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カテゴリ:正八幡神社・しょう・田川郡( 1 )

正八幡神社・田原麿は仲哀天皇の熊襲征伐に馳せ参じた


正八幡神社
しょうはちまん
福岡県田川郡川崎町大字田原字宮山894
田原麿は仲哀天皇の熊襲征伐に馳せ参じた


飯塚から山越えをして田川へ。95号線を下って川崎町へ入りました。
正八幡宮は近いはずなのに、地図が上手く読めずに行ったり来たり。
川を見ると向こう岸にこんもりとした森があったので、
とにかくその森を目指して路地を入って行くと、突き当りに神社はありました。
一の鳥居は川に向いて立っていたので、
なるほど、車では見つけにくい位置にありました。

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一の鳥居を撮っている私の後は川です。

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ニの鳥居。広々とした境内に木陰が心地いい。

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その先にお城のように堂々とした社殿がありました。

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石段を上ると、大きな拝殿に出ました。

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参拝を済ませて振り返ると楠の巨木。
ほんの少し高台にあるだけで、とても視界がいいです。

田原麿
この神社に来た目的は「田原麻呂」ってどんな所に住んでたのか知りたかったから。
「タバラマロ」と読みます。
田原麿仲哀天皇が三韓征伐に向かうと聞いて
この遠賀川の奥まった地域から参戦したんです。
どんなつながりがあったのかも知りたかった。

川崎町誌から
祭神 応神天皇・仲哀天皇・神功皇后
由緒 社伝。神功皇后が三韓の遠征から都に帰る途中、穂波郡大分(だいぶ)で軍隊を解散して将士を郷里に帰らせたとき、その中に田原麿という人がいた。この人は正八幡近くの城山に居を構え、この一帯を領していた。

そののち貞観18(876)年のこと、田原麿の子孫、田麿という人が、神託によって宇佐宮から神霊を勧請した。その神託は次のようなものである。

田川郡位登郷の楠の森は、我が母・香椎明神(神功皇后)が三韓に出兵したときに従ったときに田原麿が住んでいるところである。我はこれにちなんで、穂波の本宮(筑穂町大分八幡宮)に行き通うたびに休息し、また宿るところであった。なんじ田麿、我のために宮を造ってまつれば、我はそこに鎮まって領民の安穏を願うものである。

神殿の梁の下に弘和年(南朝年号、1383)にこの地に移して再建したと記している。古宮の地は村の東にあった。

この社伝には「田原麿と田麿」という、時代が違う二人が出て来ます。
時間順に並べ直してみると、
田原麿は近くの城山(もしくは位登郷の楠の森)に住んでこの地を治めていたが、神功皇后の三韓遠征の時に遠征軍に従って行って,(2年後には)戻ってきた。

それから600年以上経ってから、子孫の田麿に神託があった。それは応神天皇の神霊からのもので、「神霊は宇佐八幡宮から本宮の大分八幡宮に行き通うたびに、母と田原麿の縁にちなんで、旅の途中に位登郷の楠の森で休息していたが、自分のために神殿を建ててくれたら、領民を守護しよう」という内容だった。

そこで宮を建てて、のち1383年に現在地に遷宮した。

という事になりました。なるほどですね。

田原麿は「神功皇后の三韓征伐」に参戦となっていますが、
そもそもは「仲哀天皇の熊襲征伐」なんですね。
最近思うのは、神功皇后の人気の高さに、仲哀天皇は影に隠れてるなってこと。

美人のお妃さまが人気なのは昔も今も同じで、
英国王室なんか、チャールズ皇太子より、亡きダイアナ妃の方が
多く語られてる。

この仲哀天皇の熊襲征伐も、仲哀天皇の崩御ののちは、
神功皇后の新羅攻撃に実態が変わってしまって、
後世の人は皇后の三韓討伐にしときましょというムードになったみたい。

新羅だって時代からすると違うみたいだし。ホントややこしい。

大分八幡宮って何なのだ?
さてこの社伝で興味を持ったのは、宇佐八幡宮の祭神の応神天皇の神霊が、
大分八幡宮へ通っていたという事。

大分八幡宮は筥崎八幡宮の元宮であり、宇佐八幡宮の本宮でもある」

とても重要なお宮だという事が次第に分かってきたのですが、
大分八幡宮って遠賀川流域の奥まった所で、
地形的に何が有利だったのか、今だに分からない。

奥まり過ぎて、中国や韓半島などの海外との交流から取り残されて、
時代の発展の流れから、はずれそうな印象なのです。
しかし筥崎宮の古地図を見ると、そこから大分宮への道が示されていたりする。
いろんな所から大分宮に視線が集まっている。何でだろう。

神功皇后の軍勢はその大分宮で解散しています。
この正八幡宮は、この時解散したメンバーの一人の名前が
具体的に残っているという点で、とても驚きかつ喜んだ神社でした。

川崎の杖楽
案内板を見ると、この正八幡宮には有名な杖楽がありました。
県指定無形民俗文化財
川崎の杖楽(つえがく)

鎮西八郎為朝が久寿元年(1154年)に豊後臼杵から田川郡勾金の南大原に遷り、鎮西原城を築き、豊前の国に君臨した当時、正八幡宮の御神徳に感じ、杖、神通鎌四十八手の技を正八幡宮の社前に奉納し、武運長久と源家の興隆を祈念したのが田原正八幡宮杖楽の起源であるという。

毎年の神幸祭に当り、お庭借り神事の後、男子数十名が白鉢巻、白たすきの勇壮な姿で四十八手を次々に奉納する。神通鎌は久安年間に鎮西八郎の寄進したものという。
杖楽殿は鎮西八郎が武門の技を神前に奉納した時、建立したもので、その後、幾変遷かあって今日に至るものである。
    昭和55年10月吉日
福岡県教育委員会 川崎町教育委員会 杖楽保存会

八幡さまという事で武門の信仰が厚く、今なお伝統が残されています。
杖楽 四十八手か。いいなあ。
川崎に生まれた少年たちはこんな素晴らしい武道を体験できるんですね。

お祭りの写真は
ふくおか民俗芸能ライブラリー
http://www.fsg.pref.fukuoka.jp/e_mingei/detail.asp?id=84-9

に出ています。

地図 正八幡宮 大分八幡宮 宇佐八幡宮 筥崎八幡宮






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by lunabura | 2011-07-18 22:40 | 正八幡神社・しょう・田川郡 | Trackback | Comments(6)
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