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カテゴリ:志賀海神社・しかうみ・福岡市( 21 )

伊邪那岐の禊の海が志賀島にあった


伊邪那岐の禊の海が志賀島にあった


羽根を広げたような博多湾の描き出す円弧。
その焦点の位置に志賀島がある。
島の最北部は国民宿舎があり、勝間海水浴場がある景勝の地だ。

そこには志賀海神社の三宮があり、綿津見三神がそれぞれの宮に祀られている。
沖津宮
仲津宮
表津宮
これらに祀られている三神はこの海から生まれた神々だった。

その三つの宮に囲まれた海域にはいくつもの名前がついている。

三瀬 神遊の瀬 大戸小戸 舞能ケ浜 御手洗

ここは伊邪那岐が禊をした海だった。

これは糸島の神職、宮崎大門が記録に残してくれていた話だ。
その記録を『志賀嶋所聞録』という。
次にその記録を要約してみよう。

【御手洗】
伊邪那岐大神が与美国の穢れを洗い清め給いしところ。

―イザナギは黄泉の国から戻ると海で禊をした。
衣服を脱ぎながら神々が生まれた。
海に潜ると綿津見の神々と筒男の神々が生まれた。
海と星の神々だ。
そして、最後にアマテラスとスサノオとツクヨミが生まれた。
そのうちの綿津見の三神がここに祀られている。
これを志賀皇神とか志賀大神という。

【神遊の瀬】しんゆうのせ
志賀皇神たちはこの三瀬で遊居されたことからここを「神遊の瀬」ともいう。

【大戸小戸】
神遊の瀬から入海に入ると奥に穴があった。
志賀皇神は神遊の瀬からこの穴に出入りされた。ゆえに「大戸小戸」という。

【舞能ケ浜】まひわざ
息長足姫(神功皇后)は諸臣を連れて志賀大神を招いたが、神は来られなかった。
諸臣は変だと思ったが、かがり火を焚いて天岩戸の神楽を奏すると、
志賀大神は金色の亀に乗って来られた。
ゆえにこの時の様子を9月8日の神幸の神輿の前で奏する。

―亀に乗って現れたのは安曇磯良で、神幸の夜は鞨鼓の舞が奏される。

◇◇ ◇

こうして、志賀島の北端で、イザナギの禊によって生まれた志賀皇神は、
この海域と奥の穴を行き来して遊居したという。

西暦200年、神功皇后はその志賀皇神に参拝するためにやってきた。
安曇族の祖神であり、自らの祖神にもあたる神に渡海の神助を得るためだ。

三宮の手前で馬から降りたことから、そこを「下馬ケ浜」という。
しかし肝心の安曇の長の磯良は、なかなかやって来なかった。

天岩戸の神楽を奏しようとしたが、アメノウズメの舞を舞えるものがいなかった。
臣下の中に、磯良が舞える、と言う者がいた。
磯良抜きで神楽を奏すると、磯良は金の亀に乗って鞨鼓を胸に下げ、
舞いながらやってきた。

志賀島の北端で起こった話だ。

ここでイザナギが禊をした。
そうすると、ここは「橘の小戸のアワキが原」ということにもなる。

イザナギの禊のために志賀島は禊が厳しい島となった。

志賀海神社では、参拝者は一の鳥居の前で「おしおい」で清め、
本殿前でもう一度清める。


『神功皇后伝承を歩く』下巻の表紙はこのシーンを伝えるために選んだ画像だ。
かつて神功皇后が馬から下りて歩いて行った浜辺には今も波が寄せている。

下巻には安曇族の物語が満ちている。
安曇族の功績は正史からは巧みに消されていた。
宮崎大門が残してくれた『志賀嶋所聞録』のお陰でそれを復元できた。
特に志賀海神社の項は長くなった。


奇跡的に出会ったこの小文を志賀島の方々に伝えたい。
そう思い、
今月の最終日、10月31日の志賀島歴史講座の題材に決めた。


神遊の瀬






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by lunabura | 2015-10-28 20:19 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(0)

志賀海神社・御神幸祭(3)磯良の舞


志賀海神社

御神幸祭(3)磯良の舞






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神輿がお旅所にやってきました。





三基が並ぶと、ムシロが敷き並べられて、いよいよ神楽が始まります。
と、その時、いきなりの雨。

先程より強い雨がムシロをたたきます。
敷き詰めたムシロを畳み、並べられた椅子も片付けて模様見です。

私も祠の軒先で雨宿りしていると、社人(しゃにん)さんが一人、雨宿りに入って来ました。

「こんなことは初めて。雨が降ったことなど一度も無かったんですがね。もともとおくんちだったのを10日にしたんですが、(十月十日は)特異日だから雨は絶対降らなかった。最近は祝日が動くんで(雨に遭った)」

