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カテゴリ:若八幡神社・わか・田川市( 5 )

 若八幡神社(5)女神たち 神夏磯媛と速津媛

宇佐・安心院トレッキング(5) 

 若八幡神社(5)
女神たち 神夏磯媛と速津媛


今朝、目覚めながら「彦山川よ」というマーサの声が蘇りました。
  そうか。彦山川が流れていたんだ。

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それは、旧道を峠越えして若八幡神社に辿りつくかなと不安になった頃でした。
車は大きな川に出ました。
その時、マーサが「彦山川よ。最近来たばかり」と言ったのです。
それから、間もなく若八幡神社に着きました。

祭神はこの地区を開発したという神夏磯媛
神夏磯媛が香春岳の向こうにある採銅所とはどう関わったのか謎のままでしたが、
この言葉で謎は解けました。
川がヒントでした。

地図 若八幡神社 金辺川 彦山川 採銅所




若八幡神社の前には金辺川が流れているのですが、それが彦山川と合流するのです。
古代の道のメインは川です。
二つの川の合流点を押さえる事は銅の道を支配する事になるのです。
香春岳の銅は二つの川を下って響灘沿岸へ、
あるいは銅の道を通って春日市へと運ばれて行ったのです。
ここは古代の要衝の地でした。

地図 香春岳 若八幡神社 鏡山大神社



金辺川は香春岳の麓を通って鏡山大神社に通じます。
香春岳の両脇に控えた二点を押さえることは銅山を守る事でした。
神夏磯媛はそんな場所にクニ作りをしました。
しかも、たぶん不本意に。


この地区は神夏磯媛が開発したと一言書いてありますが、
弥生時代にどれほどの苦労があっただろうか、想像もつきません。


そこで、『日本書紀』から神夏磯媛が書かれた部分を抜き出してみましょう。

景行12年秋7月に熊襲が叛いて朝貢しませんでした。
8月15日に天皇は筑紫に向かいました。
9月5日に周芳(すは)のサバに着きました。

その時、天皇は南の方を見て、群臣たちに
「南の方に煙が沢山立っている。きっと賊がいるに違いない。」と言いました。
そこに留まって、まずは多臣(おほのおみ)の祖の武諸木(たけもろき)と国前(くにさき)の臣の祖のウナテと物部の君の祖の夏花(なつはな)を遣わして、その状況を調べさせました。

そこには女人がいて、神夏磯姫(かむなつそひめ)と言い、人民も大勢いました。姫は一国の首長という存在でした。

神夏磯姫は天皇の使者が来る事を知って、すぐに磯津(しつ)の山の榊を抜き取って、上の枝には八束の剣を掛け、中の枝には八咫鏡を掛け、下の枝には八坂瓊(に)を掛けて、白旗を船の舳先に立てて、迎えて言いました。

「どうぞ兵を差し向けないで下さい。我らは叛くようなものではありません。今こうして帰順いたします。ただ服従しない者たちが他にいます。

一人は鼻垂(はなたり)と言い、勝手に自分は王だと言って山の谷に集まって、ウサの川上にたむろしています。

二人目は耳垂(みみたり)と言って、しばしば略奪してむさぼり食ったり、人々を殺したりしています。御木(みけ)の川上に住んでいます。

三人目は麻剝(あさはぎ)と言い、ひそかに仲間を集めて高羽(たかは)の川上に住んでいます。

四人目は土折猪折(つちおりいおり)と言って、緑野の川上に隠れ住んで、山川が険しいのを当てにして、人民をさらっています。

この四人は要害の地に住んでいて、それぞれに住民がいて、一国の首長だと言っています。それらは皆『皇命には従わない』と言っています。どうぞすぐに攻撃して下さい。時期を逃さないで下さい。」と言いました。

そこで、武諸木たちはまず麻剝の仲間を誘いこむ事にしました。赤い上着や袴や珍しいものをいろいろと与えて、かねてから服従しない他の三人を連れて来るように言いました。すると、仲間を連れて集まって来ました。武諸木たちは彼らを残らず捕えて殺しました。

