ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

カテゴリ:神社(オ)( 6 )

大歳神社 豊玉姫幻想


大歳神社

豊玉姫幻想

熊本県宇土市網津町馬門(まかど)


初めての宇土半島の旅。
海が左に見えたり、右に見えたりして
どこをどう走っているのか、方角が分からなくなりました。

車が橋を渡った時、川下が何となく海に繋がる陽光を帯びていて、
海に近い所に出て来たのが分かりました。
降り立つと、人の営みのある山里の光景。
いよいよ阿蘇ピンク石の採掘現場へ向かいます。

c0222861_09236.jpg


道は舗装されて緩やかな登りになっていました。
そして、右側の巨木に目を奪われました。

c0222861_09417.jpg

「歳の神のクス」と言って、幹まわりが14メートルもあるそうです。

c0222861_0224861.jpg

反対側に廻り込むと、その長寿ぶりに驚かされます。
中は空洞になっていて、これまで逍遥した
神功皇后関連の宮にある古いクスノキを思い出しました。

宇美八幡宮でも、忌宮神社でも。
風浪宮でも、松峡八幡宮でも、
千年以上たったクスノキは、こうして洞になっていました。

九州の古き宮々とクスノキが切っても切り離せないのは、
それが船の建材になるからです。

真鍋大覚は、
クスノキが空洞になりやすい性質を利用して古代の人は船にしたと言います。
だから、クスノキは海人族たちにとって聖地のしるしではないかと
考えるようになりました。

まさか、ここでクスノキに会えるとは。
クスノキを見ると胸キュンなのです。

今、この写真を見ると
右の枝の穴が亀の目のように見えて来ましたよ。

c0222861_0101559.jpg

一の鳥居に廻り込みました。石の鳥居がピンクです。

c0222861_0103653.jpg

ほら、これが馬門の阿蘇ピンク石。
棺だけでなく、聖なる鳥居にも用いられていました。

9万年前の阿蘇山の火砕流で出来た石らしいです。
その火砕流は福岡県の那珂川町にまでも届き、
安徳台という台地をも作ったのを思い出します。

c0222861_011352.jpg

扁額には大歳神社と書かれています。
額が装飾されていて、珍しいです。

c0222861_0121064.jpg

拝殿と境内です。境内の奥がぐっと下がっているのが、
古代の海岸線だと思われます。

c0222861_0122845.jpg

そして神祠です。

祭神は古川清久氏の調査によると、
「祭神は大歳神とされ農業神のようですが、併せて石作神豊玉姫が祭られています。」
ということです。

さらに、
「この馬門の大歳神社は住吉神社の宮司が兼務されておられますが、
お話によると『異形のお楠が祭神だったのではないか』との事でした。」
とありました。

有明海・諫早湾干拓リポート 「馬門」
http://ambiente.la.coocan.jp/ss0242/03/03_01/ss0242_3_01.htm


あのクスノキが御神体の時代があったのかも知れません。
そして人々の生業の変化とともに、祭神の変遷もあったのでしょう。
石作神はピンク石を切り出す人々の神。

当然ながら大歳神も祀っているのでしょうが、
大歳神を調べても、よく分かりませんでした。

るな的には
大歳神の兄弟神がウカノミタマと聞いて、
これは「隕石と暦」のシンボルだと思ったのですが。

ウカノミタマは稲荷神社に祭られますが、
お稲荷さんは「玉」と「巻物」を口にくわえています。
これが、「隕鉄」と「暦」のシンボルです。
そうすると、物部氏のシンボルともなります。

大歳神が「暦」の神だとすると、農業の神に発展して行きます。

古川氏の論文では、
大歳神をニギハヤヒとして論を進めてありました。
これでも、やはり物部氏の神となります。

もう一柱の神は豊玉姫です。

あれ?

ニギハヤヒ豊玉姫

またシンクロニシティだ。

今、志式神社の手直しをしているのですが、
その祭神の中に火明神(ニギハヤヒ)と豊玉姫が祀られているのです。

この宮の神々は「荒ぶる神」として祀られています。
それを神功皇后が神楽で御慰めしました。
七日七晩も。

そして一つの謎が生まれました。
それは、神功皇后が安曇磯良を説得するために
志賀海神社でも舞っているのです。
どっちが本当だろうか。
それとも両方で舞ったのか。

志賀海神社は現在の場所ではありません。
当時は志賀島の北端にありました。
勝馬海水浴場で知られる浜の右側です。
大戸小戸と言われ、神遊瀬と呼ばれ、イザナギ神が禊をしたと伝える浜です。

舞の話が二か所でどうして伝わっているのだろうか。
その謎にぶち当たっていました。

そこで、こうして気分を変えて馬門の大歳神社の記事を書き始めて、
「ニギハヤヒと豊玉姫」という共通の神が祀られていることを知ったのです。
この共時性に思いを巡らすうちに、自分なりの答えが出ました。

豊玉姫。
天上にあっては、北極星のない時代に、妹の玉依姫と共に
ポラリスとツバーンとして、海人族たちの守護神となっていました。

地上に在っては干珠満珠として、息長足姫(神功皇后)を援けました。

海の神の秘宝、干珠と満珠。それが豊玉姫と玉依姫。

豊玉姫は海神の娘。
哀しき姫神。
子供を生んで海神の宮に戻らねばならなかった。
祭りの日だけ亀となり、鮭となって子に会いに行く事が許された女神。

そしてその哀しみを受け継ぐ安曇磯良。

安曇磯良は白い布で顔を覆って出て来る神。
醜さを隠していると言われていたが、それは偽りで
本当はシリウスのまばゆい輝きを象徴した姿だった。

海の民は夜空の星々こそ我らを導く神々だと敬愛した。

神功皇后は安曇族の援助が無くては玄界灘を渡れない。
なかなか姿を現さない安曇磯良について、
私は皇后軍の戦いに興味が無かったのだろうと思っていたが、
そうではなかった。

