれぐう)
玉垂命とは干珠満珠を授けた海の神  
高良山にはカペラの伝承があった


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「玉垂(たまたれ)」について気になる事があって社務所に電話で尋ねた事があります。
それは合気道の開祖の植芝守平の本『合気神髄』に「高良の神」の事が載っていたからです。

植芝守平氏はNHKドラマの『坂の上の雲』とちょうど同じ時代の人です。
明治から昭和を生きた人です。
その人の語録集に合気道の呼吸について述べる時の象徴として「玉垂」が出てくるのです。

玉依姫は白玉で潮干珠(しおひるたま)、豊玉姫は赤玉で潮満珠(しおみつたま)、その玉を使いこなすのが高良玉垂の神。


このような内容が合気道の本に書いてあったのでびっくりして、高良大社にお尋ねしたところ、
やはり、玉垂とはこの干珠(かんじゅ)、満珠(まんじゅ)を指すとの事でした。
ほんのこの前まで、玉垂のことについては、常識だったのでしょうか。

玉垂」が干珠満珠だとすると、高良玉垂命とは
潮の満ち引きを司る神と言う事になります。

人は潮が引くときに、息を引き取ります。潮が満ちる時に生まれます。
潮の満ち引きは月のなせる技です。
ですから、月の神様とも言われる訳です。これが御神徳の「延命長寿」にもつながってきます。


「玉垂」をよく考えると「玉を垂れる」という事ですから「玉垂命」とは「珠を与える神」という意味になります。
では、それは誰でしょう。
海神です。志式神社の神楽でそれを見て来たばかりです。

高良玉垂の神が海神だとすると、名前は綿津見(わたつみ)神という事になります。

志式神社の神楽の「磯良舞」、覚えてますか?

あの、インパクトのある白髪の神さまが出て来た舞です。同じ話をもう一度書きましょう。

 磯良舞   (いそらまい)   ( 武内神 豊姫神 磯良神 海神 )  
神功皇后らが新羅へ進軍する時のお話です。
48艘の船団でいよいよ新羅へ。
その時、武内神が干珠満珠を貰い受けようとしました。

磯良神は大和で40万年、ひたちで40万年、勝馬(かつま、志賀島)で40万年過ごされた神。

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いそら神が干珠満珠を海神のところに行って、貰おうとするが、
なかなかもらえず、豊姫が代わりに海神の所に行く。

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すると海神は「神楽を舞うならば、授けよう」と言う。豊姫は神楽を舞い、海神から干珠満珠を授かる。

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豊姫はそれを武内神に渡す。
でした。

ね、ほら干珠満珠が出て来たでしょ。
珠を授けている赤い髪がモシャモシャした神が海神です。
(同じような話は海彦山彦にも出て来ます。⇒豊玉姫)

玉を授ける神は海神なのです。
これが、タイトルの「玉垂命とは干珠満珠を授けた海の神」の理由です。

干珠満珠は星空にもありましたよ。

今の北極星はポラリスです。『冬のソナタ』でぺ・ヨンジュンがチェ・ジュウに
雪の玉に隠してプレゼントしたネックレスがポラリスンでした。

えっ?そんなの関係ない?
いえいえ、ポラリスは現在の北極星だと覚えやすいでしょ。

しかし、5000年前の北極星は龍座のツバーンでした。(そう、北極星は変化するのです!)

北極星は徐々に場所を変えてしまい、2500年前は北天には目立つ星がなくなって、
ポラリスとツバーンが暗黒を中心にぐるぐると回っていました。神功皇后の頃もそうです。

このポラリスとツバーンを干珠満珠だと言い伝える氏族がいたのです。

ポラリスは白い星…白い干珠
ツバーンは青い星…青い満珠

海の神は青玉と白玉を祭壇に供えて、船人の海路が無事でありますようにと祈ったそうです。

北極星がない時代には、この白い星と青い星が北を教えてくれていたという事なのですね。

ですから、植芝氏の言う赤玉白玉はもっと昔は青玉白玉だった訳です。
ちなみに、神楽では金玉銀玉でしたよ。

干珠満珠は海神の持つ珠で、水と命を司り、それは星空にもあった。という事です。

そして、これらは背振山でも祀られたそうです。すると、高良山と背振山と、筑紫の主な山々では
海神が祀られていた事になります。

海から遠い久留米に海神?

久留米は盆地で海は近くにありません。そんな所に何故、海の神?

不思議に思ったのですが、手掛かりが奥宮にありました。
そこには水分(みくまり)の神が祀られています。
水を司るのは海神です。宝満宮竈門(かまど)神社の上宮でも同じでした。

玉垂宮と竈門神社は似た祭神の組み合わせです。並べて比べてみましょう。
高良玉垂宮                 宝満宮竈門神社
 高良玉垂命  海神              玉依姫命(海神の娘)
 八幡大神 (応神天皇の別名)       応神天皇      
 住吉大神 (神功皇后の旅の守り神)   神功皇后  
 
このように高良玉垂宮と宝満宮竈門神社の主祭神は「海神の父と娘」でした。
応神天皇は名前を変えて、どちらの宮にも祀られていました。
ただ、住吉大神については裏の日本史では武内の宿禰ではないかとも言われています。

この神社の御神徳が「延命長寿」という事から、それらが混同して伝えられて、
高良玉垂命が誰だか分からなくなってしまったものと思われます。

高良の星はカペラ星だった。

真鍋大覚氏によると、
銀河はカペラのある所で細く縊(くび)れて、漢人は上を北河、下を南河に区分する。(別名として)韓門(からと)の星、高良星の名がきかれた。

有明海と玄界灘の潮高を見合わせて往来(やりくり)する水城(みずき)を筑紫のひとびとは「からとぼし」と言った。

カペラは極東に来て、記紀の天の御中主の神になり、カイベラの神になり、カワベラの星になったと語られている。
真鍋氏の文章は難しいですねえ。言い換えると、
夜空の天の川の細くなった所にカペラ星があります。

古代中国ではその上下を北河と南河と呼んだそうです。
そして日本では、カペラを高良の星とも呼び、神話では天の御中主の神となったという事です。

古代の人は、その天の川を地上に反映させました。
福岡県の筑紫の真ん中を縦に走る水路を天の川に見立てたそうです。
針摺瀬戸(はりずりのせと)と名付けられました。

今ではもちろん陸地になっていますが、古代日本では玄界灘と有明海が水路でつながっていて、
潮の高さを見合わせてやりくりした所が水城でした。
水城にも広い湖が広がっていたそうです。