天皇はついに筑紫に入り、豊前の国の長峡(ながお)県(あがた)に着いて、行宮を建てて住みました。そこを京(みやこ)と呼ぶようになりました。

桜もちさんは、この地形から姫は行橋辺りにいたのではないかと推測しています。
のらさんは、佐波では神夏磯媛は
「美人は不幸になるから、ここには美人が生まれませんように」と言ったと教えてくれました。
(福岡なくて良かったぁ…)

神夏磯姫は天皇の使者が来ると聞いて三種の神器を船の舳先に掲げて迎えに行きますが、
これは服従の意味ではなく、正装だということが和布刈神社の社伝から分かりました。

同様に三種の神器で迎えた熊鰐五十迹手もみな天皇家を支えてきた人たちだったので、
神夏磯媛ももともと古来から支えてきた人たちと思われます。
『日本書紀』の姫のセリフは捏造でしょう。

神夏磯媛は佐波で生まれ、周防灘沿岸のクニを治める女王となったと思われます。
行橋を中心とした古墳文化の華やかさを思うと、かなりの繁栄していたことでしょう。

しかし、香春岳の近くに居を移さねばならなかった。
行橋を中心とした古墳文化の華やかさを思うと、かなりの繁栄だったことでしょう。

しかし、香春岳の近くに居を移さねばならなかった。
それは景行天皇の命令だったのではないでしょうか。
天皇は神夏磯媛の都を乗っ取ったのかも知れません。
神夏磯媛の人生は景行天皇によって狂わされたようです。


景行天皇の子供は80人と書かれています。
これが誇張だとしても、いったいどれだけの女性が天皇の意に従ったのでしょうか。

意に従って身を委ねるか、従わないか。
従わなければ死が与えられる。

葛築目(くずちめ)は殺されてしまいました。
筑紫や豊の女王たちは命懸けの選択を迫られたのです。

景行天皇の九州制覇にはその問題が常に付きまとっていたと思われます。
弥生時代、九州は女王たちの治める小さな国々が沢山あったからです。

神夏磯媛は生きる事を選んだ。
そう思っています。

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(若八幡神社 神夏磯媛を祀る神社)

さて、景行天皇の欲望については仮説に過ぎなかったのですが、
思いがけず、今朝、そらさんが、宇奈岐日女神社をブログに掲載してくれて
立証されました。
偶然だとはいえ、すごいタイミングです。

まずは、『日本書紀』の神夏磯媛の続きを読みましょう。              

冬10月に碩田(おおきた)の国にやって来ました。その国は広くて大きくて美しくもありました。そこで、オオキタと名付けました。速見の邑(むら)に着きました。女人がいて、速津姫と言いました。クニの首長でした。速津姫は天皇が来られたと聞くと、自ら迎えに出て言いました。

「この山に大きな石窟があり、ネズミの石窟(いわや)と言います。そこに二人の土蜘蛛が住んでいます。一人は青といい、もう一人を白と言います。

また直入(なおいり)の県(あがた)の彌疑野(ねぎの)には三人の土蜘蛛がいます。一人を打猨(うちさる)と言い、二人目を八田(やた)と言い、三人目を国マロと言います。

この五人はみな力が強く、仲間も多いのですが、みな「皇命には従わない」と言っています。もし強引に召せば、兵を挙げて手向かうでしょう。

天皇はそれは良くないと思って進みませんでした。そこでクタミの邑に留まって、仮宮を建てて住みました。それから群臣たちと話し合って、
「今、一挙に大軍を投入して土蜘蛛を完璧に討とう。もし我らの軍勢の勢いに恐れをなして、敵が山野に隠れてしまえば、後の憂いとなる。」
と言いました。そうして、椿の木をツチ(ハンマーの類)に加工して武器にしました。