夜中に降りだした雨は止むのか、先行きは分からない。

それでも、30分すると雨が小止みになり、社人さんが飛び出して行きました。

「夜渡(よど)の祭って、どんなんですか?」
と隣の人に尋ねていると、飛び出した社人さんが立ち止まって振り返って言いました。
「これが夜渡の祭ですよ!」

そうか。今からそれが始まるんだ。

真鍋の書いていた「夜渡の祭」だ。

そして、これこそ神楽の初源とも言えるものでした。




「龍の舞」(たつのまい)

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龍(たつ)の都、志賀島の神、綿津見の神は龍神です。






「八乙女の舞」

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これから海を渡る神功皇后が海神に捧げた八人の神楽舞。
こうして、1800年経っても、その祈りが続けられています。











「磯良の舞」
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最後は磯良の舞です。
鞨鼓を胸に下げ、白布を顔に下げ、右回りで三度回ります。

「まいのうのきしの、ねまつや~」
(舞能の岸の根松や)(子松?)


白い浄衣のアントンイソラ。
シリウスの名を持つ海人族の長。



ついにその歌を聞きました。

「まいのうの岸の、ねまつや」

「舞能」とは勝馬の海。江戸時代には「まいわざ」と言っていました。



「志賀嶋所聞録」ではこう伝えています。

舞能(まひわざ)
昔、息長足姫尊、諸臣を集めたまいて、志賀大神を召し奉り給うに、神は来られなかった。

ここにおいて、諸臣ら怪しみ、かがり火をたいて、賢木(さかき)の枝に白幣を取り掛けて「天の磐の神楽」を奏されると、志賀大神は金色の亀に乗ってあらわれた。

故に、九月八日、神幸の神輿の前に舞能という事、一奏あり。その時の形相(かたち)を表すとはいうなり。
(綾杉、原文を変更)



こうして、志賀島の北端、勝馬の神遊瀬(しんゆうのせ)は舞能ケ浜とも言うようになりました。

ここはイザナギ尊が禊ぎをして神々が生まれた小戸でもあります。





ブログを書き始めて六年です。
思えば、この六年という月日は神代の志賀島の姿を理解するために紡いできた日々でした。

香椎宮から始まり、志式神社の磯良舞を見、高良大社で見せられた高良玉垂宮縁起絵巻。
それを理解するための日々。

そしてようやく舞能の岸の磯良舞を見ることができました。

神功皇后のガイドブックを製作するとき、参考にしたのは『日本書紀』でしたが、安曇族の姿が巧妙に消されていました。

そのため、『神功皇后伝承を歩く』は神功皇后の物語でありながらも、消された大王を復元する物語でもあったのです。


その消された歴史は奇蹟的なシンクロニシティの連続で教えられました。

例えば
「香椎宮史」
「天照皇太神宮史」
「高良玉垂宮神秘書」

これらは、それぞれの人から不思議な御縁で届けられた本です。



今なら、言えます。
安曇磯良は倭奴国に君臨した大王でした。
高良玉垂命、その人でもあります。

しかし磯良の名は巧みに消され、玉垂命の真実も闇に押し込められました。


私が本や講座でお伝えした時代は次の三つです。

神功皇后の時代。
磐井の末裔たちの時代。
斉明天皇と中大兄皇子の時代。

これらが横糸なら、縦糸を紡いで壮大な歴史のタペストリーを織りなす段階に来ているのかもしれませんね。

このブログは明後日、6周年を迎えます。





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by lunabura | 2015-10-23 20:58 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(13)

志賀海神社 御神幸祭(2)


志賀海神社 
御神幸祭(2)




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神輿が整い、時を待つ本殿。





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今宮神社の神事を終えると、本殿での神事が始まりました。




おお~。おおお~。

警蹕が静かに響き渡ります。

そして、突然木々が音を立ててざわつくと、時雨がざ~っと通り過ぎて行きました。

このあと、すべての灯りが消されました。

すると、海の向こうの町の光がここまで届いているのに気付きました。
空も月が残るか、漆黒の闇という訳ではありません。

氏子さんが「昔はおくんちにやっていたから、月が沈んでから始まったんです」と教えて下さいました。

この時は、島内の灯りも総て消されたそうです。




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神が神輿に乗られると、いよいよ太鼓と笛が神輿を先導します。
その響きは力強くもあり、たおやかでもありました。