天の川のように水路が細くなった所にあるのが高良山。

ですから、空から写し取って高良の山にカペラ山と名付けました。
それがなまってカウラ、コウラと変化しました。

カペラなる高良山の北が玄界灘、南が有明海。
そして、カペラとは天の御中主の神だと言う事になります。

そんなロマンチックな話を誰が言っていたかというと、それが、海人族の人たちです。
それを、暦を作る真鍋家が伝えていたのでした。

地図を見てみましょう。高良山、針摺瀬戸、水城、宝満宮竈門神社の位置関係です。
(地図をクリックしながら動かすと写真が出て来ます。)



市街化した灰色の平野部がかつてはかなりの所まで海だったという事です。
高良山がかつては海と縁が深く、海神族の人たちが海の神を祀ったのもうなずけます。
天の川に見立てるとは、なるほどですねえ。

そういえば、小郡市には彦星と織姫の神社があるのを思い出しました。


(Ⅲ)につづく

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by lunabura | 2010-01-04 00:00 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(5)

高良大社・玉垂宮(3) 70年に一度の大津波を伝える豊姫


高良大社 高良玉垂宮(Ⅲ)
(こうらたいしゃ  こうらたまたれぐう)

70年に一度の大津波を伝える豊姫

シリウス(夜渡星)が津波を教えてくれた

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本殿から筑後平野が見渡せました。向こうの山は背振山。
その手前の市街地がかつて海が入り込んでいた所。

さて、神楽「磯良舞」に突如として出て来た豊姫について
ここ高良大社で思いがけない伝承を見つけました。

志式神社の時には神功皇后の妹という説をそのまま書きましたが、
実は「? ほんとかな。」が頭から離れませんでした。

そして、高良大社の伝承を調べているうちに
豊姫は玉垂の神の配偶神だという伝承が出て来ました。

まず、その伝承を紹介します。
これは高良山について研究された古賀寿氏の小冊子からの抜粋です。
山本家の家伝によると、
高良の神は朝鮮半島から凱旋ののち、
本山の地を開かれて「蓮の池」という所にお住まいになっていた。

この辺りに「城内」「屋久良志多」「門口」「馬場」という地名が残るのは、
すべて高良の神の御住居に因むものである。

やがて高良の神は本山の松苗を高良山に植え立てて山中にお移りになったが、
高良山の座主院を「蓮台院」と呼ぶのも、「蓮の池」から来ている。

山本家は高良の神孫で、この故事に因み、毎年正月初子の日に本山の松苗三本を
高良山に植え付けるのを例とした、といっています。

『筑後将士軍談』もこの話を採録していますが、いずれにしても、
地元では「本山」は高良山の本山だと主張していた訳です。

ここに、高良の神の配偶神である豊比咩(とよひめ)の神が鎮座することも、
高良山との深いかかわりを物語るものと思われます。(略)

かつて豊比咩神社がその南の付け根近くに鎮座していたことからすると、
高良の神は上津(かみつ)土塁を通って、
本山に妻問いに通われたという伝説があったのでしょう。

高良山文化研究所『高良山雑考』―「本山」と高良山―(古賀 寿著)
(高良山研究叢書 第一集)昭和61年1月30日発行


土地勘がないと、分かりにくいのですが、この文で注目したいキーワードは
1、高良の神は朝鮮半島へ出征して凱旋して帰って来た。
2、豊姫は高良の神の配偶神である。

という点です。

「1」の朝鮮半島へ出征した高良の神は神功皇后と関わりがあった事を示唆しています。

しかし、今日は「2」の豊姫の話にテーマを絞りたいと思います。
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豊姫                                   海神
(海神に舞を見せて、干珠満珠を貰う)                  (豊姫に干珠満珠を授けた神) 

(宇美神楽座・志式神社にて)


この豊姫については、大変興味深い話があります。やはり真鍋大覚氏の本の中です。
例の如く難解な文章なので今日はまとめだけを書きます。

豊姫淀姫はとトヨがヨドにひっくりかえっただけで、
同じ海の女神である。

(実際、豊比咩神社を調べると、神社の由緒書きでさえも、トヨだったりヨドだったりしています。)
筑後平野一帯に祀られている神である。

このトヨ(ヨド)とは「七十」の古い読み方で、「高波」という意味がある。
夜渡七十(よどしちじゅう)」という現象があった。

70年に一度、大津波が有明海の中を縦横に走った。
その事から、有明海周辺では,70すなわちトヨ、ヨトの海の女神を祀っている。


あの遠浅の海が70年に一度かき回されて、海の水が入れ替わっていたという事になります。
大変な災害です。

ですから、この70年に一度の現象を後世に伝えて、被害のないようにお祀りするために
有明海一帯に豊姫や淀姫を祀っていたのです。

たしかに、70年おきでは、世代交代をしてしまって、直接教えてくれる人がいなくなります。
豊姫さまの話にして、津波を後世に伝えた訳です。 

地図  有明海  豊比咩神社 与止日女神社
  


海は現在の平野部にかなり入り込んでいたので、津波は広い範囲で起こったと思われます。

古代の人はこの津波を何とか予知しようとしました。それがもう一つの豊姫の姿です。

シリウスは夜渡星とも呼ばれていた。


夜渡星(よどのほし) (シリウス)
有明海にはシリウスに「とよみぼし」あるいは「よとみほし」の別名があり、
延喜式神名帳の頃には豊姫あるいは淀姫が筑後三原と肥前佐賀に祀られておりました。

潮の空間(からま)すなわち海面が静止した時に
シリウスが水平線から離れる瞬間に
上下互いに溶け合ったように連なる時は
必ず地震津波が現れると語られておりました。

仲哀帝9年(200年)の時もまた然りと伝えられます。
昔の人は外界の波に動じない海淵を沼津あるいは志登と呼び、
星影の揺らめきを見て海の異変を察しておりました。

やがてこれが倭語(やまとことば)の鯰、即ち漢名(中国語)の鮎魚(せんぎょ)と結びつき、
地震鯰の説が通りだしたのかもしれません。)