それから強い兵士を選んでそのツチを授け、山を穿ち、草をはらって、石室の土蜘蛛を襲って、稲葉の川上で破り、ことごとく一党を殺しました。血が流れて、くるぶしまで浸かりました。のちに時の人はその椿のツチを作った所を、海石榴市(つばきち)と言いました。また、血が流れた所を血田(ちた)といいます。

次に打猨を討とうとして、彌疑(ねぎ)山を通りました。その時、敵の矢が横から打ち込まれました。官軍の前に矢が雨のように打ちこまれました。

天皇はいったん城原(きはら)に戻って、占って川のほとりに陣を構えました。そして軍隊を整えて、まず八田を彌疑野で撃ち破りました。すると打猨は、これは勝てないと思って、「服従します。」と言いましたが、天皇は許しませんでした。打猨たちは皆、谷に身を投げて死にました。

その速津媛が祀られているのが宇奈岐日女神社です。

wikiから。
神社の名称となっている宇奈岐日女の名は祭神の中にはない。宇奈岐日女はかつて湖であった湯布院を盆地に変えた女神であると伝えられている。「うなぐ」とは高貴の巫女がうなじに飾った勾玉の飾り物の意味で宇奈岐日女は 豊後風土記に登場する当時この地を統治した速津媛(祈祷師)で景行天皇の寵愛を受けたこの媛の愛称と考えられる。
Wikipedia.ja


寵愛を受けたと綺麗事で書かれていますが、その心境はいかばかりか。
神夏磯媛も速津媛もクニの民の為に涙を呑んだ。
『日本書紀』に書かれていない女神たちの苦悩を知る事になりました。

それでも弥生の女神たちはきっと前を向いて生きたことでしょう。

宇奈岐日女神社の訪問記はブログ「空 sora そら」にあります。
http://sora07.exblog.jp/20800042
◆宇奈岐日女神社 大分県由布市湯布院町


湯布院なんですね!




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by lunabura | 2013-08-01 22:20 | 若八幡神社・わか・田川市 | Trackback | Comments(11)

若八幡神社(4)神夏磯姫の哀しみ

宇佐・安心院トレッキング(4) 

若八幡神社(4)
神夏磯姫の哀しみ

日若神社から神武天皇などが山越えしたように、
私たちも山越えをするのですが、ナビが二つの道を示したので、
麓の道は古い道だろうと選んだところ、これがやたら狭い道で、
住宅街の中をくねくねと登るような大変な道でした。

ロスタイム20分は間違いなしと気にしたのですが、そこを抜けると夏吉に出ました。

「夏吉」こそ、夏羽が焼き殺されたために「夏焼」という地名になったのを
江戸時代の殿さまが好字に換えてくれたところ。
そこには若八幡神社があります。

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左の緑の丘が若八幡神社。主祭神は神夏磯媛(かむなつそひめ)。
神夏磯媛は夏羽から見たら、母か祖母に当たると思っています。
正面の山が香春岳の三山です。

さて、るなにはよく分からない謎がありました。
神夏磯姫は夏吉地区を開発した女神なのだけど、
採銅所は香春岳の向こう側にあるので、
姫が銅開発に関わったのかどうか、分からないままなのです。

多分、神夏磯姫は佐波出身の姫で、景行天皇に無理矢理、
この地域の長に据えられたのだろうと考えるようになっています。

景行天皇は筑紫の女王たちを複数、殺しているらしく、
夏羽の妹の田油津姫の終焉地とされる山門郡(みやま市)では、
葛築目(くずちめ)という女王を殺しています。

神夏磯姫が景行天皇をまつろわなかったら、
多分、葛築目と同じ目にあっていたことでしょう。

そんな背景があるから、夏羽は朝廷に恨みを持ったし、
田油津姫は神功皇后を暗殺しようとした。

『日本書紀』に、神夏磯姫が他の土蜘蛛を景行天皇に訴えたように
書かれているのは、男性社会による捏造であって、
真実はそんなものではなかったと思っています。
きっと姫は真実を知ってほしいと思っていることでしょう。