不思議な音色は現代の音階とは違っていて、覚えることが出来ません。





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神が三基の神輿にそれぞれ乗られます。








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最後は表津綿津見神。









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長い石段を八人でかついで行きます。









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稚児の灯す提灯が禰宜の足元を照らします。








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「しょうがく」(漢字不明)は1番から6番まで。

「一番」と号令があると、太鼓が鳴らされ、笛が不思議な音色を奏でます。




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「昔は、号令から笛も全部、小学生がしていたんですよ。授業の前に練習しました。今は志賀は子供が二人しかいません。勝馬の子供も参加するようになりました。」

そんな話を聞きました。三基の神輿ごとに二十人ほどの笛吹き人がいたので、卒業生も大人も皆で力を合わせての奉仕です。



もう少しでお旅所です。




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by lunabura | 2015-10-19 21:36 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(0)

志賀海神社 御神幸祭(1)


志賀海神社 

御神幸祭(1)

昨夜、2015年10月11日の夜は志賀海神社で二年振りの御神幸祭がありました。
この存在を知って、数年。
ようやくお祭りを見ることが出来ました。



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夜の志賀海神社は初めてです。





法被を着た人たち。酒に酔ったか、既に足元がおぼつかない人。見物の人々。







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菊の御紋の旗。赤い提灯。


大勢の人がいて人の気にあふれるも、ひそやかな風情。

白い浄衣の社人たち。
太鼓と笛を持って待機する子供たち。



緊張。

そして神聖さ。



夜、8時過ぎに着いた時は、今宮神社で、すでに祭事が行われていました。





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安曇の神裔が祀られている宮です。安曇磯良丸もこの今宮神社に祀られています。
長野の安曇野に行った宇都志日金析命も。

暗い神殿から漏れて来る灯りの中に動く神官の冠の纓。頭を下げる時に煌めく八乙女の冠。





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神輿渡御を待つ八本の櫓。








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神事を終えた社。






(つづく)


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by lunabura | 2015-10-12 23:35 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(0)

安曇族・膳部とは天文観測補佐官だった


安曇族

膳部とは天文観測補佐官だった

安曇族の話に戻りましょう。

志賀海神社の遥拝所から見えるのは日の出。
そして夜になれば星の出が見られます。

星と星の間の距離をどうやって測って、どう表現するのでしょうか。
専門家の真鍋大覚はこう伝えていました。

掌の形を楓(かえで)に見立てる。「かしわて」の略である。

膳部(かしわて)とは皇太子のもとで天文観測を補佐する官階であった。その名の如く、つねに客星彗星の位置を「かしわて」で測るところから、倭人が名付けた職名であった。

後に天神に五穀豊穣を感謝し、その供物膳部を申餔(しんぽ)の刻、即ち日ざしが最も強く、空が最も明るい時にささげる祇官もかねることが多く、やがては宮中の日夜の食を調達することになった。


星と星の間は手を広げて測るんですね。
カエデ即ちカシワテとは本来「皇太子のもとで天文観測を補佐する官階」だったと
真鍋は伝えています。

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本来、天文観測をして、天上の神々に供物を捧げて祀っていたのが、
皇太子の食事にも携わるようになったようです。
ですから、安曇族が膳部であったということは天文観測をしていたということになります。




さて、同じ「膳」がつく気になる神社があります。

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それは香椎宮の不老水の近くの高倍(こうべ)神社。
武内屋敷の近くにあります。

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その石碑に
「祭神 香椎武内家始祖 香椎廟廟司 大膳紀宿禰氏連命」
と書いてあります。

武内宿禰の陣営の特徴として、本宮から少し離れた所に張るパターンが見られます。
例えば久山の斎宮に対して黒殿神社。
仲宿八幡宮に対して旗頭神社。などなど。

この香椎宮もやはり少し離れて陣営を張っていたようです。
そして、不老水で食事を作っていた。

「大膳」という字に注目すると、守りの陣営と食事だけでなく、
天文祭祀も司っていた可能性が出てきました。

そう、香椎宮の古宮ではスピカを祀っていたのですから。

橿日宮(かしいぐう)の社伝によれば、“かし”とはスピカの古語で、春分秋分の象徴としてこれを祀る祠が古宮、即ち日振宮(ひふりのみや)であった。(真鍋大覚『灘の国の星 拾遺』)