荒ぶる神となったニギハヤヒと豊玉姫の事情を深く知っていたのだ。
その原因は神功皇后の祖先によるものだった。

だから志賀海神社の元宮まで出掛けて行った皇后の依頼を
おいそれと受け入れられなかったのだ。

しかし奈多の浜で七日七晩、荒ぶる神々に奉仕する皇后を見て、
ようやく磯良の心が融解した。
あの静かな渚で心を込めて奏でられた楽曲は波を越えて、
どこまでも鳴り響いただろう。
音楽の好きな安曇磯良はついに心を開いた。

そんな答えが生まれました。

新羅からの帰路に、磯良の船は十域別王(ときわけおう)たちを送って
西海を通って行ったと推論しています。

その航路をさらに南下するとこの馬門に着くのです。

ここから積み出された石棺を近畿に届ける船乗りに安曇族が加わっていた事でしょう。
瀬戸内海は住吉族たちの庭。
この二つの海人族はあの神功皇后の新羅戦の時に、
深く結ばれていたのでした。

しかし板底一枚。その下は地獄。
男たちは何としてもやり遂げて、生還しなくてはならなかった。

そんな船乗りたちは、この古代の湊で祈ったのでしょう。
われらが守護神 豊玉姫 守り給えと。

馬門



前回
王たちのピンクの石棺と古代船・海王 熊本県 宇土マリーナ
http://lunabura.exblog.jp/18822763





ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2013-02-11 00:27 | 神社(オ) | Trackback | Comments(0)

岡田宮・神武天皇とタカミムスビ神と熊鰐

岡田宮
北九州市八幡西区岡田町
神武天皇とタカミムスビ神と熊鰐

岡田宮はJR黒崎駅から600mほど南に下った所にあります。
近くの地名が熊手・熊西などなど。これは熊族に関わる地名なのだろうか。
日本書紀などに出て来る岡田宮はここなのだろうか。
行ったら分かるのだろうか。そんな思いで宮を訪れました。

c0222861_139175.jpg

一の鳥居はビルの間ですが、駐車場は左の方から廻り込むとありました。

c0222861_1392438.jpg

一の鳥居から歩くと、すぐに参道が二手に分かれますが、どちらもOKです。

c0222861_1394158.jpg

緑の多い境内を歩いていくと神門前に出ました。

c0222861_1395348.jpg

拝殿です。御祭神は
中殿(岡田宮)神日本磐余彦命[神武天皇](カムヤマトイワレヒコノミコト)
右殿(熊手宮)大国主命(オオクニヌシノミコト)
          少彦名命(スクナヒコナノミコト)
          県主熊鰐命(アガタヌシクマワニノミコト)
左殿(八所宮)高皇産霊神(タカミムスビノカミ)
          神皇産霊神(カミムスビノカミ)
          玉留産霊神(タマツメムスビノカミ)
          生産霊神(イクムスビノカミ)
          足産霊神(タルムスビノカミ)
          大宮売神(オオミヤノメノカミ)
          事代主神(コトシロヌシノカミ)
          御膳神(ミケツカミ)

岡田宮、熊手宮、八所宮と、三つの宮が祀られていました。
まずは中殿の岡田宮、神武天皇について見てみましょう。

中殿(岡田宮)
岡田宮と言えば、記紀の神武天皇の巻に出て来るあの岡田宮でしょうか。
古事記と日本書紀の該当の部分を読んでみましょう。(るな訳)
古事記
イハレビコの命は同じ母から生まれた兄のイツセの命とお二人で、高千穂の宮で話し合いました。
「どこに行ったら、平らかに天の下にあるこの国の政治をして、臣下たちの奏上する話が聞けるだろうか。やはり、東に行こう。」と言われて、日向を発って、筑紫に行きました。
そこで、豊の国の宇佐に着いたとき、その国の人で、名前はウサツヒコ、ウサツヒメの二人が足一騰宮(あしひとつあがりの宮)を造って、たいそうもてなしました。

そこから移動して筑紫の岡田の宮に一年滞在しました。またその国より、上って、安芸の国の多祁理(たけり)の宮に七年間滞在しました。さらにまた上って、吉備の国の高島の宮に八年間滞在しました。

日本書紀
11月9日に天皇は筑紫国の岡水門に到着された
12月27日に安芸国に着いて埃宮(えのみや)で過ごされた。

古事記では「岡田の宮」、日本書紀では「岡の水門(みなと)」となっていました。
まさにこの宮は該当の宮なのか?
社務所で尋ねて見ました。すると思いがけず、
「この宮は江戸時代にここに遷宮したもので、神武天皇が祀った所は一宮神社ですよ。」と教えられました。それを示す由緒書きがこれです。
慶長10年(1605年)、黒崎城築城の際に筑前六宿の起点となりて、現在地に御遷座され、福岡藩祈祷社・黒崎宿の産土神と定めらる。

元の場所が分からず、さらに電話で尋ました。
すると現在の熊西2丁目の電停近くで、岡田宮跡の石碑もあるとの事でした。
古事記に書かれた場所が残っている!!
それは驚きでした。

そこで場所を伺って、日を改めて一宮神社にも参拝しました。その参拝記は
「一宮神社・神武天皇の磐境神籬・岡田宮あと」
http://lunabura.exblog.jp/17333319/

に書いています。神武天皇が祀った盤境神籬をそのまま見ることが出来ましたよ!
それから800年経って仲哀天皇と神功皇后がその盤境神籬に参拝した訳ですね。

左殿(八所宮)
この八所宮には神武天皇が祀った神々の名が伝えられていました。
元は八幡西区区役所の公園あたりにあったそうです。
     高皇産霊神(タカミムスビノカミ)    神皇産霊神(カミムスビノカミ)
     玉留産霊神(タマツメムスビノカミ)  生産霊神(イクムスビノカミ)
     足産霊神(タルムスビノカミ)      大宮売神(オオミヤノメノカミ)
     事代主神(コトシロヌシノカミ)     御膳神(ミケツカミ)
この八神は皇居でも祀られている神々だそうです。
大変興味深い祭神の組み合わせですが、
今回は第一の神の高皇産霊神(タカミムスビ神)に注目しましょう。