シリウスは冬の夜空で最初に目に飛び込んでくる大きな星です。見ていると、常に光がまたたいています。

有明海の周りでは津波を予知するために、シリウスが常に観測されていたのがこれで分かります。
 
「いそら」とは人魚の古名であり、やがて海水に浴して潮見する巫女の代名詞にうつりました。女人の敏感な素肌や黒髪を以って、水温水質さては浮かせた身の波間に踊るを以て大風大浪を案ずる日課が「いそら」の務めでありました。 

夜渡星(よどのほし)とは暁の闇の中を一人起きて白衣一つを身にまとい渚に浸る姿をよく描写した名であります。

『儺の国の星』(真鍋大覚)(一部変更

厳しいシャーマンの日常
ここで私たちは初めて古代の巫女がどんな事をしていたのかを知る事が出来ます。
毎日夜明け前に起きて、白衣一枚で海の中に入り、
水温水質を肌で感じ取り、身体を浮かせてその動揺を観測して、
台風や地震を予知しなくてはならなかったのです。

巫女はきっと生涯を海神に捧げた事でしょう。人々はそんな巫女を海神の妻と呼びました。
それが豊姫であり、淀姫だと言う訳です。

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巫女は真っ暗な海に入って行く

真鍋大覚氏は地震雲を世に伝えた人ですが、真鍋家では代々、暦を編纂していました。
暦を作るためには、太陽、月、星を観測し、歳差運動を知らないと作れません。

暦の編纂者は地震や台風、日食などの予知もしていました。
真鍋氏は、昭和になって那珂川町の依頼でそれを本にして世に出しました。
儺の国の星』『儺の国の星 拾遺』です。

絶版です。
この本を読むと、古代日本史の謎がかなり究明されます。
私たち日本人への贈りもの、2000年の知恵を多くの方に研究してもらいたいと願っています。

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by lunabura | 2010-01-03 00:01 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(25)

高良大社(4)高木の神と玉垂命が交代した謎にチャレンジ


高良大社 高良玉垂宮(Ⅳ)
(こうらたいしゃ  こうらたまたれぐう)
高木の神と玉垂命が交代した謎にチャレンジ
アンドロメダ星雲と暦の変化 


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高良山をネット検索したらウィキペディアの説が目に止まりました。
それにはこう書いてありました。
高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、
高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、
高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。

山の名前についてはいつしか高牟礼から音が転じ、良字の二字をあてて「高良」山と呼ばれるようになった
という説もある。
現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。

この話の出所が分からないのですが、気になってさらに調べてみました。
すると、地元の人がブログで同じような伝承を書いていました。言い伝えがあるようです。

そこで、今回はこの伝承の謎にチャレンジする事にしました。
「結界」は神護石を指している?
まず、「結界」という言葉に注目しました。
これは高良山にある神籠石(こうごいし)の事ではないかと思いました。
神籠石とは謎の列石で、高良山の山中にぐるりと置かれている石積みの事です。

これについては目的も時代も分かっていません。
しかし、同じような神籠石が西日本の各地に十カ所ほどあります。
この謎の列石を神話的に言い換えて、ここでは結界だと言っているのかなと思いました。

高木の神とは?
それでは、もともと高良山の氏神だった高木神とはどんな神様なのでしょうか。

高木神は何かのを暗示しているのではないかと思って
『儺の国の星』を調べると、やはり出て来ました。
高木星という星がありました。
これはあの有名なアンドロメダ星雲の事でした。
文中にこう書いてあります。
日本人も蒙古人も、その遥かな祖先はアンドロメダ大星雲を拝していた。
神代紀に出る高木の神がそれである。これを大嶽(だいがく)と名付けていた。

このアンドロメダ星雲を崇拝していたのが「日本人も蒙古人も」と言っているのには訳があります。

それは1264年の出来事です。
モンゴルと日本で同じ年に元号が変わったというのです。
日本は文永元年となり、蒙古は至元元年となりました。

その理由がこのアンドロメダ星雲に関わっていたという事なのです。
これを理解するために、本には暦法の説明が書かれています。
おおよそこういう事です。

「太歳」について
天皇が変わると暦法を選定する儀式があって、それを太歳と言いました。

これは天皇一代のうちには変更できない暦ですが、治世が長くなると、
「星による暦」と「太陽による暦」のずれが溜まってしまって、
現実と合わなくなるので、適当な時期に改元をしてそのずれを調整していたそうです。

ところが基準とする日に日食が重なる事があったそうです。
それが起こったのが、1264年でした。

日本は文永元年、蒙古は至元元年と改元したその年は、
春分の正午にアンドロメダの中心が重なった。西暦1264年であった。


これはどういう事かと考えたのですが、日食のときには空が暗くなって、昼なのに、星が見えます。
その時、アンドロメダが暦の基準線の所にいた(例えば南中したとか?)のではないかと、考えました。

当時の人々はこの気象現象を観測して日食を畏れ、またアンドロメダが昼間に輝いたのを畏れて、
日本も元の国も改元したらしいのです。

アンドロメダの華麗な渦巻きの中心には、昔はまばゆくきらめく超星があった。
昔は今よりはるかに明るく昼の太陽に並ぶほどの美しさでありました。

と、真鍋氏は書いています。

当時はアンドロメダ星雲は夜空で今よりもずっと輝いていたというのです。
そして、太陽と並んで崇敬されていたというのです。

真鍋氏の本を理解するのには歳差運動の計算を理解する必要があるので、
この「日食とアンドロメダの関係」については難しくて、文面からなんとかここまで解釈が出来ました。

この現象は神功皇后の時代にも起こったそうです。201年と220年と228年です。
そのために彼女は太歳を三度も行ったそうです。
アンドロメダ星雲が昼間に観測される事は古代の一大事だったようです。

遷都する理由
さて、太陽と星は日々にずれて行き、70年もすると、素人の目にもそのずれが明瞭になってしまいます。
当時は山の頂上や峠が観測の基準になっていました。

目印の山と、ずれてくるのです。
そのために、星や日月を見定めるにふさわしい土地を新たに求めて遷都をしなくてはならなくなりました。
それが神武天皇から天武天皇の時代の事だそうです。