あのエリアの狭さこそ、天文観測所の特色です。
仲哀天皇はわずか一年しか居られなかったけど、きっとあの場で祭祀をした事でしょう。
そのそばには神功皇后が、また竹内宿禰が控えて、
国の安泰と戦いの勝利を願ったことでしょう。

香椎宮はその後、仲哀天皇の廟となりましたが、
太宰府には香椎宮別殿が設置されて、
八百万の異邦人の航海日誌を対照する事務所として機能していたといいます。

太宰府に赴任する長官が必ず挨拶に来たという香椎宮。

ここには天文観測という、国を支える重大な機関が継続していたかも知れませんね。


香椎宮古宮はこのブログを書き始めたキッカケの宮なので、
思いがけず話題がここに戻り、感慨ひとしおです。

次は、いただいたコメントの一部です。
木下祝夫氏は先代の宮司で一族になります。
当家は香椎宮近くに末社があります。
高倍(こうべ)神社と言います。そこに武内宿禰の始祖と表記してあります。
香椎宮の守りの兵隊(宮司)で発祥の地は片男佐と聞いています。
後に領地分けで香椎、唐の原、和白、奈多に分散しています。
疑問点があるのです、もともと片男佐周辺に住んでいて和白(新宮)の阿曇族と共に大和朝廷に従ったのか、それとも、朝廷と共に香椎に着たのか知りたいのです。
阿曇磯良と武内宿禰と神功皇后の関係。
武内宿禰とは何、ロマンがあるような気がします。


ラスト前一行。
「阿曇磯良と武内宿禰と神功皇后の関係」
今、この三者が倭国の歴史を刻んだ重要人物だと分かり、
このコメントの凄さに気付かされます。

この三人を実在しないという事にしてしまった学者(?)や研究者の意図は
何なのでしょうか。
単にフィールドワーク不足で論を立てた?
それだと、いけませんね。

この時代、まだ大和朝廷というものは存在せず、
豊浦朝廷あるいは香椎朝廷と言えるものが存在していました。

香椎宮は想像以上に重要な位置づけがあるのです。

真実が蘇ろうとしている。
今、そのお手伝いをしているんだな、と時々思ったりする、るなでした。


香椎宮 古宮




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by lunabura | 2015-01-02 20:55 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(4)

安曇族と天皇の食事・膳部(かしわでべ)


安曇族と天皇の食事

膳部(かしわでべ)
 
安曇族が天皇の食事に係わっていたという話は、
例の寝言「オイ、タカハシ~」という件があって、
覚えている方もあるかもしれません (^_^;)

安曇族と高橋族
http://lunabura.exblog.jp/20395727/


寝言を言ったのは、わたし。

私はその夢を全く覚えていないのですが、その翌日、トシさんから電話があって、
思いがけない展開が。
阿曇氏と高橋氏が半年交代で天皇の食事の調理を担当していたということを
知ったのです。

ホント驚きましたね、あのタイミングは。

その役職名が膳部(かしわでべ)です。
今回、「膳部」をもう一度ネットで調べると、詳しい話が載っていました。


日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
膳部かしわでべ
古代において朝廷の食膳(しょくぜん)を調えることを職とした専門集団の称。膳夫(かしわで)とも。

膳部の統領(伴造(とものみやつこ))を膳臣(かしわでのおみ)といい、孝元(こうげん)天皇の皇子大彦命(おおひこのみこと)(阿倍臣(あべのおみ)の祖)の孫磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)が景行(けいこう)天皇に堅魚(かつお)と蛤(はまぐり)を調進して嘉賞され、膳部の統領に任命されたのが起源であると伝える。

膳部は中央にあって天皇・百官の食事の調製にあたり、また各地に分散居住して食料品の貢納を担当した。

 律令制(りつりょうせい)下では宮内省(くないしょう)大膳職(だいぜんしき)に膳部160人、同省内膳司(ないぜんし)に膳部40人が所属し、それぞれ百官・天皇の食膳の製造に従った。

このうち、内膳司の長官(正(しょう))には膳臣(のち高橋朝臣(あそん))を任命することが多く、その場合とくに内膳奉膳(ないぜんのぶぜん)と称せしめ、一般官人を任じた内膳正(しょう)(かみ)と区別した。[黛 弘道]