タカミムスビの神
「タカミムスビの神と神武天皇との関わり」が古事記に書かれています。
(タカミムスビ神=高木神)
イワレビコの命が熊野の村に着いた時に大きな熊がほのかに、ふっと出て来て、そのまま消えてしまいました。すると、イワレビコの命は急に疲れてしまい、また率いていた軍勢も皆疲れて倒れてしまいました。

この時、熊野の高倉下(たかくらじ)という者が、一振りの太刀を持って、天つ神の御子が倒れている所にやって来て、その太刀を献上しました。

すると、イワレビコの命はすぐに目が覚めて起き上がり、「長く寝たなあ。」と言われました。そして、その太刀を受け取ると、その熊野の山の荒ぶる神はひとりでに皆切り倒されました。すると惑わされて倒れていた軍勢も、みな目が覚めて起きました。

そこで、イワレビコの命が高倉下に、その太刀を手に入れた事情を尋ねると、高倉下は、こう答えました。
「こんな夢を見ました。天照大御神と高木の神の二柱の神が建御雷の神を召して、言われました。『葦原の中つ国はひどく騒いでいるようだ。我が御子たちが病んでいるらしい。その葦原の中つ国は、そもそもそなたが平定した国である。だから、そなた建御雷の神が天降りしなさい。』と。

そこでお答えになったのが、『私めが天降りしなくても、その国を平定した太刀が有るので、その太刀を下ろすのがよろしいでしょう。』と。(この太刀の名は佐士布都(さじふつの)神と言い、またの名は甕布都主(みかふつぬし)と言い、またの名は布都御魂(ふつみたま)と言う。この刀は石上神宮にある。)

そして、私にお告げになったのです。
『この刀を降ろす方法だが、高倉下よ、お前の家の倉の屋根に穴を開けて、そこから落とし入れる。だから、縁起をかついで、朝、目を覚ました時に、一番最初に目に入るようにして、天つ神の御子に奉りなさい。』と。

朝、目が覚めて、夢で教えられた通りに倉を見ると、本当に太刀がありました。だから、その太刀を持って献上しに参りました。」と高倉下は申し上げました。さらに付け加えて言いました。

「その時、また、高木の神が教え諭された事には、『天つ神の御子を、これより奥の方には、入らせないようにしなさい。荒ぶる神がとても多い。今、天から八咫烏(ヤタガラス)を遣わす。その八咫烏が道案内をするであろう。それが飛び立った後から、行軍されるように。』との事です。」

タカミムスビの神が高倉下(たかくらじ)を通して太刀(フツの御魂―石上神社蔵)と八咫烏を神武天皇に授ける内容です。

高天原の経営はアマテラス一人でなく、このタカミムスビの神がリードしています。
そしてこの八所宮の八神を見ると、アマテラスが入っていず、
第一神がタカミムスビの神となっています。これは大変興味深いですね。
(高良玉垂宮では山頂には、もともと高木の神が祀られていたのが麓に下りていますョ。⇒高樹神社)

夢のお告げを受けた高倉下については、
奥野正男氏が高倉神社と関わりがあるのではないかと論じています。
高倉下が物部氏だとすると、フツの御魂という神剣が石上神社に祀られる事にも上手く繋がって行きます。

高倉神社もまた岡の水門にあり、熊鰐とは川を挟んで協力し合っている様子が
これまでの逍遥で見えていました。

記紀に書かれている岡田宮は今も変わらず祀られていました。
熊野の村は紀伊半島でなく、この洞海湾での話の可能性はないか。そんな思いも最近はしています。

c0222861_1317298.jpg

(境内)

右殿(熊手宮)
熊手宮にはあの熊鰐が祀られていました。
神功皇后に援助を惜しまなかったその人柄の魅かれて、
私は熊族をもっと知りたいと思うようになったのですが、
この宮の由緒書きを見ていて、その冒頭に大きな情報があった事に気づきました。

岡田宮略記(HPより)
当宮は古代、崗地方(旧遠賀郡)を治めていた熊族が洞海・菊竹浜(貞元)に祖先神を奉斎した地主神にて、岡田の宮と称し、この地を熊手と号す。

神武天皇日向国より東征の途次、当宮に詣り、天神地祇の八神(八所神)を奉斎し、この地に留まり給う由「古事記」にあり。

仲哀天皇8年(199年)、神功皇后、三韓征討の折、崗県主祖・熊鰐の案内で熊手出岬(皇后崎)に到り、当宮に詣り、八所神を親祭する由「日本書紀」にあり、これを岡田の三宮と称し「天」「地」「人」の三才を表す。

熊手宮は熊族が祖先神を奉斎した宮で、やはり一宮神社の所にあったそうです。
そこで地主神(じしゅしん)を祀っていました。
右殿(熊手宮)
大国主命(オオクニヌシノミコト)
少彦名命(スクナヒコナノミコト)
県主熊鰐命(アガタヌシクマワニノミコト)

これは…。
熊族は大国主命と少彦名命を祀っていた事になります。
あの熊鰐さんは出雲の神々を祀っていた?祖神は出雲神?

そんな疑問が起こったので、神社にお尋ねすると、
「はっきりとした社伝は伝わっていません。
二神が熊族の直接の守護神と結びつくかどうかは定かではなく、
当時、出雲から勧請されたのが祀られているのではないでしょうか。」
という内容のお答えでした。

それでも熊族と出雲の神々とは深い関わりがあるのがこれで分かりました。
宗像の姫神たちとも結ばれた大国主です。この洞海湾を必ず通ったはず。
これからも逍遥を重ねて行くと、
古代出雲のさらに原型となる姿が浮き彫りになるかも知れませんね。