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この日は参拝する時間がなく、鳥居前でおいとまです。

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ほどなく香春岳三山が見晴らせる場所へ。
一の岳は何とも無残です。
地元の人が麻生セメントに山を売却した時、
まさか山そのものを削り取るとは思わなかったらしいです。
そうだよね。山を売ると言ったら、普通は表面の木を売ることを意味しているもんね。

さて、香春岳の周囲に並ぶ三つの宮。
若八幡神社と香春神社と鏡山大神社
この三つを結ぶルートを走ってみれば、何か分かるかもしれない。

ということで、まだ参拝していない香春神社に行く事にしました。
目指す神社は一の岳の麓にあります。
車は集落の中に入って行きました。   (つづく)

下は過去記事です。

若八幡神社
http://lunabura.exblog.jp/i138/

若八幡神社(1)妹を殺された夏羽は…日本書紀の続きが伝えられていた
        (2) 神夏磯媛と香春岳と新羅
        (3)夏羽と田油津姫は


鏡山大神社http://lunabura.exblog.jp/16767388/

神功皇后は御霊を鏡に鎮めた

老松神社(みやま市)
http://lunabura.exblog.jp/16895784/

老松神社と蜘蛛塚・女王塚と呼ばれていた古墳ー被葬者は田油津姫か葛築目か




地図 若八幡神社



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by lunabura | 2013-07-31 21:01 | 若八幡神社・わか・田川市 | Trackback | Comments(6)

若八幡神社(1)妹を殺された夏羽は…日本書紀の続きが伝えられていた


若八幡神社(1)
福岡県田川市夏吉
妹を殺された夏羽は…
ここには日本書紀の続きが伝えられていた


日本書紀の神功皇后の巻にこう書いてあります。
20日にソソキ野に着いて、すぐに兵を挙げて羽白熊鷲を討って滅ぼしました。皇后は側近に語って、「熊鷲を討ち取った。これで私の心は安らかだ。」と言いました。それから、そこを名付けて安(やす)と言うようになりました。

25日に移動して山門県(やまとのあがた)に着いて、即座に土蜘蛛の田油津姫(たぶらつひめ)を討ち取りました。その時、田油津姫の兄の夏羽(なつは)が軍勢を興して、迎え討ちに来ました。しかし妹が殺された事を聞くと、そのまま逃げました。

この話の舞台は福岡県の筑後地方です。
地元の伝承と日本書紀をまとめるとこうなりました。

仲哀天皇が殺された後、神功皇后軍は20日から羽白熊鷲と戦って勝利を収めた。
そして25日には田油津姫を攻撃するために小郡市上岩田の老松神社に布陣した。

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青い陣営の内、中央にあるのがその老松神社です。

わずか一週間で二か所の敵を攻撃するのですから、
神功皇后を旗頭に据えた物部軍の勢いはすさまじいものです。
天皇を殺された怒りと屈辱に護衛隊は怒髪天を突くという状態です。
御勢大霊石神社の伝承によると、
仲哀天皇は「熊襲」の流れ矢に当たって死んでいます。
「熊襲」については付近に伝承が見つからないので、
「熊鷲」の事ではないかと私は思っています。
だから、羽白熊鷲を猛攻撃するのに躊躇が無かった訳です。


でも、どうして?
どうして田油津姫までも攻撃されなければならなかったの?
老松神社がその時の陣営だと知った時、新たな謎が生まれました。

それについて日本書紀には何も書いていません。

しかし思いがけず疑問はわずか二日後に解けました。
この若八幡宮にその原因と結末が伝わっていたのです。

それではまずは神社に行きましょう。
ここは田川市夏吉。
気持の良い田園地帯を走ります。

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川の向こうにこんもりとした杜があって、すぐに分かりました。
一の鳥居は川に向かっていました。道路拡張の為に少し下がったそうです。

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かなり古そうな趣です。

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杜の緑陰の深さが、歴史の古さを思わせます。

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すぐに拝殿に出ました。
まるで江戸時代の寺子屋か武道場のような趣で、
大勢で参籠出来るような造りです。