星の暦から太陽暦へ 
その後、地勢に頼らずに太陽の観測で時を計る方式に変わりました。
それが持統天皇から現在です。

暦法の話が神話になった? 
以上の事から古代の人たちが暦を作ろうとする時には
アンドロメダ星雲を代表とする星たちと太陽を観測して作っていることが分かりました。

ですから、アンドロメダ星雲を高木の神と崇敬し、太陽を天照大御神と呼んで、崇敬した訳です。

天照大御神は有名だけど。高木の神か…。別名、高御産巣日神。
高い所で次々に星々を生みだす神?
アンドロメダ大星雲。
いったいどんな神なのだろう。

高木の神がどんな神だったのか、想像もつきません。
そこで『古事記』を訳してみました。そして、二度も驚きました。

高木の神は神話のナンバー2だった。
まず、神話の冒頭に特別な五柱の神々が出てくるのですが、
高木の神はなんと、二番目に華々しく登場しているのです。
日本神話の第二番目ですよ。

これでこの神はどれほど重要な神かと言う事が分かります。これが最初に驚いた事です。

高木の神はしかし、独神(ひとりがみ)として、そのまま身を隠してしまいました。

高木の神は本当に身を隠した?
神話を読み進めていくと、高木の神がさらに何箇所も出て来ました。

高天原で出雲を征服しようと相談が起こった時です。その時に高木の神とアマテラスは一緒に出て来ました。

話はこうです。

高天原では、出雲征服を工作するために神々を送るのですが、出雲の居心地がいいらしく、
二度も失敗してしまいます。

それに対して次々に対策を練るのですが、その時に、この二柱の神はいつも一緒に出て来ます。
いつもいつもです。
二人はペアで行動する神なのです。
まるで一心同体と言えるほどです。
二人は一緒に高天原の秩序を守っていたようなそんな印象を受けました。共同経営者です。

冒頭に身を隠したと書いているのに、高木の神は隠れてなんぞいませんでした。
大活躍です。これが二つ目の驚きでした。

この二柱の神は何故いつも一緒なのだろうか? 
二人がいつも一緒に出てくる理由を考えました。

ここで先ほどの暦の話に戻りますが、暦を作る時に、昼には太陽を、夜にはアンドロメダ星雲を
観測していた事を象徴化したのではないかと思いました。

アマテラスは太陽で、高木の神はアンドロメダ。
この二人の神が昼と夜とを分かち合って、運行しているのです。
高天原の昼と夜の秩序を二人の神が作り出していました。

なるほど…。だから、二人はセットで出て来るんだ。

暦法の変化が崇敬する神を変化させた?
アンドロメダは暦法が発達していくと、その地位を太陽神に譲ることになりました。
アンドロメダへの崇敬は天照大御神重視へと移行して行きました。
だから、現代の私たちは高木の神なんて噂もしない。

これで、アンドロメダ(高木の神)のおおよその姿が分かりました。
ここでようやくタイトルに書いた「神々の交代」の神話にチャレンジできます。

アンドロメダからカペラへ変わった事情を探る
前回までの話をまとめると、古代はこのようだったと思われます。

アンドロメダ(高木の神)が崇拝されていた時代、筑紫を縦に貫く二日市水道の中央の聖なる山に、
暦の基準となるアンドロメダが輝くのを見て人々はアンドロメダを祀り、その名を取って、
高牟礼山(高木山)と呼んでいた。

しかし、歳差運動のためにかつてのように、アンドロメダはその山頂を通らなくなってしまった。
そうするとアンドロメダを祀っていた人々は、ふさわしい地形をよそに見つけて去って行った。

時代は朝鮮との戦いなどが続いて、人々は戦いの勝利を願うようになった。
すると脚光を浴びるようになったのは、かつて新羅討伐に勝利を導いた海神の神玉垂命(カペラ)だった。
人々は聖なる山にその神を祀るようになった。

これを踏まえて、冒頭の伝承を解いてみます。もう一度書きます。
高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。

この伝承を「星の神話」に置き換えると、こうなります。
高良山にはもともとアンドロメダが祀られていてアンドロメダ星雲山(高牟礼山)とも呼ばれていた。しかし、時代が変わり、戦が起こったりした。

すると、海人族たちは戦勝祈願と航海の安全のために、干珠満珠を司る海の神(カペラ)も共に祀るようになった。
戦争に勝利すると、そのまま海の神(カペラ→カウラ玉垂神)が祀られて、高良山と呼ばれるようになった。

そして、アンドロメダ(高木の神)は下の方で祀られるようになった。
のちに 神籠石の列石も作られた。これを人々は玉垂神の結界と呼んだ。

人々の崇敬の念は次第に太陽神に変わって行き、アンドロメダ星雲のことは忘れ去られていきました。

アンドロメダの名は、高木星、太歳星(たいさいのほし)、太宰星(だざいのほし)、千歳星(ちとせのほし)千年星と(ちほせのほし)と変わって行きました。

そう言えば、高良山の麓を流れる筑後川は千歳川と言いました。その名を留めているのでしょうか。

高木星の名は長崎に地名として残っています。
筑紫の果てにある肥前の高来(たかき)彼杵(そのき)の両郡を東西と南北に並べた四つの半島の形は、まさにこの巨大なアンドロメダ星雲の姿を地上に映した渦巻き模様と同じであります。

昔は今よりはるかに明るく昼の太陽に並ぶほどの美しさでありました。これが神代紀の天照大神と高木神の由来でありました。
古代の長崎県は海がかなり進出していて、沢山の島々が海中に浮かぶ地勢だったそうです。

八幡とは元来は風にひるがえる衣装の靡きを言う胡語であって、この発祥はアンドロメダ大星雲の旋回を表現した。   『儺の国の星』


高良山の八幡神はもともとここに、縁があったのもこれで分かります。
         (「高木の神」の現代語訳は『古事記の神々』に書きました。
         サイドバーからリンクしてます。)
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by lunabura | 2010-01-02 00:00 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(0)

高良大社(5)高良山を開山したお坊さんのお話


高良大社 高良玉垂宮(Ⅴ)
(こうらたいしゃ  こうらたまたれぐう)
観音寺縁起 (修験道の開祖の物語)