さらにブログ名が「八咫烏の声」という事でその由来もお尋ねしました。
神武天皇を援けた二羽の鳥が「八咫烏と金の鳶(とび)」。
神の使いとして社殿の幡にも、この二羽が描かれていて、それから採ったという事でした。

c0222861_13182279.jpg

さて、拝殿の神額は貝原益軒が奉納したものだそうです。
筑前国続風土記でいつもお世話になってま~す。
益軒さんもこの宮をとても大切に思ったのですね。

c0222861_13183916.jpg

境内のイチョウ。
随分前に参拝した神社ですが直接話が聞けてよかったです。
いろいろとありがとうございました。

地図 岡田宮 一宮神社







ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-04-27 13:23 | 神社(オ) | Trackback | Comments(15)

大元稲荷神社と造化宮・物部胆咋と皇后の木材調達


大元稲荷神社と造化宮
北九州市小倉南区徳力
徳力の語源は「採り木」から
物部胆咋たちは木を伐採した
 

今回はタイトルに困りました。
探しているのは「西伏見稲荷神社」だったのですが、
そこにあったのは「大元稲荷と造化宮」だったからです。

小倉の「徳力(とくりき)」という地名は「採り木」から派生したそうです。
誰が木を採ったのかというと、神功皇后物部胆咋です。
物部胆咋(もののべのいくひ=膽咋)が護衛の阿部高麿助麿兄弟を
連れて皇后と共にやって来たといいます。
阿部の高麿と助麿は、その後、下関市の忌宮で戦死した人です。

何のために木を採りに来たのかと言うと、造船のためです。
木を伐採した話は北九州市から山口県まで各地に残っていました。
徳力はその中の一つです。

神功皇后と物部胆咋と阿倍高麿と助麿。
この顔ぶれがそのまま祭神として「宮司武神社」に祀られていると知って、
取材に行く事にしました。

しかし「宮司武神社」は貴布禰神社(水の神系)の中に祀られていたのが、
秋葉神社(火の神系)に合祀され、
その秋葉神社も西伏見稲荷神社と改称したということで、社号は消滅していました。

地図を見比べて、秋葉神社の名を小倉南区徳力5丁目に見つけたので、
出掛けて行って現地の地形を確認する事にしました。

行ってみると、いつのまにか神理教の境内に紛れ込んでしまいました。
ですから、今回は行った通りに順を追ってそのまま紹介する事にします。

もう日が暮れかかっていました。
現場に近づくと、すぐそばに高架道路が出来ていて、
ぐるぐると同じ所を廻ってしまって辿りつけません。

道の反対から目的地を見ると墓場があって、その中に鳥居が見えました。
探してもそれ以外に見当たらないので廻り込んで近づくと、
車道は狭く、途中からは人道になってしまい、車も止められませんでした。

稲荷なら小高い所にあるはずだからと考えて、山の反対側からアプローチすることにしました。
すると、とても大きな神社の敷地内に出てしまいました。
神理教と書いてあります。

そして目的の山を見ると稲荷の赤い鳥居がずらりと並んでいました。
あった。あった。
喜んで車を降りて扁額を見ると「大元稲荷神社」となっています。
名前は違うけどこの山に違いない。

c0222861_1740347.jpg

上り始めると、分かれ道がいくつも出て来てます。
どこかで合流するんだろうと適当に登って行くと、あれ?稲荷ではない。

c0222861_17405981.jpg

小峯のピークにあるのは「造化宮」という神社でした。
神紋は16弁の菊花?(正しくは日月五星紋)

由緒書きがあったので、読んで驚きました。(一部変更)
造化宮
造化宮は饒速日(にぎはやひ)命の12代物部伊美岐履中天皇の詔をうけて全国の疫病を平癒し、九州に下りこの地に神籬を建て、天在諸神を祀り、万民安全を祈念され信仰の大元を定められたと伝えられる。

雄略天皇の病を平癒した16代物部足奇はその功により天皇より巫部(かんなぎ)の姓と日月五星の御紋章を賜り、この地に居をおく。これが豊国巫部の始めであり、本教の発祥である。

以来、幾多の変遷があったが77代教祖経彦命本教を興すに際し、新たに社殿を設け本教の奥の宮として奉斎する。
祭神は造化三神を中心に天在諸神18柱を祀る。神理教本院
ここは物部氏の神社でした。ニギハヤヒから12代と具体的に書かれています。
履中天皇はwikiでは336年~405年。仁徳天皇の御子です。
この時代に物部の伊美岐がここに神籬を建てて祭祀したのが始まりでした。

物部氏が祭祀した場所だ。ここはもしかして企救(菊)物部の地?
ここは昔は企救郡(きくのこおり)のようなのです。

この縁起では物部伊美岐が初めて下って来たように受け取れますが、
そうではなく、ここはもともと企救物部氏の拠点であって、
伊美岐が先祖の地に戻ってきて、改めて造化の神々を祭祀したのではないかと思いました。

というのは、最初に書いたように、
神功皇后が徳力に来た時、物部胆咋が一緒に行動しているからです。
目的は先ほど書いたように造船のための木材伐採でした。
胆咋が自分の所領地を案内した可能性があるのではないかと思いました。

「木を伐採する」という事で思い出した事があります。

話はそれますが、久留米市の高良大社の「高良の神は
年に一度山の木を数える」という不思議な伝承の事です。
物部胆咋は高良下宮社の祭神になっています。

これまでの私の推論をまとめると、
謎の「高良玉垂神」とは「安曇の磯良と、その祖たる豊玉彦」であり、
「高良の神」とは「竹内宿禰」だと考えるようになりました。
(高良玉垂神と高良の神は別の神)

それから安曇の磯良が去り、竹内宿禰が去ったあと、
「物部胆咋」が高良山一帯を治めるようになったのではないかと推論しています。

胆咋と木材調達の伝承は他にもありました。
だから胆咋(いくひ)と高良山の「木を数える神」と繋がるかもしれない。
と思ったのです。
(ローカルでマニアックな話で済みません。これについては別項で改めて書きたいと思います。)

話を戻しましょう。

とにかく物部氏の名がここに出て来て、仰天しました。
赤い鳥居の上にある造化宮に面食らって、さらに他の道を辿ってみると、
ついに稲荷社に出ました。

c0222861_17445218.jpg

見回すと視界は利かないけれど、もう一つの小ピークの上のようです。
最初に探していた西伏見稲荷神社へと下る道がないかと探しましたが、見つかりませんでした。
しかし、位置関係からすると、ここが元宮に違いないと思いました。

