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カテゴリ:ヒメコソ神社・小郡( 2 )

媛社神社(七夕神社)(2)「肥前国風土記」宗像の珂是古の舞台だった


媛社神社(七夕神社)(2)
福岡県小郡市大崎
「肥前国風土記」宗像の珂是古の舞台だった


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媛社神社は別名・七夕神社の名前通りに七夕のお祭りが盛んで、
境内にはその日の賑わいを伝える資料が展示してありました。
獅子舞にも七夕飾りが!ふふふ。可愛い。

棚機神社から七夕神社へ
扁額に書かれていたもう一つの名前が「棚機神社」でした。
今回はそれについて考えてみます。

「棚機」も「七夕」もタナバタと読むので、
織物が盛んな時代に娘たちが技能上達を願って「棚機さま」に参拝していたのが、
いつのまにか7月7日の「七夕さま」となりました。

娘たちは「早く一人前になれますように」と祈りながら、
「私にも彦星が現れますように」とも願った事でしょう。
普段は家に閉じこもっている娘たちが姿を見せる日だから、
若衆たちも参拝のふりをして、嫁探しに遠くからでも集まって来る。
神社への道は列をなしたというのもよく分かるなあ。

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                  (神社の横の公園)
宝満川を挟んで彦星に相当する牽牛社もありました。稲吉老松神社と言います。

風土記の媛社
さて、この里で織物が盛んになった理由が
「肥前国風土記」にまでさかのぼる事が出来ました。
そこには四つ目の神社の名前、媛社(ひめこそ)について書かれていました。

「肥前国風土記」を書き写しましょう。
基肆郡(きのこおり)媛社の郷
この郷の中に川がある。名を山道(やまぢ)川という。その源は郡の北の山から出て、南に流れて御井の大川と出会っている。

昔、この川の西に荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分、死を逃れる者が半分という具合であった。そこでこの神がどうして祟るのかそのわけを占って尋ねると、その卜占のしめすところでは、「筑前の国宗像の郡の人珂是古(かぜこ)にわが社を祭らせよ。もしこの願いがかなえられたら凶暴な心はおこすまい。」とあった。

そこで珂是古という人を探し出して神の社を祭らせると、珂是古はやがて幡(凧)を手に捧げもって祈り、
「まごころから私の祭祀を必要とされているのなら、この幡は風のまにまに飛んで行って、私を求めている神のもとに落ちよ」といい、そこでただちに幡を高くあげて風のまにまに放してやった。するとその幡は飛んで行き、御原の郡の媛社の杜に落ち、ふたたび飛んで還って来て、この山道川の付近の田の村に落ちた。

珂是古はこれによっておのずから荒ぶる神の(本居とこの郷での)おいでになる場所を知った。その夜の夢に、臥機(くつびき)と絡垜(たたり)が舞をしながら出て来て珂是古を押えてうなされた。そこでまたこの荒ぶる神が女神であると知り、さっそく社を建てて祭った。それから後には路行く人も殺されなくなった。
そういうわけで、杜を姫社といい、いまは郷の名となった。
(吉野裕訳)

この話、どこかで聞いたことがあるなと思った人も多いでしょう。
何となく分かるけど、よく分からない話です。

二つのヒメコソ神社
くじらさんがヒメコソ神社は二つあり、鳥栖市にはカセコ山という所があり、
姫方という所には七夕屋敷という字名があると教えてくれました。
なるほど、土地勘がないとこの話はよく分からないのですね。
先に地図を見てみましょう。

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珂是古が姫古曾神社の所から「幡」(たこ)を飛ばしたら
媛社神社まで飛んで行って落下し、再び姫古曾神社に戻って来たと言う事です。
それで、二つのヒメコソ神社が出来たんだ…。

七夕屋敷跡は今はインターチェンジの中ですって。
謎の屋敷跡か。ここもいつか調べたいな。

さて、この風土記の話から推測したのは、
媛社神が最先端の織物技術が欲しくて、宗像から珂是古を招いた話が
背景にあるのではないかという事です。
珂是古は宗像に住んでいた祭祀をする人であり、
機織りの技術者を連れて来れる立場にあった人ではないか。

