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カテゴリ:白山神社・はくさん・粕屋郡( 1 )

白山神社・菊理姫はここを通って、加賀に行ったというが


白山神社
福岡県粕屋郡久山町
菊理姫はここを通って、加賀に行ったというが

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白山神社は伊野皇大神宮の峰続きの白山の麓にありました。

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丘の上に向かって石段が続きます。

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二段構えの石段を登ると、丘の頂上らしき広い境内に出ました。

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地元の氏神さまらしき簡素な趣です。

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拝殿も昔の姿のまま、風がここちよく過ぎて行きます。
ここに来れたことに感謝して参拝。

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神殿です。

白山神社は日本各地にあるのですが、ここには
「菊理姫は帰化神で、この久山町に来てから加賀に行った」
という伝承があるというのです。
確かに韓半島から来たとしたら、筑紫に上陸してから加賀に行くのは
妥当なルートで、他の帰化神たちも同様な歴史をたどるのですが、
今回はその背景を知るための知識を手に入れたいと思います。

まずは、この神社の前にある、説明書きを見てみましょう。
拝殿は大正9年(1920)、本殿は昭和2年(1927)の建立です。それ以前、白山神社は白山山頂付近の花ノ木原にありました。

山頂付近には延享4年(1947)銘の石製の祠があり、現在も「上の白山さま」として信仰が続いています。現在の祭神は五十猛神ですが、近世には白山権現社として、菊理姫神(くくりひめ)、イザナギの命泉道守神(よもつちもり)を祀っていたようです。

白山は「首羅山」とも呼ばれ、伝承では天平年間の開山とされます。『筑前国続風土記』には、むかしは大社で、白山頭光寺泉盛院を社僧とし、350もの坊がありましたが、天正年間にすべて焼亡したと記録されています。現在も山内には坊跡や堂宇の跡が随所に残り、当時の繁栄の痕跡をよく残しています。

毎年11月には大祭が行われ、大晦日から元旦には獅子舞が奉納されます。
  境内神社 山ノ神社(大山祇神)

本宮は白山山頂付近の花ノ木原という所にあり、「上の白山さま」と呼ばれているので、
ここは下宮に当たるようです。

祭神が変遷しています。今は五十猛神ですが、
かつては菊理姫神、イザナギの命、泉道守神(よもつちもり)でした。

菊理姫とイザナギの命について、日本書紀のあらすじを見ましょう。
イザナギの命の妻は日本の国土と自然の神々を生み、最期に火の神を生んで亡くなった。イザナギの命は妻を黄泉の国に追って行って、戻って来るように頼むが、妻は黄泉の国の食べ物を食べてしまったために戻れなくなっていた。
しかし何とかならないかと懇願する夫のために、妻は黄泉の国の王に尋ねに行く事にして、「その間、決して見ないで下さい」と言ったが、イザナギの命は死体を見てしまって逃げ出した。

妻は夫を追って黄泉比良坂に着くが、イザナギの命は岩で塞いで絶縁を言い渡す。妻は「いとしいあなた。そんな事をするなら、あなたの国の人々を一日に千人くびり殺します。」と言って、言い争いになる。その時、菊理姫がアドバイスをしたので、イザナギの命は納得する。

有名な黄泉比良坂の神話ですが、菊理姫が登場するのはここだけです。
泉道守神の神はこの黄泉比良坂を守る神だと思われます。
この神社の三柱の神はこの神話を背景とした神々でした。

もし、この菊理姫が伝承どおりに久山の白山から、加賀の白山に移動したとすると、
加賀の白山ではどのような伝承を伝えているでしょうか。
白山開山伝承
泰澄(たいちょう)は両親とも帰化人系で、14歳の時に霊夢を見てから、越知山で修業を始める。越知山から白山を眺めていた泰澄は霊亀2年(716年)白山神の霊夢を見て白山登拝を決意。翌養老元年(717)にいよいよ山に入り、白山神を感得する。養老4年以降、多くの行者が白山に登拝するようになった。
(修験道辞典を簡約)