「稲荷=鉄器そして小峯のピーク」という「武器製作と保管庫のセオリー」
通りの社でした。(るなの勝手なセオリーですが)
ここは物部氏の武器庫だったのだろうと思いました。

そして、胆咋は神功皇后に武器の準備のようすを示すためにここに案内した。
これが本筋だと考えました。

由緒書きがありました。
大元稲荷神社
当社は古来豊国巫部家の邸内に鎮祭されたものでその勧請年代は定かでない。
文化年間(1804~1815年)教祖の父右七経勝翁が巫部の守護神として祭祀するべく御神託をうけ伊勢外宮より御分霊を奉載した。これを社の中興とする。

教祖幼少のころ小倉藩国学者西田直養翁のもとへ通学の毎夜、絶えず前後を守護するように随行する白狐あり。その後、神理を究めんと行する教え子に数々の神助霊応が絶えず、昭和6年秋境内よりこの地に遷座する。

本教に奉仕する人々の守護神であり、かつ農工商の広きにわたって霊験著しい。昭和47年春改築する。  神理教本院
由来書きを読むと、江戸時代ごろには忘れ去られた聖地になっていたようです。
神理教の教祖によって新たな形で再び稲荷社が出来たのも神縁でしょうか。

写真を撮り終えた頃は暗くなってしまいましたが、
山を降りて来るとまだ明るいので、神理教の方にも廻ってみました。

c0222861_17465217.jpg

これが本院です。
ここにも由緒書きが。
神理教のあらまし
神理教は我が国の古代神道を復活された教派であり、高祖饒速日命天照大神より番民救済のため天璽十種(とくさ)の神宝を授かった時にはじまり、その子孫が代々神示、神術を伝えて、77代教祖巫部佐野経彦命によって祖逑大成されたものであります。
(後略)
ここは物部氏の古神道が再び世に出てきた教会のようです。

こうして、目的の西伏見稲荷神社が大元稲荷神社に変わったのかどうか
分からないまま、日が暮れて帰途に着きました。

神功皇后の伝承のガイドブックに取り上げるには曖昧だったので、掲載をあきらめたのですが、
造船した場所や材木を調達した場所などが明らかになるにつれて、
新羅攻撃の計画がすでにあった事を確信するようになりました。
日本書紀とは様相が違っています。

蛇足ですが
帆柱山で神功皇后の船の帆柱を伐採したというのは地元で有名な話でした。

地図 大元稲荷神社と造化宮と神理教



う~む。この地図を見ると、やはりすぐ南に徳力秋葉神社がありますね~。
ここまで記事を書いたから、書き直しはやめにしようっと。

どなたか行ったら教えて下さいね。



ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-01-24 17:59 | 神社(オ) | Trackback | Comments(0)

生立八幡神社・おいたつ・皇子が皇后の膝に手をかけて立ち上がった


生立八幡神社
おいたつ・はちまんじんじゃ
福岡県京都郡みやこ町犀川生立7
皇子が皇后の膝に手をかけて立ち上がった

位登八幡宮から生立八幡神社まで20キロとナビに出た。

車は東へ東へと山を越え、川を越えて行った。
古代の川越えは苦労しただろう。
下流は川幅が広いので、出来るだけ上流を歩いて渡った方が楽だ。
だから、古代の街道は思いがけないほど山の方にある。

ナビが途中で左に曲がれと指示するが、示された道路が狭くて
「まさかここで曲がる?」と思ううちに何度も曲がりそびれた。
山の中を走り続け、ついに開けた平野に出た。

c0222861_10575796.jpg

正面のこんもりとした杜の中に神社はありました。

神社の前の橋が赤かったので、すぐに分かりました。
こうして知らない町に行くと赤い橋が旅人の目印になっているのがよく分かります。
素直に嬉しいんだな、これが。

c0222861_10585070.jpg

平地に神社がありました。

c0222861_10592138.jpg

緑陰の中は別世界。

c0222861_10594041.jpg

拝殿が大きいです。ここはもう豊の国かな。

c0222861_110293.jpg

拝殿前に立つと八咫鏡に自分の姿が映し出されました。
神道って奥が深い。

c0222861_1101899.jpg

拝殿を斜めから。瀟洒なつくりです。

この宮が神功皇后の皇子が初めて立った所です。
福岡県神社誌を見てみましょう。

古老の言い伝えである。
息長足姫命(おきながたらしひめー神功皇后)が筑紫の蚊田で誉田(ほむた)皇子を生んで、翌春大和国へ行く時、仲哀天皇の別の后の二皇子が反逆を企てていると聞いて、
「穴門は早戸の狭い門である。どんな密謀があるか分からない」
と言って、豊の国のこの地にやって来て船路で出立しようとした。

その時、皇子が誰から貰ったのか、転がして遊んでいた美しい石があって、その石を持って母君の膝に手をかけて初めてお立ちになった。

母君はとても喜んで「もう生い立ったよ。」と言った事から、ここを生立(おいたつ)と言うようになった。
後に、三柱をお祭りする。これが神社の起源である。
また霊石を置いた所が二子大神である。(祭神は応神天皇、神功皇后、比賣大神)

初めて立ったんですね!という事は一歳になった頃かな?
きれいな石で遊んでいた皇子が、母君に見せたかったのでしょうか、
膝に手をかけて、そのまま立ち上がったんですね。
何と嬉しい瞬間でしょうか。
片手に石を持って、しっかりと両足で大地に立った。

今から船に乗ろうという時です。
お供の者たちの嬉しいどよめきの事が聞こえそうです。
皇子は一歩踏み出そうとしたけど倒れ込みそうなのを、
両の手でしっかりと抱きあげる神功皇后。
「立てるようになったね。」
と、皇子を抱き締めました。