この神社の由緒書きは一の鳥居の所に大きく立てられていました。
それを読んで驚愕。
人皇第12代景行天皇の熊襲征伐に際し、天皇を周防の佐波(今の防府市)まで出迎え、九州平定に寄与されたのが我が夏吉地域開発の祖神、神夏磯姫でした。

「榊の枝に八握剣、八咫鏡、八坂瓊をとりかけ、船の舳先に素幡をたてて参向した」と日本書紀には記されています。

年代は下がって、姫の後裔夏羽は朝廷に恨みを持ち、神功皇后の暗殺を企てた妹、田油津姫を援(たす)けんと軍勢を催してかけつける途中で、妹の敗戦を知り逃げ帰って館に立て籠ったところを、追って来た皇后の軍勢に焼き殺されました。(岩屋須佐横の洞窟との説もある)

それ以来、夏羽焼―夏焼とこの村が呼ばれる事になったのです。

夏羽(なつは)はこんな遠い所に住んでいた!
しかも、神夏磯姫(かむなつそひめ)の末裔だって?
あの景行天皇を迎えに行ったのはここからだった?

それに加えて田油津姫は神功皇后を暗殺しようとした?
何故?どこに二人の接点はあるというのか?

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(つづく)

御勢大霊石神社

老松神社




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by lunabura | 2011-07-26 00:34 | 若八幡神社・わか・田川市 | Trackback | Comments(4)

若八幡神社(2) 神夏磯媛と香春岳と新羅


若八幡神社(2)

神夏磯媛と香春岳と新羅

この神社の伝承を読んで疑問だらけになってしまいましたが、
まずは御祭神を調べましょう。
神夏磯媛(かむなつそひめ)
仁徳天皇
応神天皇
神功皇后
小笠原忠眞命(おがさわらただまさのみこと)

祭神は本来は「神夏磯姫」を祀っていたのが、
子孫の夏羽たちの怨霊鎮めの為に八幡神が勧請されました。

今回はこの神夏磯媛と夏羽の二つの時代を考えてみます。

景行天皇と神夏磯媛の時代
主祭神の神夏磯媛について、日本書紀の景行天皇の巻で確認しましょう。
9月5日に周芳(すは)のサバに着きました。その時、天皇は南の方を見て、群臣たちに「南の方に煙が沢山立っている。きっと賊がいるに違いない。」と言いました。

そこに留まって、まずは多臣(おほのおみ)の祖の武諸木(たけもろき)と国前(くにさき)の臣の祖のウナテと物部の君の祖の夏花(なつはな)を遣わして、その状況を調べさせました。

そこには女人がいて、神夏磯姫(かむなつそひめ)と言い、人民も大勢いました。姫は一国の首長という存在でした。神夏磯姫は天皇の使者が来る事を知って、すぐに磯津(しつ)の山の榊を抜き取って、上の枝には八握の剣を掛け、中の枝には八咫鏡を掛け、下の枝には八坂瓊(に)を掛けて、白旗を船の舳先に立てて、迎えて言いました。
「どうぞ兵を差し向けないで下さい。我らは叛くような者ではありません。今こうして帰順いたします。ただ服従しない者たちが他にいます。

一人は鼻垂(はなたり)と言い、勝手に自分は王だと言って山の谷に集まって、莵狭(うさ)の川上にたむろしています。
二人目は耳垂(みみたり)と言って、しばしば略奪してむさぼり食ったり、人々を殺したりしています。御木(みけ)の川上に住んでいます。

三人目は麻剝(あさはぎ)と言い、ひそかに仲間を集めて高羽(たかは)の川上に住んでいます。
四人目は土折猪折(つちおりいおり)と言って、緑野の川上に隠れ住んで、山川が険しいのを当てにして、人民をさらっています。

この四人は要害の地に住んでいて、それぞれに住民がいて、一国の首長だと言っています。それらは皆『皇命には従わない』と言っています。どうぞすぐに攻撃して下さい。時期を逃さないで下さい。」と言いました。