高良山を開山した隆慶上人のお話


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高良山の駐車場から筑後平野を眺める。

平野の緑の筋が筑後川。
向こうの山は背振山。
その山の向こうに博多があります。
この平野が今日の話の舞台です。


高良山はかつて修験道の山として栄えていました。
今日は、この山を開いた隆慶上人(りゅうけいしょうにん)のお話を紹介します。



高良山仏教の開祖、隆慶上人は、白鳳八年(679)から
奈良の大安寺の南院で定恵和尚を師とし、
仏法の奥義を学んでいましたが、
朱鳥元年(686)五月、
師の許しを得て帰郷の途につきました。

道中つつがなく、五月七日博多の津に至り、
十一日には筑後に入ることができました。
ところが、その日もの凄い大暴風雨に襲われたのです。
雷鳴は天にとどろき、
土砂振りの雨は蓑笠をも破る勢いでふりそそぎます。

大地は泥海と化し、ぬかるみに足をとられて進むことができません。
おまけに千年川(筑後川)が氾濫したとの報せです。
上人はやむなく鰺坂(小郡市味坂)村に宿をとり、
暴風を避けることとしました。

夜に入ると雨足はますます激しく、暴風は家を震わせ、
浪は壁を崩して倒壊する家、
柱根を洗われて流失する家も数知れず、
上人の宿った家も水に浮かんで漂流しはじめました。
家の廻りを、溺れた牛馬が浮き沈みしながら流されてゆきます。

泣き叫ぶ村人たちの間に端然と坐した上人は、
一心に観世音菩薩の加護を念じていましたが、
居合わす人々にも名号を教え指導しましたので、
「南無観世音菩薩」の大合唱が起こりました。
その声は暴風雨にかき消されながらも、闇の中に広がってゆきました。

すると、どこからともなく一つの火の玉が飛んで来て、
ぐるぐる廻りながら上人の宿を照らし出しました。
それを合図に波間から一隻の小舟が現れ、
上人の宿に近付いて来ます。
よく見ると、その小舟には大勢の童子が乗っているのです。

驚きあやしむ人びとをしり目に、童子たちは舟を家に着けると、
中の一人が縄を持って柱にするすると登り、
梁にしっかりと結びつけました。

童子たちが「エイヤ、エイヤ」とかけ声をかけて縄を引きますと、
上人の宿は流れにさからって動き出しました。
上人は「これこそ観音様のお助けに違いない。」と、
なおも人びとを励まして一心不乱に唱名を
続けました。

やがて夜明けまぢかになると、
それまで空を照らしていた一火(ひとつび)は飛び去り、
童子たちも忽然と消え去って、
水中に家だけが取り残されました。

恐る恐る見おろすと、
すでに浅瀬に着いていて、難をまぬがれたことが判りました。
「助かったぞ」人々は皆な水中に飛びおり、
抱き合って嬉し涙にくれるのでした。

のちに村人たちは、上人の宿をそのまま寺として、
十羅刹女(法華経を守する十人の羅刹女)の像を安置しましたが、
この寺は「御堂」と呼ばれて、永く崇められたということです。

久留米市合川町御堂島は、この寺の跡と伝えられています。

一方帰山した上人は、報恩謝徳のため
高良山中に新たに精舎を建て、
観世音菩薩の尊像を安置し、観音寺と名付けました。

その跡は、国指定の天然記念物、
金明竹林前の駐車場下段の平地であります。

『高良山の史跡と伝説』 の第一集   古賀寿 著
 

高良山の文献は明治時代の廃物希釈の時に、
大半が燃やされてしまったそうですが、
この高良大社の元の宮司である古賀寿さんが
高良山文化研究所を立ち上げて資料を収集されました。

その折発行された小冊子、『高良山の史跡と伝説』 の第一集から
書き写しました。
昭和の終り頃の刊行かと思われます。

この観音寺縁起を読むと、
筑後川の氾濫のようすが大変リアルに描いてあります。
これは、昭和28年の筑後川の氾濫を体験された事による
表現ではないかと思いました。

この昭和の大氾濫のあと、
筑後川沿いの家の軒下には舟がつるされるようになったと聞きます。

地図  小郡市あじさか(宿があった所?) 
     久留米市合川町(流れ着いた所?)
     高良山 観音寺の跡


伝承は日々忘れられて行きます。
古賀寿氏はなんとか後世に残したい思いで伝承を収集されたのでしょう。
地元の人々はこんな宝があるのを御存じでしょうか。


この本の目次を書いておきます。

1、観音寺縁起
2、今長谷観音堂縁起
3、中谷の薬師
4、小龍の登天
5、中院縁起
6、満福長者
7、待宵の小侍従
8、鶴の御返し

1の「観音寺縁起」をそのまま書き写しました。

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by lunabura | 2010-01-01 00:00 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(0)

高良大社(6)玉垂宮の縁起は志式神社の神楽とつながった


高良大社(6)
玉垂宮の縁起は志式神社の神楽とつながった


さあ、いよいよ高良大社にやって来ました。
これまで麓の神社や古墳を歩いて古代の営みを見て来ました。
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その中心を成すのがこの高良玉垂宮です。
本殿は高良山の頂上ちかく。車でヘアピンカーブを辿って登ります。
今回は神官さんから直接、高良大社の由緒をうかがうことが出来ましたよ!
御祭神
中央 高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)左 八幡大神 右 住吉大神

高良玉垂の神がどんな神なのかは、江戸時代にも論争があったそうです。
当時でも結論が出ず、殿様が御祭神を「竹内宿禰」と決定したために、
神社側もこれを受け継いでいるとのお話でした。
それでも、御祭神を人々が研究するのはいっこうに構わないです、と、
寛大な姿勢を述べられました。

大社には二つの縁起曼荼羅があります。
大変巨大なもので、一つは神社の全景を描いたもの。
そして、もう一つは神社の縁起を描いたものです。

今日は高良山の縁起について考えましょう。
まずは中世時代に描かれた曼荼羅を見ながら伺った
縁起の概略を書きたいと思います。
(と言いながら、あっという間に忘れてしまったので、
話が違っていたら是非とも指摘してください。)