皇子は12月生まれだから、
この時は再び木枯らしが吹き、雪が降る季節がやって来ていました。

c0222861_112272.jpg

これは目の前の川。
当時はもっと川幅が広かった事でしょう。真冬の冷たい風を受けながらの船旅です。

c0222861_1124092.jpg

境内の左手にある二児神社です。今でも石は残っているでしょうか。

神社の説明板にもう一つの伝承がありました。
この大楠はここ生立八幡宮の社叢中最大の樹木で、神社第一の「御神木」として長い歴史を誇ります。一説に樹齢約800年といい、町内でもトップクラスの長寿の古木です。それだけに、この木には次のような伝説や逸話が残されており、町を代表する巨樹・古木にふさわしい情報に満ちています。

その一つはこの木の由来に関するもので、当宮の祭神でもある神功皇后が三韓出兵から凱旋の途中この地に立ち寄り、軍船に貼りついて皇后軍を守った蜷貝(にながい)を自らこの楠に放し、木の守り神としたというものです。


c0222861_1134789.jpg

楠はこんなに大きくて、きらきらとしていました。
この軍船に貼りついていた蜷貝については、他の地方にも語り継がれています。
場所によって少しずつ話が変化します。何だか気になる貝です。
ここでは、こんな風に語られています。
以来、この木は神社第一の神木とされる一方、蜷貝(キセルガイ)は先の逸話と共に皇后自ら携えた霊験あらたかな貝として尊ばれ、とりわけ歯の痛みをとる「まじないの物実(ものざねー神さまの力が宿る事物)」として大切にされるようになりました。

へ~。歯の鎮痛剤なんだ。
昔は歯医者さんがいなかったから大変だったでしょうね。

地図 生立八幡神社






気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2011-08-22 11:11 | 神社(オ) | Trackback | Comments(0)

王子八幡宮・竈門神社・地名から推測された那国本宮の地・応神天皇出生地であり、玉依姫の陵墓なのか?


王子八幡宮・竈門神社
福岡県粕屋郡志免町南里宝満山
地名から推測された那国本宮の地
応神天皇出生地であり、玉依姫の陵墓なのか? 


福岡市の中央に福岡空港がありますが、その東には丘陵地帯があって、
現在は博多の森という総合運動公園があります。
その東に志免町があり、独立した岬のような場所に王子八幡宮があります。

c0222861_10411716.jpg

入り組んだ細い道を辿ると、こんもりとした杜の神社に着きました。
ここが王子八幡宮です。

c0222861_10433422.jpg

石段を二つ上って行きます。

c0222861_1044262.jpg

巨木が生い茂る中に神殿がありました。

c0222861_10442046.jpg

裏手のゆるやかな傾斜を登ると、筑紫野市の宝満山~三郡山が見えます。
全方向の見晴らしの良さから、ここは古代の重要拠点だというのがよくわかります。
いったいどんな歴史が埋もれているのでしょうか。
まず、「王子」とはいったい誰でしょうか。由緒書きがありました。
王子八幡宮
祭神 応神天皇
社格 村社 (略)
例祭日  歳旦祭 1月1日
      祈年祭2月26日
      早苗祭 7月10日前後
      例祭 10月17日
      新穀感謝祭 11月23日

王子とは応神天皇でした。すなわち神功皇后の御子です。
一般的にも八幡宮の祭神は応神天皇ですが、一柱だけというのは珍しいです。
ここに応神天皇が祀られている事が唐突なようですが、
神功皇后が辿った出産へ道中の伝承を残す、
若八幡宮~日守神社~駕輿丁八幡宮からさらに宇美八幡宮へと続く
ルート上にあるのです。(駕輿八幡宮は、籠かきの人たちの住居跡と推定)

地図 王子八幡宮 若八幡宮 日守神社 香椎宮 宇美八幡宮 駕輿丁八幡宮


このルートを地図上にプロットしながら、宇美八幡宮へと行くなら、
もっと奥の方まで船で行ったほうが楽だったのではないかという疑問が生じていました。
宇美八幡宮には、竹内宿禰たちの居城でもあったのだろうか…。
皇后の出産ですから、警護が十分な所でないといけません。

そして、一方で神功皇后が以前に玉依姫の陵墓に参拝した時に、
「姉となって、護りましょう。」
と玉依姫神の神託があったという話も頭から離れませんでした。

神功皇后は、天皇の代わりに倭国の軍勢を率いる重圧に耐えきれなくなると、
きっと玉依姫神の加護を祈った事でしょう。
宇美八幡宮へはあと一息という地点に、皇子が祀られている…。

ここは王子八幡宮ですが、「竈門神社、宝満宮」があって玉依姫が祀られていました。
上一宇造立 西海道筑前国粕屋郡南里村
御斎殿 寛永二十年2月上旬(西暦1643年)
末社 竈門神社 祭神 玉依姫命
    宝満宮     玉依姫命
疫神斎
倉稲魂命
五穀神        保食神


c0222861_10515574.jpg

摂社の右奥が竈門神社です。

c0222861_10521282.jpg

祠の中を見ると玉依姫の神像がありました。が、最近、火災に遭ったようです。

応神天皇と玉依姫が、どう関係あるのでしょうか。もう一つの由緒書きを見てみましょう。
村社 王子八幡宮  由緒
本社殿ははじめ南里字キンメイに鎮座されてあったが、大正11年4月17日、現在の日枝に鎮座の無格社竈門神社 境内に移転されたものである。(略)

続風土記付録
神殿一間四方 拝殿二間三間 産神なり
林中にあり、祭る所、応神天皇一座なり。鎮座の年や歴史は伝わっていない。
旧お宮の境内参道脇に元治元年(1864年)の銘がある石柱がある。当宮関係最古の物なり。境内に氏神御移転の碑あり。

この由緒から、ここはもともと竈門神社で玉依姫を祀っていたのが、
大正時代に王子八幡宮が移転されて合祀されたのが分かります。
鳥居の扁額には「宝満宮」と「王子八幡宮」の二種類がありますが、
地図帳を見ると王子八幡宮の名前の方が書かれていて、立場が入れ替わった事が読み取れます。