宗像国の織物事情
珂是古って宗像のどこに居たのだろうと思って、
先月、福津市の縫殿神社の方に出かけました。

そこで分かったのは、応神天皇が望んだ呉の織り姫が4人渡来してきた時に、
一人だけ宗像の神の依頼で福津市に留まったと言う事でした。

この織姫は神社の神として祀られ、前方後円墳の上にも祀られているのを知りました。
この縫殿神社にはもう一つ伝承があって、
神功皇后の時、ここで船の帆を織らせたという話も伝わっていました。

織物の話について、他にも無いかなって探すと、
宗像市の織幡神社では神功皇后の時に
傍の波津(はつ)で幟を織らせた話がありました。

これらの事から、宗像には早くから織物の技術者がいたのが分かります。
珂是古も津屋崎古墳群あたりに住んでいたのかも知れないなあ。

かつては宗像国もこちらの御原国も高度な織物技術があったのが、
宗像国の方が中国や韓から最先端の技術やデザインが入ってくるので、
媛社神がその技術者をどうしても欲しがって無理を言って珂是古を招いた。
そんな話が風土記の物語の源流にあるのではないでしょうか。

弥生から古墳時代にかけての織物文化を伝える興味深い伝承です。

宗像国と御原国のつながり
面白いことに、宗像市の織幡神社の主祭神は竹内宿禰です。
竹内宿禰と言えば、小郡市の竈門神社が彼のの陵墓と伝えられていました。
どちらにも竹内宿禰の伝承が濃厚にあります。

「宗像国と御原国」は珂是古だけでなく、竹内宿禰でも繋がっていました。
地名にも「ニタ」とか「用山」とか共通するものが見つかりました。
(「用山」を「もちやま」と読むのが分かるのは宗像と小郡の人ぐらい?)
これらには両国が深い関係を持っている事を示唆しています。

媛社神(ひめこそのかみ)は高木の神の娘?
珂是古を招いた媛社神は女神でした。
娘たちはこの女神に感謝して祈っていたのが、時代とともに
七夕さまの織姫さまにすり替わって行きました。

そして、この女神の名は万幡豊秋津師姫(よろずはたとよあきつし姫
=??幡千千姫万幡姫・たくはた…)だという説がありました。
「機織り」に関わる名前から言われているのでしょうか。

そうだとするとこの神社には子と母が一緒に祀られている事になります。
(磐船神社がニギハヤヒ命。棚機神社が万幡豊秋津師姫)

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万幡豊秋津師姫の父・高木の神は隼鷹神社に祀られていましたね。

高良山から高木の神が追い出されたという「神の交代劇」は
それだけでは終わっていないような、気になる神社の配置です。

宗像市 織幡神社
福津市 縫殿神社


小郡市 隼鷹神社
小郡市 玉母宮竈門神社

地図 織幡神社 縫殿神社 媛社神社(七夕神社)





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by lunabura | 2011-07-02 16:51 | ヒメコソ神社・小郡 | Trackback | Comments(13)

媛社神社(七夕神社)(1)ニギハヤヒを祀っていた?


媛社神社(七夕神社)(1)

ひめこそじんじゃ・たなばたじんじゃ
福岡県小郡市大崎
四つの名前を持つ神社
ニギハヤヒ命を祀っていた?

二つのヒメコソ神社
ヒメコソ神社という神社が近くに二つあります。
小郡市の媛社神社と鳥栖市の姫古曾神社です。どちらもヒメコソです。
今回は小郡市の媛社神社に行きました。

この媛社神社は前回の隼鷹神社から6キロほど宝満川を下った所にあります。

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この神社も水田の中の集落の中のこんもりとした杜を探せば辿りつけます。
石段は正面の数段だけですが、周囲より少し高い所に立つ点では、
これまでの4つの神社とよく似ていました。

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藤棚を右に見ながら参道を進むと、広くて明るい境内に出ました。

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拝殿です。御祭神は媛社神織姫神です。
この神社は地元では七夕神社と呼ばれて人々に慕われています。