上記の
「内膳司の長官には膳臣(のち高橋朝臣)を任命することが多く」なった背景には
高橋氏の讒言があっての阿倍氏の失脚があるようです。

ところが先日、その話が出た時、思いがけず、Yさんが、
高橋氏と安曇族は同族だったと教えてくれました。
へえ。そうなんだ。

高橋氏も阿倍氏も同じ安曇族として、半年おきに奉仕していたのが、
官僚社会になって、地位や利権争奪の渦巻く中、
一方が独り占めしようとしたのでしょう。

ところで、上の文の中に「大彦命」が出てきましたね。
阿倍臣の祖とあります。

この名前は黒殿神社(糟屋郡久山町)に出てきましたよ!
ちょいと寄り道しましょう。

黒男神社由縁の概略
第八代孝元天皇―太彦命―武渟川別命―阿部家祖先
           L 第九代開化天皇―第十代崇神天皇
           L 彦太忍信命―屋主忍男武雄心命―武内宿禰

当社では阿倍家のルーツは「太彦命」と書かれています。
「大彦」も「太彦」も同一人物でしょう。

阿倍家の祖先に太彦命の名が出て来た理由は次のように書かれています。

神功皇后に随っておられた太彦命の御子武渟川別命もカタ山に陣を張り、しばし足を止められている内に一子を挙げられ、その子孫が年月と共に繁栄し、数十戸に及んでいる。これが阿部家の先祖である。

武渟川別命は地元の娘との間に子供が出来ているのです。
(他でも現地の女性との間にも子が出来ています)

黒殿神社は神功皇后のための斎宮を守る陣営の跡地に出来た宮で、
香椎宮との連絡も容易な場所です。

香椎宮や斎宮の地理を知って、宮地として提供できたのは
地元の安曇族だろうとどこかで書きましたが、
ここまで伝承同士が合致するなら、
武渟川命が子を生ませた女性とは安曇の娘と見て問題ないでしょう。

その子の名が「磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)」かどうかは
分からないんですけどね。

しかし、上記の「磐鹿六雁命が景行天皇に堅魚(かつお)と蛤(はまぐり)を調進して
嘉賞され、膳部の統領に任命されたのが起源」という事は、
安曇族と天皇家に篤い信頼関係が在ったことを示しています。

時代的にはどうなんでしょうか。
十二代景行天皇の皇太子・日本武尊は武内宿禰と共に佐賀で戦っています。
十四代目が甥っ子の仲哀天皇ですから、系図を見ても、時代的には矛盾がありません。

回り道しましたが、今日のポイントは
阿倍氏である磐鹿六雁命が景行天皇にカツオとハマグリを調理して出して、
膳部の統領に任命されたという話です。

カツオとハマグリなら、春の食材かな ♪

これでようやく『儺の国の星拾遺』に取り掛かれます (^_^;)


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志賀島 二見岩と立花山と鵜


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by lunabura | 2014-12-27 21:11 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(0)

志賀海神社・二本の銀杏と日面見


志賀海神社
二本の銀杏と日面見

朔旦冬至はあいにくの曇空。
志賀海神社から見える冬至の日の出観測を計画していたのですが、
予定を変更して午後に行った話は前回書きました。

三人衆は遥拝所であれやこれやと。
「あれは銀杏ですよね。まだ一度もこの木の黄葉を見たことがない」と私。

「銀杏ですね。雷に遭っている。そして周囲から新しい幹が出ていますね」
「ということは、昔は遠くからもよく見えたんですね」

銀杏は神社の灯台代わりをしているなと、よく思います。
銀杏を見て神社を探し当てることはよくあるのです。

「おや、もう一本ありますね」
見ると、右手、すごく近い所に銀杏がありました。
普通はこんなに近くには植えない。

「これは角度が!」
二本の銀杏は狭い間隔で、ちょうど遥拝所を挟むように並んでいるのですが、
遥拝所の鳥居とは角度がずれているのです。

「おお、これは太陽が冬至から夏至までを観測する額縁になっている」
「どこ、どこ?どこから見たら額縁になるんです?」
「この辺りからがちょうど見えますね」
それは鳥居の手前で参拝する時の位置に近かったです。
つまり、冬至と夏至のポイントを両脇の銀杏で決めれば観測の基準になるってこと。

「遥拝所は境内の形状の為に少し斜めに作られたのでは?」
言い換えれば、ここはかつて太陽観測所だったけど、
崖のラインに沿って遥拝所の敷地を作ったために、
二本の銀杏のラインとは平行しなくなったということです。
(むむ、分かりたかな。現地に立つとよく分かるのじゃが)