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(これはその絵巻の該当する部分です。許可を受けて掲載しました。
映像は不鮮明なままにしています。)
高良の神は10万の敵が攻めて来るのを迎え撃つために、水軍の援助を求めてイソラ神豊姫を遣わしました。
イソラ神は海の中に住んでいて、顔にフジツボや貝殻やワカメなどがびっしりついていたので、姿を恥じて、なかなか出て来ようとしませんでした。
(絵巻では、中央に亀の背に乗って釣りをしています。)

そこで、高良の神が八乙女に舞を舞わせると、「そこまでされるなら」と、イソラ神は干珠満珠を授けて、援助を約束します。

高良の神は敵と対峙した時に干珠を海に投げ込むと、みるみると潮が引いて行きました。敵が船を下りて攻めて来る時に満珠を投げ込みました。すると潮が満ちて、敵軍は溺れて降参しました。こうして高良の神は戦に勝つ事が出来ました。

この話を聞きながら、「これって志式神社の神楽と同じじゃない!」とドキドキ。
このブログで一緒に逍遥して下さってる方々も、
「あれ、まただ」と思ったに違いありません。
志式神社の神楽は、すでに「高良大社(2)」でも書いたのですが、再び書きます。
 
 磯良舞 いそらまい     
神功皇后らが48艘の船団で新羅へ進軍する時、武内神が干珠満珠を貰い受けるお話。
磯良神は大和で40万年、ひたちで40万年、勝馬(かつま、志賀島)で40万年過ごされた神。そのイソラ神が海神のところに行って干珠満珠を貰おうとするが、なかなかもらえず、豊姫が代わりに海神の所に行く。
すると海神は「神楽を舞うならば、授けよう」と言う。豊姫は神楽を舞い、海神から干珠満珠を授かる。豊姫はそれを武内神に渡す。


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神楽を舞う豊姫。舞台の袖で控えて座っているのが武内神。

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豊姫の舞を堪能した海神は、豊姫に金と銀の玉を授けた。

高良大社と志式神社では、少しずつ神の名がずれていますが、話の骨子は同じです。
いったい何度この神楽に戻って来た事でしょう。
どこに行っても、この話に戻ってしまう。
るなのブラブラ歩きはこの神楽を理解するためにあったのでしょうか。

イソラ神の姿

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イソラ神って、志式神社の神楽ではこんな姿です。120万歳?
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志賀海神社ではこんな姿。これは平成21年の御神幸祭の時のもので、
境内に掲示されていた写真を写しました。

イソラ神の祭りは、2年に一度、すべての準備が整ってから、その年のお祭りを
するかどうかのみくじを伺うと言う厳しい状況で行われるお祭りです。
「しない。」というみくじを引いたら、全部中止です。
その為に何年も行われなかった事があるそうです。
現代では無条件に2年に一度行われていると聞いています。
(顔に白い布のこの神さま、アニメ映画「千と千尋」に出て来ましたね。)

高良の神はこの神さまに助けられて戦う事が出来ました。
志賀海神社は当然ながら、安曇族の本宮。
私は「高良大社(2)」で、この高良山の縁起を知らずに、大胆にも、
志式神社の神楽と同じだ、なんて記事を書いて、思えば冷汗が出ますが、
こうして繋がったのには、何か不思議な縁を感じます。

海神の姿
高良大社ではイソラ神から干珠満珠を授けられた話になっていますが、
現地の神楽では海神のから授けられていました。

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これが海神。
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これは高良玉垂宮の拝殿の龍神の像です。後ろには波があります。
龍神は水の神であり、海の神でもあります。
志賀海神社は「龍の都」「海神の総本社」で、御祭神は綿津見神=海の神です。
神楽の海神と高良玉垂宮の龍は同じ「海の神」です。
この龍神は安曇族の力を借りて戦に勝った象徴だと思われました。

さて、宝物館に入ると、高良大社史年表がありましたよ。
西暦82 景行12年 景行天皇高羅(高良)の行宮に国内を遊覧し、
            御井の大川(筑後川)に渡し船を備える。
200年 仲哀9年 神功皇后天皇と共に筑紫に幸し、高良山に
            御滞在(安在地・朝妻)。次いで朝鮮半島に出兵。
          高良の神、神功皇后を援け給うと伝える。
367~390年 仁徳55~78 高良の神(玉垂命)、高良山に御鎮座。
            この頃、礫山古墳・祇園山古墳できる?
400年 履中元年 高良山に社殿を創建し、玉垂宮と称する。

ということで、高良山の記事は景行天皇が初出のようです。
次の時代の神功皇后と仲哀天皇は「朝妻」滞在と書いてあります。
すると、あの味水御井神社の所に滞在したんですね!
そこからは4本の銅剣が出土しているそうです。
銅剣を奉納するのは神功皇后がこれまでも、あちこちでやって来たことなので、
この銅剣もその可能性があるかも?
資料館に行けば見られるかな。
(この4本の銅剣と皇石神社、綱脇神社の銅剣が同じだったら面白い事になりますね。)
この年表からは時代が下がるにつれて、
神の性質が変化していくようすがよく分かります。

さてさて、この高良の神には王子が9人いるそうです。
王子の事を調べたら何か分かるかも。
    (つづく)




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by lunabura | 2009-12-31 22:02 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(2)

高良大社(7)九躰皇子と『高良玉垂宮神秘書』

高良大社(7)
九躰皇子と『高良玉垂宮神秘書』


本殿の裏手にまわると高良御子神社がありました。

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摂社 高良御子神社
御祭神 高良玉垂命の御子神九柱(九躰王子
由緒 阿志岐(山川町鎮座の王子宮(高良御子神社)を明治六年に勧請)
例祭 11月13日
月次祭り 毎月13日
御神徳 無限の勝利、厄除け、農産牛馬守護、安産、病気平癒

九躰皇子。この不思議な名前。
「くたいおうじ」と読んで、九人の王子という意味です。
高良玉垂神の9人の御子の事です。
今回はこの九躰皇子についての伝承を調べましょう。

その手掛かりは、くじらさんが教えてくれた『高良玉垂宮神秘書』
という本の中にありました。
その本の冒頭の部分だけ読んだのですが、
内容は高良玉垂宮の神の系譜と縁起を書いたもので、
古事記と同じように、天神七代から書き起こしていました。
が、そこにはあのタカミムスビの神(高木の神)の名前はありませんでした。
そして、古事記や日本書紀とは少し違う神話が語られていました。