歴史
由来を伝える資料がいくつか展示してあったので、それを時代順に並べてみました。
縄文時代 5000年前の遺跡で炉の跡が出土した。
弥生時代 各所に集落が出来る。県道原田駅大崎線(七夕通り)を建設する際には、
       字中ノ前でまつりの跡が発見された。水田が広がる。
奈良時代 1300年前。田畑を区切って耕地を整理した条理の跡が出る。
平安時代 ここを含めた筑後の国の献上品は米と織物だった。(延喜式)
天文3年(1534)三原郡大崎村という名前が初めて文字資料に出てくる。
明治17年(1884)戸数60、人口314
平成22年 戸数538、人口1465

弥生時代から祭りがあってたんですね。
平安時代には米と織物を献上していたので、織物がさかんだったのが分かります。
明治時代には人口が314人とは!わずか60軒でこの神社を支えていたのでしょうか。
昔の人はエネルギーがあったんだなァ。

この小郡市は考古学的な発掘が盛んで、
神社でこのように古代からの歴史が学べるのはさすがですね。

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こんな弥生土器の出土物まで展示してありましたよ!
本物が伝える力ってパワフルですよね。

四つの名前
今回はこの神社の扁額に注目しました。

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一の鳥居には金色で「媛社神社」と書かれ、

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二の鳥居には「磐船神社・棚機神社」と書かれています。
通称の「七夕神社」を加えると四つの名前がある事になります。
長い歴史の変遷を思わせます。
今日はその中の磐船神社について考えてみます。

磐船神社(いわふね)
磐船神社といえば大阪の磐船神社が有名ですが、ニギハヤヒを祀る物部氏の神社です。
ここ小郡市も物部氏の里です。
ですから大阪と同様にニギハヤヒ命が祀られている可能性があります。

この地域のかつての地名「三原郡」は「御原郡」とも書かれていて、
「御原郡衙」(みはらぐんがー役所)がすぐそばにあります。
遺跡群から、邪馬台国の時代にはここには「御原国」があったと考えられています。
前回の隼鷹神社の北の三国の鼻から宝満川沿いに下って来て、
この大崎の遺跡などまでが御原国の勢力範囲の中心で、
御原国全体の拠点集落は大板井だという事です。(参考 小郡市史)
飛鳥と言う地名もすぐそばにあったし、昔から重要なクニだった事が分かりました。

時代が下がって鎌倉時代になると、御原国には武士団・三原氏がいて、
筑後武士団のリーダー的存在でした。
彼らは太宰府官人の大蔵氏の一族で、刀伊の入寇の時にも活躍しました。

宝満川のそばにある端間(はたま)という地点は水運の連結点で、
その上流では帆かけ舟を使い、下流では潮汐を利用して運行していたそうです。
(参考 『宗像大宮司と日宋貿易』 服部英雄)

この精鋭武士団がこの地で形成されたのは、
物部氏という「もののふ」の中心地だったからとなりますが、
御勢大霊石神社や隼鷹神社の歴史を知ると、精神的な背景として
仲哀天皇の時代にむざむざと天皇を戦死させてしまった屈辱的な事件が
武士団としての精鋭化に駆り立てたのではないかと思いました。

彼らは「もののふ」であり、「もののけ」の神を祀る氏族でもあったので、
ここに物部氏の祖であるニギハヤヒを祀り、磐船神社と名付けたのではないか
と考えました。
宮司さんもこの神社はもともとニギハヤヒを祀ったはずだと言われているそうです。
その痕跡は祭祀の形に何か残っているかもしれませんね。

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(古事記の系図ではニギハヤヒは物部の祖となっています。)

そんな物部氏の神社と棚機神社が対等に書かれている理由は何でしょうか。
次回は棚機神社について見て行きましょう。

隼鷹神社
御勢大霊石神社
飛鳥

地図 隼鷹神社 媛社神社 大板井 飛鳥





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by lunabura | 2011-06-29 22:06 | ヒメコソ神社・小郡 | Trackback | Comments(2)
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