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 これが正面。

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次に左右の銀杏を入れた正面。

Tatsuさんからメールが届きました。
「志賀海神社の遥拝所はとても面白いところでした。

二神山の遥拝所というより、太陽信仰の跡の印象でした。
東の山々の「日面見山」(かづらみやま)という命名は秀逸です。

日出の範囲に枠を嵌めたような両脇の二本の銀杏は、日々
位置を変えてゆく太陽に呼応するように装いを変え、季節の
移ろいを演出します。銀杏の色付きや落葉で気象予報なども
行ったかもしれません。」

上手いこと表現しますなあ。

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「銀杏の額縁から見ると、大嶽神社の山がよい中継点になっていますね」
「だから大嶽神社も遥拝するんですね」
なるほどです。

脇の立札の最後の部分にこう書いてあります。
「遥拝所は右斜め対岸の大嶽神社・小嶽神社と正面真東の伊勢の神宮、宮中三殿を拝します。」

大嶽神社の祭神は志那都比古・志那都比売・大濱宿禰・保食神の4柱です。
ここには大濱宿禰の砦があったと聞きます。

本来、志那都比古と志那都比売の二柱が主祭神だったのでしょう。
風の神ですが、星の名前から考えると、スピカを指します。

かつてはスピカは紀元前666年の頃、春分の日を教えてくれる星でした。
だから、ここは星や磐座祭祀を視野に入れたい地点なのでした。

ここから宮中三殿を拝するのも謂われあってのこと。
神武天皇が安曇の子だったこともありますが、安曇が膳部(かしわで)だったことが
この地点と関係ないわけではないことを『儺の国の星拾遺』から知ったのです。
(つづく)


コメント下さった方々、今日はお返事できません。
少々お待ち下さいね。
いつもありがとうございます^^


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by lunabura | 2014-12-25 20:19 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(2)

志賀海神社・遥拝所から見える日の出 2015年版


志賀海神社

遥拝所から見える日の出 2015年版


わたつみさんが小学生の時、夏休みの宿題で志賀島の橋から
日の出を観察したと聞いて感激。
私はお寝坊さんだったから、そんな発想は決してありませんでした。

で、tatsuさんにお願いして、志賀島から見える日の出を
シミュレーションしてもらいました。

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画像に書かれている文は以下です。
※立花山頂上近くに太陽が昇るのは、4/2,4/3,9/10,9/11の年4回あります。
いずれも僅かな差ですが、頂上に一番近いのは4月3日です。春、秋の季節は太陽の移動幅が大きくなります。

※表示の太陽の大きさは実寸(視直径約0・5度)の倍の直径約1度です。
表示の時刻は太陽が山の稜線上に昇り切った時刻で、画像の太陽と実際の見え方は少し違います。
福岡地方では太陽が昇る角度は約56・4度です。また地平線近くの太陽は肉眼では大きく見えます。

これは超豪華版。
しかも、2015年版です!

見ていると、うっとり。


夏至は帆柱山を過ぎてさらに左へ。
え?帆柱山。
あの、北九州の山ですよ!
神功皇后が国見をした時、もしかしたら志賀島も見えてた?

夏至が来ると太陽は南へとUターン。
夏休みには立花山にどんどん近付いてますね!

二神山の間から日が昇る時、きっと何か祭典があっただろうと思っています。

地元の新宮町には
二神山はイザナギとイザナミの住まう宮だという言い伝えがあります。
イザナミが亡くなって黄泉の国に行き、イザナミ会いたさに
黄泉の国まで行ったイザナギが約束を破って亡骸を見て逃げ出したのですが、
そのあと禊をしたのが志賀島の元宮なのです。

筑紫には埋もれてしまった神々の物語がまだまだ発見されるのを
待っていることでしょう。

さて、太陽はさらに南へと。冬至には宝満山の横のピークに達します。
これが、チェリーさんの言われる元宝満ですか?