王子八幡宮の元宮があった「キンメイ」という場所は300mほど北側の
宇美川のほとりにあって、今でもその小字名が残っていました。現在は住宅が建っています。

聖洲さんはこの辺りの地名を調べて行くうちに、
かつてここに大きな建造物や祭殿や製鉄所を示す小字名が集まっている事に気づきました。例えば、

●「タタラ」「土穴」などの製鉄関係の地名がある。
●「鏡」という小字名の地からは鏡が7~8枚出土していた。
(昔の事で、これらは各神社へ奉納されたとか。)

●「大府」「マツリデン」「東の府」「南の府」「西の府」「タイコデン」
という都府や宮殿を示すような小字名がずらりと並んでいる。
●「宝満」「宝満山」という有名な宝満山と同じ字名がある。

●そして、「桝角(ますかど)」という字名の由来を調べてみて、
それが神殿などの屋根の下の飾りの構造物を示す事を知って、
ここに宮殿があった事を推定するに至りました。
●考古学的には、「仮屋」という小字の民家の地下から甕棺が発見され、
縄文式の土器やアレキサンドライト石などが出て来た。

アレキサンドライトは日本では採れないので、
遠い異国からもたらされた事が分かります。
これを所有するのは身分の高い人である事を示唆しています。(これらも、喪失)

聖洲さんは「仮屋」は「モガリ屋」で、墓所を示していると推測しました。
そして伝承を調べ、ここが那国の本拠地であり、宮殿があり、
那国の姫である玉依姫の墓所があった所ではないかと推定しました。

伝承には「南里の宝満宮に玉依姫の墓所がある」というものもあり、
この地こそ「南里」(みなみざと)なのです。

一方、私も同様に「玉依姫の墓所が『南里の宝満宮』にある」という伝承を知って、
宝満宮をいつか見つけたいと思っていました。
「筑紫野市の宝満宮」はすでに江戸時代から大捜索されていて、
そこには存在しないことが分かっていました。しかもそこは南里ではありません。

そうして、ついに「南里の宝満」を見つけていた人がいて、
玉依姫の陵墓を推定しているという話に辿りついたのです。

最初に聖洲さんは私に尋ねました。
「どうして、私の話を聞きたいと思われたのですか?」
「神功皇后は誰も知った人がいない筑紫で出産しようとした時、
唯一、心のよすがとなったのが玉依姫で、
せめてその墓所で護られて産みたいと思ったのではないかと考えたのです。」
「その通りです。」
初対面の時に、二人の意見は一致していました。

聖洲さんは、那国本宮の絵を描こうと思い立ち、
那国の離宮である名島神社で金箔の瓦が出土した事から、
本宮にも金箔の瓦が葺かれたと推定しました。
桝角のある建築物と言う事で、中国の技術者集団による建造ではないかと考え、
次のような那国の都を想定しました。

c0222861_10542893.jpg

黄色で描かれた地名が現代に残る小字名です。中央に那国の本宮があります。
手前に「マツリデン」があり、さらに手前に「大府」があります。
これが迎賓館です。その右手前に「タタラ」と「土穴」。
そして、その奥に王子社。「キンメイ」(金命)です。
この「金命」に神功皇后はやって来て、応神天皇を生みました。

それより数百年前に、玉依姫は子供たち(神武天皇ら)が東征したあと、
那国に残って、この宝満山に登って無事を祈り続けたそうです。
その麓の「仮屋」という所が玉依姫の陵墓で、堀で囲まれています。
この絵はあくまでも聖洲さんの想像ですが、弥生時代がどんな時代であったか、
多くの示唆を与えてくれます。

歴史からこの「宝満宮」の名前が消えた訳は、
天武天皇が、この小さな「南里の宝満」では畏れ多いので、
もっと壮大な山である「太宰府市の竈門山」を
「宝満山」に変えるよう、命ぜられたという事だそうです。
(名島神社宮司談)


宇美八幡宮の方が応神天皇の出生地として有名ですが、長い歴史の中で、
元宮の存在が忘れ去られてしまった可能性があるのではないかと思っています。
(元宮が忘れ去られたのは、これまでも何か所かありましたね。)

伝承によると、三韓征伐後、大矢田宿禰という人は現地(新羅・百済)に残って、
妻を娶り、三人の子が生まれました。
10年後に帰国し、神功皇后が南里で出産されたと聞いて、この地にやって来て、
ここで亡くなられたという話も残っているそうです。

この王子八幡宮の地名と伝承について、古代史研究の方々に
大いに注目していただいて、研究していただきたいなと思いました。
 



気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2011-06-02 11:00 | 神社(オ) | Trackback | Comments(4)

岡湊神社・おかみなと・岡水門は大倉主神と熊鰐と神功皇后の伝承の舞台だよ

岡湊神社
おかみなとじんじゃ
福岡県遠賀郡芦屋町船頭町
岡水門は大倉主神と
熊鰐と神功皇后の伝承の舞台だよ

国道三号線の遠賀川橋から、福岡側の岸部を海に向かって行きます。
川沿いを走ると神奈備山が次々と現れては消えていき、
古代の風景が残る道に高揚して来ます。
小さな橋を渡って集落に入ると、すぐ左に目指す岡湊神社はありました。

c0222861_16532851.jpg

神社の一の鳥居です。左の道路からやって来ました。
駐車場は向かって右の方に鋭角に曲がって行きます。
神社が海の方に向かって建てられているのがよく分かります。

c0222861_16541512.jpg

芦屋町船頭町という地名のように、この地は古代から海運で栄えた町で、
この大きな石燈籠「式日献燈」も、片方は「芦屋の陶器商人」が、
もう一つは「伊万里の陶器商人」が寄付したものだそうです。
佐賀の陶器がここから堺、江戸へと積み出されて行ったそうですよ。

c0222861_16545441.jpg

拝殿です。

c0222861_16553184.jpg

大変大きな拝殿です。昭和4年に町の大火災で焼失した後、再建されました。

御祭神は
大倉主命 菟夫羅媛命(ツブラひめ) 素戔嗚命(スサノオ)
天照皇大神 神武天皇

今日は御祭神について見て行きたいと思います。

大倉主命 菟夫羅媛命
この二柱は高倉神社を記憶している方はピンと来ると思います。
そこの御祭神と同じですね。そう、ここはもともと高倉神社の下宮だったそうです。
のちに独立したので、このように同じ男女の神を祭っています。