加賀の白山の開山が717年。
この久山の白山の開山は天平年間(729~749)。
すると、加賀の方が古い事になります。

ところが、久山(ひさやま)町誌を見るとさらに古い話が載っていました。
創立の由来は明らかでない。伝説では聖武天皇の天平4年(732)3月、僧源通勅命を奉じて社殿を建造し、ニ世源信を経て代々盛んになったとされている。

660年(661年の間違いか?)、斉明天皇が朝倉の宮で崩じられたとき、僧道照が須良山に庵を結んで日夜その追弔に精進した。そのころ難波某が須良山に鎮護国家の道場として300坊を建てて、道照に帰依し、坊の僧侶を白山権現社の社僧とした。社僧の寺院の総号を白山頭光寺泉盛院と号し、座主の坊を大石坊と言い、天台宗に属した。―略―
特に皇室の安穏・国家鎮護の祈祷をしたと伝える。

社殿が最初に出来たのは732年です。聖武天皇の勅命ということなので、
大変重要な神社だった事が分かります。

そして、驚いたことに661年の斉明天皇の崩御のあとの追弔が
ここで成されたと言うのです。(崩御については恵蘇神社に書いています。)
ここは道照を中心とした大きな仏教の道場センターだったのです。
祭祀の内容も皇室や国家の安泰を祈るものでした。

時間的な変遷を見る限り、
祭祀に於いては久山の白山の方が早かった事になります。
伝承で遡れるのはここまででした。

この久山の白山神社は永禄12年(1569)の大友・毛利両軍の立花城における激戦と、
天正14年(1586)の薩摩勢の兵火にかかってすべて焼失しました。
再興ならず、今では氏神さまのようになっていますが、
もともとは朝廷に関わる神社だったのですね。

さて、道照が出て来ました。この僧侶についても押さえておきましょ。
道照(道昭)
遣唐使として入唐し、我が国に初めて法相宗を伝えたとされる。舒明天皇元年(629)河内国丹比郡に生まれた。姓は船連氏。
『続日本紀』によると、白雉4年(653)勅命により入唐し、玄奘三蔵に教えを受けて帰朝。本邦法相宗の初伝といわれ、天智天皇元年(668)より元興寺東南隅に禅院を建てて住んでいたが、後に諸国を周遊し、井戸を造り橋を架けるなど社会事業をした。文武天皇4年(700)に没し、我が国初の火葬となった。
(修験道辞典を改変)

これによると、道照は遣唐使として訪唐し、あの三蔵法師に会って、戻って来たあと、
そのままこの久山の白山に留まった事になります。
難波と言う人が僧侶の道場を建てて、道照に帰依しました。
道照は唐で学んだばかりの法相宗の教えを説いて、多くの僧が集いました。
そんな最中に斉明天皇の崩御の知らせが飛び込んで、その法要をしました。
(思いがけず、恵蘇神社とのつながりが出て来ました。)

道照は故郷に帰ってから、しばらくすると社会事業を始めました。
唐の繁栄を見て、人民に一番必要なものは何かという事を
見詰めて来たのでしょう。こんな生き方には現代人でも心惹かれます。
彼は最期には、日本で最初に火葬された人となりました。

この道照の伝承については次のブログで詳細にレポートされています。
徒然なるままに、、、 道照と役小角
http://jumgon.exblog.jp/16095264/



今回は古代を理解するための知識の仕入れで終わりましたね~。
でもそのお蔭で、かつてはここが大変栄えていた事が分かりました。
「白山と名がつけば、鉄に関係あり。」だそうです。
後に祀られた五十猛神もそれに関連しますね。
この事については、この先少しずつ明らかになればいいなと思います。

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ここは古代の最先端の仏教が営まれ、その背景には鉄文化が伺える場所でした。
すぐ近くには神功皇后の斎宮(聖母屋敷)があります。
黒男神社は竹内宿禰が守りを固めた所でしたね。
伊野皇大神宮は九州のお伊勢さんと言われています。

今はのどかな里山の風景が訪れる人々を癒してくれます。

地図 白山神社 





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by lunabura | 2011-06-17 17:54 | 白山神社・はくさん・粕屋郡 | Trackback | Comments(16)
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