これを見ていて思い出したのですが、
正面の山々は古代には葛城と呼んでいた山塊に当たります。

公開講座で紹介したのはこの文。
大和の笠置(かさぎ)の山々の名は、筑紫の葛城(かつらぎ)から神功皇后(201~269)の御宇に遷したものと伝えられる。
 葛城の峰は香椎宮から太宰府の東の空に連なる、昔は日面(かづら)見山(みやま)とよんでいたと聞く。西の伊覩(いと)(怡土)の百姓は、この葛城の山や谷から上がる太陽の方向を見定めて、太陰暦、即ち月暦に太陽暦、即ち日暦の二十四節季、時と所によっては、二十節季をふり添えていた。怡土がかつて日向(ひむかい)の国とよばれていた所以がここにあった。怡土から早良に出る大和に日向の字名が点在することは、古事記神代記、天孫降臨の条に
 朝(あした)の日の直(ただ)刺(さ)す国なり、夕(ゆうべ)の日の照国なり。
の一節を思いあわすことができる。『儺の国の星』p196

これは伊都国から見える東の山々を「日面見山」(かづらみ)山と言い、
葛城(かづらき)の語源になったという話です。

そして、その地名は神功皇后の時代に奈良に移ったといいます。
伊都国から見える日面見山は、志賀島から見ても角度は違え
同様に日面見山だったことに気づきました。


この山塊には葛城神社も残っていますが、まだ未参拝です。
そして、葛城襲津彦の末裔たちは小倉にいます。
また、天智天皇の諱が葛城。

弱冠15歳頃のるなが行きたくて行けなかったのが「葛城」。
(こりゃ、関係ないか…)

まだまだ、面白い展開が待っていそうな予感 ^^


それにしても、この地図があれば、スマホとかで現地で確認できますね。
良い時代になりました。
ちなみに私はガラケーです (^_^;)
Tatsuさん、本当にありがとうございました。

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by lunabura | 2014-12-02 20:23 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(10)

志賀海神社・冬至の日の出ライン


志賀海神社

冬至の日の出ライン


蘇我氏は「朔旦冬至」を元旦とするので「とひ」族となりますが、
冬至と新月が重なるのは19年に一度。
その天文的ビッグイベントが起こるのが今年の12月22日なんですね!

「とひ」族の蘇我氏の居留地が福岡市早良区の脇山だったという話と期を一にして、
志賀海神社から冬至の日の出は宝満山から昇る!
その宝満山と志賀海神社を繋ぐ女神は玉依姫、
というコメントをいただきました。

壮大でロマンチックな古代の物語が、またもや紡がれました。

まずは、インドラさんのコメントから。
志賀海神社からの写真、宝満山が見えますが、山頂の竈神社のご祭神と志賀海神社相殿のご祭神が一緒、筥崎宮と宇美八幡も一緒でしかも全部が一直線上に並び、冬至の日の出のライン上にあるというのはすごいですね。
その写真はこれ。
c0222861_20572291.jpg

宝満山の玉依姫は志賀海神社の相殿に祀られています。
冬至の朝は、両社の玉依姫が曙光で繋がる瞬間になります。

そして、tatsuさんが、画像を作って送ってくれました。

c0222861_19561316.jpg

ここから宝満山との間に宇美八幡宮と筥崎宮があるんですね。
二社に共通する祭神は応神天皇です。
太宰府は谷の辺りでしょうか。

画像を作ってくれたTatsuさんのコメントです。
ブログの写真を拝見しました。インドラさんのコメントを読んで眺めると山の存在感がまるで違いますね。Webで宝満山山頂の画像も見ましたが、磐座と言っていいのか、ただならぬ岩塊がありました。

地図などで見ると、僅かなぶれはありますがインドラさんが仰るとおり、四つの地点は並んでいました。現代の暦で言う冬至の日出方位とはずれますが、冬至の日に、ある地点と太陽が顔を出した地点を結べば、それはその場所の「冬至の日出ライン」ですね。

志賀海神社から目標としたのが宝満山山頂なのか、その北東約400mの三角点があるもう少し高い頂なのか、ちょっと迷うのですが、肉眼で見る朝日の見かけの大きさと山頂、稜線との関係は、実際に志賀海神社から見ないとわかりませんね。でも稜線から出る太陽はもう眩しくて見られないかも。

古代人はどうやって至点分点を知ったのでしょうか。何百年も観察を続けた結果なのか、宇宙のリズムの僅かな変動を感知するシャーマンがいたのか、個人的には観察・シャーマン併用説です(ますます不明)。

同じ地域で少なくとも4つの神社が冬至に関わると思われる同一線上に並んで、いずれも祭神が同じというのは古代祭祀と太陽の関係、それに関わった古代部族を考える上で重要な要素のひとつになるのではないかと思います。

宝満山頂には巨大な磐座があり、
7合目か8合目には梵字が彫られた巨石がありますが、これも磐座ですね。

古代人の観測力は現代人から見るとホント驚かされます。
ある観測点から昇った太陽も70年経つと、一般人の目にもズレているのが分かるとか。
そうすると大王の威光も薄れるために遷宮するというようなことを
真鍋が書いています。