この岡湊神社は「日本書紀」に出てくる「岡の水門」にあります。
記紀に書かれている現場にやって来ましたよ。
その辺りを日本書紀から簡単にあらすじを。
仲哀天皇2年9月に、熊襲国を討つ事を決意した仲哀天皇は山口県の穴門に遷宮しました。(穴門豊浦宮)そして神功皇后もここに来るように呼び出します。

8年春1月4日にいよいよ筑紫に行幸しました。
その時、この岡湊神社の近くに住む県主(あがたぬし)の熊鰐(わに)は、天皇の行幸を聞いて、あらかじめ五百枝(いほえ)の賢木(さかき)を土から抜き取って、根の付いたまま九尋の船の舳先に立てて、上の枝には白銅鏡を掛け、中の枝には十握剣を掛け、下の枝には八坂瓊(やさかに)を掛けて、周防のサバの浦に迎えに行きました。そして魚や塩の産地を献上しました。

熊鰐の案内で天皇は外海から岡浦に入って来ますが、船が進まなくなりました。その原因が大倉主とツブラヒメの神の御心だと分かり、舵取りの倭の国の莵田の伊賀彦に祭らせると船が進みました。

一方、神功皇后は別の船で洞海湾から入って行き、後にこの岡の津で天皇と合流しました。

日本書紀には仲哀天皇が筑紫にやってくる時の様子が詳しく描かれています。
地元の熊鰐が三種の神器を船に載せて来たのなんか、大変興味深いですね。
これは熊鰐以外にも、同じような事をしたケースがあります。

仲哀天皇の船団は、熊鰐の案内で、当時島だった山鹿島の外海を経由して、
この岡の水門(みなと)に入っています。
一方、神功皇后は別の船に乗り、ルートも別で、山鹿島の内海を通っています。
女性にはより安全なルートを選んだのでしょうか。
しかし潮が引いてしまい、浅瀬に乗り上げるというハプニングが起こり、
熊鰐が再び迎えに行っています。
神功皇后が飽きないように気を配ったりしてるんですよ。
この内海は今では途中から平地になっています。

高倉神社と岡湊神社がかつて本宮と下宮の関係だったという事は、
大倉主の神とツブラヒメの神がかなり広い範囲を治めていた事が伺えます。
あとで地図を見てください。では次の御祭神を見てみましょう。

素戔嗚命
スサノオの命が祭神になった理由は、漁師の網にかかった人形が
スサノオの命の人形だったのが始まりのようです。
村長の娘の託宣によって、岡湊神社に奉納された事で、
疫病が治まったという謂われが残っていました。
そこで、この町では人形(ひとがた・にんぎょう)を大切にしていて、
女の子が生れると団子雛を作り、男の子が生まれるとワラの馬を作ってお祝いします。

c0222861_171247.jpg

芦屋歴史の里(歴史民俗資料館)にて撮影
八朔の馬」と言い、ワラで作った馬に旗が付けられています。
その旗には織田信長や武田信玄などの名前が書かれていました。
中には漫画家の吉田直などの名前も。故吉田直氏はこの町の出身で、
「トリニティ・ブラッド」「ジェノサイド・エンジェル 叛逆の神々」が代表作です。

あしや人形感謝祭
人形(ひとがた)に災厄の身代わりとなってもらうことを感謝する行事として
「あしや人形感謝祭」がこの神社で毎年4月29日に行われています。
平成18年には、人形が大活躍するアニメ「RozenMaiden」のキャラクターが
ポスターに登場。原作者の「PEACH-PIT」さんをはじめ、
延べ3000名近くの来場者があったそうです。楽しそうですね。
海から現れた人形に助けられた里人が人形を愛する伝統は、
現代もこのように感謝祭として引き継がれています。

なんじゃもんじゃの木
この祭りの季節には「なんじゃもんじゃ」の花も咲くとか。
「なんじゃもんじゃ」とは「ヒトツバタゴ」と言う名前のモクセイ科の木の事で、
花が咲くと雪が積もったように真っ白になります。
長崎県の壱岐の島が有名で「海照らし」とも呼ばれています。
そんな不思議な名前の木は壱岐にしかないと思っていたので、
地続きのこの神社に見つけたのは幸運。花の季節に来なくっちゃ。
では残りの御祭神です。

天照皇大神 神武天皇
天照すめ大神と書いてあるので、天皇家の御先祖の神々という事になります。
神武天皇もその一人ですが、前回近くの「神武天皇社」で書いたように、
第二次世界大戦で神武天皇社が焼失したために、
こちらの神社に御神体が移されて祀られています。

***

ここは記紀に描かれる地を味わえるとともに、
感謝祭や山笠など、人形を大切にする伝統が息づいていました。
三里の松原や千畳敷き・縄文遺跡などの楽しみも沢山あり、
何度か訪れて、踏破したい町です。また戻って来ますね~。


日本書紀の歴史を歩く 遠賀郡 ブログ内のお散歩コース

高倉神社 福岡県遠賀郡岡垣町高倉
       (1)日本書紀そのままに残る古社
         神功皇后の船を止める男女の二神の宮
       (2)弥生の風景そのままに
         伊賀彦は水銀産出の国から来て、ここに留まった
       (3)草薙の剣を取り戻して造られた7振りの剣から
         江戸時代までは八剣神社とも呼ばれていた
神武天皇社 福岡県遠賀郡芦屋町
       イワレビコ命はここから東征を始めた?


地図 岡湊神社 神武天皇社 高倉神社


さてさて、海中から現れたスサノオの神像の御縁でしょうか、
次回は漂着物のお話です。
みなさん、海で拾ったお宝、どうしてますか?




気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2011-01-27 17:17 | 神社(オ) | Trackback | Comments(0)
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31