今回はこの「九躰皇子」の出生に至るまでの部分だけ、
るな流に解釈してまとめたものを紹介します。
(解釈に間違いがあったら、どんどん指摘して下さいね。)
ヒコナギサタケ・ウガヤフキアエズの尊住吉大明神であり、明星天子の垂迹である。
(垂迹とは、菩薩が人々を救済するために仮の姿をとって現れること)

叔母のオバキ玉依姫と夫婦になった。二人の間には5人の御子がいて住吉五神という。
内訳は女子が二人で、男子が三人である。
女子の名は表津少童命(ウワツフカタツミの命)、中津少童命(ナカツフカタツミの命)。

男子は嫡男が表筒男の尊で、大祝(おおはふり)氏の先祖であり、日神の垂迹である。
二男は中筒男の尊で、このクニに留まって初代天皇の神武天皇となった。
三男は底筒男の尊で、高良大菩薩の事である。月神の垂迹である。

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普通は「表・中・底筒男の神」の事を住吉三神と呼びますが、
ここでは少童(わだつみ)2姉妹を含めて住吉五神と呼んでいます。

この住吉五神の父はウガヤフキアエズで、この神が住吉大明神です。
彼が明星天子の垂迹という事は、星の化身という事です。
明星といえば、普通は金星を指しますが、ここでは一般的な星なのか、
金星なのか、あるいは他の星なのか分かりません。
(ちなみに、高良山の隣に明星山がありますョ。)

「九躰皇子」を理解するために、ここで押さえておきたいのは、
高良の神は高良大菩薩と呼ばれ、底筒男神であり、月の神だという事です。

さて、続きを読みましょう。
15代神功皇后の時、イルヰが日本を責め立てた。
その時、神功皇后は筑前国の四王寺の峰に登り、虚空に向かって祈った。
東の空に白雲が現れて、四方に開き光をはなち、月神が20歳の若者の姿で現れた。
四方に分かれた白雲には四天王が現れ、四つの鉾が見えた。
月神の次に、明星天子の垂迹である住吉の神と、日神の垂迹・表筒男の尊が現れて、
三人で皇后の前に立った。
そして、月神と住吉神は大将軍となり、日神は両副将軍となって力になる事を約束した。
ほどなく三韓を降伏させたのち、住吉神は虚空に戻った。

『神秘書』では突然、神功皇后の話になりました。
「イルヰ」が国の名か、人の名前かが分かりません。
(別の縁起には新羅軍5万人が襲来とあります。新羅はハングルでは「シルラ」です。)

このイルヰと戦うために、神功皇后は太宰府の四王寺山に登って祈ったのですが、
その時、月神が出現し、その四方には四つの鉾とともに、四天王が出現しました。
続けて、明星天子、日神が出現し、皇后を助ける約束をしました。
戦に勝利すると、明星天子だけが去り、二人の若者は留まりました。

神功皇后の祈りに応えたのは住吉の神々でした。
両者の深い縁はここから始まっています。

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(「筑前国四皇寺山」=四王寺山の写真のストックを探したら、
ちょうど太宰府政庁跡がドンピシャと来ました。これって?!!!)

さあ、続きを読みましょう。
嫡男の日神・表筒男の尊神功皇后の妹・豊姫と夫婦になった。
地上での名は太政大臣玄孫(ひまこ)大臣物部の大連天照大神のひまごという事から付いた名である。二人の間の御子は大祝日往子(おおはふり・ひゆきこ)という。
(玄孫って「やしゃご」と読むのが正解。ひまごは「曾孫」と書きますよね。)

三男の月神・底筒男の尊神功皇后と夫婦になった。
地上での名は物部の保連藤大臣。高良大菩薩
藤大臣と呼ぶのは、干珠満珠を借りた時の仮の名前。

皇后には九人の御子がいた。
四人は仲哀天皇との間の御子で、五人は高良大菩薩との間の御子である。
合わせて九人の御子を九躰の皇子と言う。

残った月神と日神は、神功皇后姉妹とそれぞれ夫婦になったんですって。
なるほど、だから20歳の若者の姿で現れたんだ。

この二組の夫婦は仲が良くて、一緒に皇宮に住んだそうですよ。
場所はどこだろ?文脈からは、高良山の麓なんでしょうね。
それとも、四王寺山の麓?(どちらも九州王朝の都の候補地だ!)
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長男の日神は豊姫と結婚して、生まれた子供に大祝日往子という名をつけました。
この大祝家は神官を務める家系です。物部氏なんですね。
この日往子のお墓が、祇園山古墳だという伝承もあります。

さて、メインの月神は神功皇后と夫婦になり、二人の間には5人の子供が生まれます。
仲哀天皇との間の4人の子供と合わせて九人を九躰の皇子と呼びます。

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どれもこれも、記紀とは全く系譜が違っています。
記紀に洗脳された頭には、何が描かれているのが理解に苦労しました。

この九人の御子の名前は『神秘書』には書かれていませんでしたが、
宝物殿に、それを書いた縁起書がありました!
1 斯礼賀志命(しれかし)     
2 朝日豊盛命(あさひとよもり) 
3 暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
4 渕志命(ふちし)
5 谿上命(たにがみ)
6 那男美命(なをみ)
7 坂本命(さかもと)
8 安志奇命(あしき)
9 安楽應寳秘命(あらをほひめ)

9人の名前が伝わってるとはスゴイです。

さて、これも系図にしてみようとして、はたと困りました。

これが生れた順に書かれているなら、最初の四人は仲哀天皇の御子たちになります。
高良大菩薩の子供じゃないんです。
単純に考えるなら、シレカシ命は仲哀天皇の嫡男になってしまいます。
(宇美神社で生まれたホムタワケの命はどうなる?)
どうしよう。辻妻を合わせられない。そうだ。
神功皇后は元夫の子供を4人連れ子にした。
だから、高良大菩薩にとっては、子供が9人になった。
そうだ、別に変じゃない。それで、いいのかな…。
(違う気もする…。とりあえずスル―しよう…。)

神功皇后はこの後、東征をせずに、高良山の麓で幸せに暮らした?
そうなると、記紀とはかなりの違いですね。むむむ。
続きを読まなきゃ。          (つづく)