冬至や春分などの光を利用した古代神殿のモニュメントも
一世代しか使えないということでしょうか。

インドラさんのお返事です。
冬至の日の出角(地平線での)とグーグルアースの示す121度とは3度ほど違います。 ただ宝満山の高さを800メートル、距離を28キロ、太陽の南中高度を33度とすれば、だいたいそんなものかと思われます。 冬至の日に行って確かめてはいません。
漁師さんは漁礁を見分けるのに遠くの山と近くの岩を結んだ線が重なる等を用いておられます。
海神族にはそんな技術があったのだろうと思います。 この神社の山ほめも気になっています。
志賀海神社の元宮は勝馬で、宝満山のイワクラの位置は変わらない等を考えると神社が出来た順番もなんとなく予想されます。 貝原益軒の筑前国続風土記にハコザキ宮の遷宮についてふれていますが、これも面白く感じます。

漁師さんは上記に加えて、岩礁の在り処も「山当て」で伝承してあるそうです。
山が無い時は祠(神社)や灯籠を置いていると、ヨットマンが言っていました。
湊に戻る時の大事な目標物です。

また、筥崎宮には夏至ラインがあるそうですから、
何だか立体的な構造が垣間見えてきました。

このあと、tatsuさんが、12月22日の太陽と新月のようすを
画像にしてくれました!

c0222861_19585813.jpg

当日は新月で、月の出から既に肉眼で見ることは困難ですが日出から日入まで太陽に寄り添います。

当日の太陽と新月の軌跡図を作りました。まるで宝満山から志賀海神社へ太陽と月が渡って来るようでもあります。

海も干満の差が大きくなりますが、潮満珠・潮干珠とは月と太陽のことで、珠を授けるとは潮汐の知識のやり取りではなかったかとも思えます。

冬至の新月は次回は19年後(メトン周期)に巡ってきます。まだ生きているかどうか。日食や月食のような人気の天体ショーではありませんが、太陽と月が並んで復活する、宇宙の律動を感じる19年に一度のイベントです。

これは美しい。
新月は目に見えませんが、太陽に寄り添ってまさしく影のように一緒に「おみ渡り」です!

冬至は玉依姫が宝満山から志賀海神社へ「おみ渡り」される日、
なんて想像したくなります。

この月と太陽のイベントは、もちろん何処でも見られる訳です。
もし、神社と山が結ばれるようなラインがあれば、
そこは古代の人々の息吹が感じられる聖地になっていることでしょう。

蘇我氏も、この19年に一度の天文イベントに格別の思いを抱いたんでしょうね。
この日から太陽は輝きを取り戻していきます。

インドラさん、tatsuさん、ありがとうございました^^



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by lunabura | 2014-11-30 20:01 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(6)

歴史講座 安曇の磯良  一回目


安曇磯良 一回目


昨日の嵐のあと、今日は爽やかな秋日和。
志賀島に行ける!
とワクワクしながらの歴史講座でした。

早めに着いて、志賀海神社に参拝。
c0222861_20552992.jpg

御神門。
季節が違うと光線の角度が変わって、目に入るものの表情が違っていました。


c0222861_2055534.jpg

そういえば、前回参拝したのは夏の日差しの中。
海神商店さんの主催で安曇の神々の話をした時でした。


c0222861_2056868.jpg

あの日とは空気の色が違っていました。


c0222861_20563249.jpg

今日は本殿の左手にある今宮神社にごあいさつ。
ここに祭られている「阿曇磯良丸神」のお話をさせていただきました。


c0222861_20564920.jpg

境内から相島も見えていました!
南阿蘇さん、岬との間の谷、こんなに低地です。冬至のラインも通っていきそうですよ。

このあと志賀公民館で「安曇磯良と神功皇后」の話をしました。
地元の方に大勢来ていただいて、嬉しく思いました。
それと、これまでも何度も来てくださっている方々。
ありがとうございます。


一回目は神功皇后が如意の珠を豊浦宮(忌宮神社)で得て、
そして、磯良から武内宿禰が干珠満珠を授かるところまでを話しました。

二回目は12月14日(日)。13:30から。
いよいよ日本に帰って来て風浪宮に出現する所から始まります。
後で安曇目や安曇族のルーツなどのリクエストがありました。

真鍋の本、必死で解読しなくっちゃ。^^

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by lunabura | 2014-11-03 21:00 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(5)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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