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by lunabura | 2009-12-30 15:44 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(6)

高良大社(8)印鑰神社と『高良玉垂宮神秘書』


高良大社(8)
印鑰神社と『高良玉垂宮神秘書』

『高良玉垂宮神秘書』のつづきを読んで行きましょう。
17代仁徳天皇の時に神功皇后は崩御。
夫の高良明神玄孫大臣、豊姫、大祝日往子尊、武内大臣皇宮を一緒に出た。
武内大臣は因幡の国で靴と衣を残して、山の奥に入って行方不明。
豊姫と玄孫大臣は皇宮からはるばると肥前の国に留まり、豊姫は河上大明神となった。

高良大明神と大祝日往子尊は9月13日に高良山に戻り、三種の神祇をはからった
(はからうの訳、不明。取り扱う。相談する。処置する。など)
神璽(皇位のしるし・天子の印)は高良大明神が預かっていた。
宝剣は神功皇后が持っていた。
内侍()は玄孫大臣が預かっていた。

16代天皇は短命だったようです。彼がホムタワケの命か、シレカシの命か、
あるいは同一人物なのか、文脈からは分かりません。
しかし17代は普通に仁徳天皇になっています。
神功皇后が生きている間に、天皇が変わったというのは、
16代が短命だった事になります。

さてその後、神功皇后が亡くなると、高良明神たちは
皇宮にいられなくなったようにも読めるのですが…。

唐突に出て来た武内宿禰は鳥取県で行方不明…。
豊姫・玄孫大臣夫妻は佐賀県へ。
高良大明神は甥っ子の日往子尊を連れて高良山に戻ります。
この部分の皇宮は何処だったのだろうか。文脈がつながりません。

高良大明神は三種の神器を持ち帰ったのでしょうか。
肝腎の「はからう」の訳が分かりません。
仁徳天皇が持つべき神璽を高良大明神は預かったままなのか。
玄孫大臣は鏡を持っているのか。
三種の神器を持つ者が天子なのです。

いったいどうなってる?????
途中が欠落していて、ストーリーが分かりません。
神秘書を読んで、謎がまた増えた…。

それでも、手掛かりを探しました。
そうだ。本殿の裏には印鑰神社がある。

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末社 印鑰神社(いんにゃく)
御祭神 武内宿禰命 (高良山祠官家の祖神)
由緒 山麓宗崎鎮座の印鑰社を昭和6年(1875)に勧請
例祭 11月13日
御神徳 延命長寿 厄除け 盗難除け

この「印鑰神社」は「いんにゃく」と読みます。
「印」は印鑑。「鑰」は鍵という意味です。

この「印」が神璽なのか、単なる役所のハンコなのか分かりません。
高良大社に伝わる印鑑は宝物殿で直接見る事が出来ます。
不思議な模様で、文字ではありません。
(掲載の許可を貰い忘れたので、出せません。ごめんなさい。)

「鍵」と言えば、くるま座さんが、
「太宰府天満宮の祭りには、二か所の神社の黄金の鍵を持っていくようになっていたのが、近年途絶えた」と言っていたのを思い出しました。

ネットで印鑰神社を調べると、久留米市や壱岐、熊本、佐賀、石川などに見られ、
国の役所が置かれていて、国の印鑑や倉庫の鍵の保管場所だったのが由来のようです。
那の国の金印が中国から与えられた事情などを考えると、
古代日本では「三種の神器」以外に「印鑑と鍵」という権威のシンボルの二本立てで見ていく必要があるんだなと思いました。

この印鑰神社の御祭神は竹内宿禰ですが、
他の印鑰神社でも竹内宿禰を祭神とする所があるのが謎解きの鍵のようです。
『神秘書』の中では竹内宿禰は高良の神ではありませんでした。
「高良の神」は物部の保連(やすつら)でした。

『神秘書』の本文はまだまだ続くのですが、
「神部物部を秘密にせよ。」という文もあり、さらに背景の研究が必要でした。
(るな的にはこれ以上は力不足です。)
ただ、気になる部分があったので、少し書き出しておきます。
40代天武天皇の時、高良大明神は高良大菩薩となった。
異国征伐の時、干珠満珠で国土を守ったことから、
皇宮で神璽を持っていた間、鳥居に玉垂宮と書いた。

やはり、高良大明神は天子の印を持っている時期があったととれるし、
玉垂宮と書いたのは高良山での事のように思われます。

アントンイソラは筑前国では志賀、常陸の国では鹿島大明神、大和の国では春日大明神という。

アントン・イソラなんてカタカナで書かれると、異国の名前のようですね。
ずっと考えたら、「安曇磯良」だった。(例。曇天はドンテンと読む)
アズミは安曇と書いたり阿曇と書いたりするけど、この例から「安曇」と書くのが原型に近いみたいです。

神功皇后の妹は二人いる。一人は宝満大菩薩。一人は河上大明神(豊姫)

神功皇后の妹は二人というのは、初めて知りました。

さらに、大問題が!
10月1日は日本の神たちが出雲に順番に集まるから神無月というが、高良大菩薩は訳あって、出雲大社には行かない。だから、筑後国では10月を神有月という。

う~ん。これは見逃せない力学関係ですね~。
筑後国は、諸国と立場が違ってる!

出雲に日本の神々が行くのは、
「翌年の暦を貰うためではないか」という仮説を持っているのですが、
高良の神が行かないのは、独自の暦を持っているからではないかと解釈しました。

物部氏って自分たちで精確な暦が作れるから、出雲なんかに行く必要はない。
そんなプライドが感じられます。つまり独立国であったという事。
これが世に言う「九州王朝」なのだろうか。

以上、『高良玉垂宮神秘書』の一部を読んで見ました。
四王寺の部分で垂迹説を唱えて粉飾してしまったのが、実に惜しいです。
この為に、虚と実と振り分ける作業が必要になってしまいました。
しかし、ここには当事者しか書けない真実の部分も見え隠れしています。

皇宮の場所は、どこか書かれてないけど、
三種の神器が一時期高良山にあったのを示唆しているようです。
記紀の中でも矛盾している3~4世紀を補うような予感がします。

そろそろ高良山を降りましょう。また、ここに舞い戻って来れますように。




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by lunabura | 2009-12-29 20:55 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(13)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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