そこで、武諸木たちはまず麻剝の仲間を誘いこむ事にしました。赤い上着や袴や珍しいものをいろいろと与えて、かねてから服従しない他の三人を連れて来るように言いました。すると、仲間を連れて集まって来ました。武諸木たちは彼らを残らず捕えて殺しました。

天皇はついに筑紫に入り、豊前の国の長峡(ながお)県(あがた)に着いて、行宮を建てて住みました。そこを(みやこ)と呼ぶようになりました。
                    
これを読むと、この神夏磯媛のクニの周辺の山岳地帯に
四つほど小国があった事が分かります。
高羽は田川で、莵狭は宇佐だといいます。

まつろわぬ者たちが山岳地帯に住んでいるのは、
鉱山を中心に集落を作っていたのがクニとして発達したのであって、
彼らが人をさらうのは、鉱山の働き手を確保するためだと思っています。
事故が多いため、里人を拉致して働かせるのが手っ取り早い。

景行天皇が来たといっても、彼もまた小国の首長なので、
服従する気などさらさらなかったでしょう。

各国それぞれに鉱山を持っていて、それなりに均衡がとれていた時代に、
神夏磯媛だけが景行天皇に帰順した していたという状況です。
それでは神夏磯媛はどんな鉱山に関わっていたかというと、
この若八幡宮の前に立てば一目瞭然でした。

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神社の鳥居の向こうに、香春岳があったのです。
香春岳と言えば、先に書いたように銅山です。

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これは香春岳の全容です。
右の台形に削られた山が一の岳。祭神は辛国息長大姫大目尊
中央が二の岳。祭神は正哉吾勝々速日天忍骨尊
左が三の岳。祭神は豊比売尊。銅はこの三の岳から採れます。

香春岳の銅山は「辛国(からくに)」が象徴するように、
新羅系渡来人が開発したと伝えられていて、
その末裔に神夏磯媛の系統があった可能性は高いと思います。
神夏磯媛は彼女なりにクニの安泰化を図って天皇に帰順し、
豊かな国造りをしました。
これが景行天皇の時代です。

仲哀天皇と夏羽の時代
次にやって来た仲哀天皇は景行天皇の孫にあたります。
夏羽田油津姫兄妹も神夏磯媛の孫か曾孫に当たるのでしょう。

仲哀天皇と神功皇后が筑紫入りしたあと、この一の岳の向こう側に廻って、
鏡山大神社で鏡に皇后の御魂を鎮めて祀ったと伝えられています。
彼女が奉納するのは大体は銅剣などの武器ですから、よほど重要な山です。
他に鏡を奉納した所は、今のところ私が知っているのは唐津市の鏡山稲荷神社です。
(どちらにも白石信仰があります。)

神夏磯媛の時代は景行天皇が来ても、何とか丸く収めて、
この銅山の実質的な権利をそのまま継承して朝貢で済ませていたのが、
今度は仲哀天皇が来て銅山の権利や朝貢額を確認した上、
今度の戦争への負担を要求されたと思います。

この時応対したのが、夏羽だと思われます。
この時、夏羽側に不利で納得出来ない交渉があったと考えました。
ポイントは仲哀天皇の皇后もまた新羅の王統の血を引いているという点です。
その御霊を目の前で鎮められたのですから、
夏羽側は良い思いはしなかった事でしょう。

銅山経営者から見たら、仲哀天皇は利潤を掠め取るような存在です。
田油津姫がこの現場にいたかどうかは不明ですが、
神功皇后を暗殺しようという気持ちが生じたとしたら、
この香春岳についての利権の問題が絡んでいると考えられます。

田油津姫の暗殺未遂現場として、
「古賀市の小山田斎宮であり、そこで捕えられて殺された」という伝承もあります。
小山田斎宮と言えば、神功皇后が一週間祈祷をして神意を尋ねた所です。
ここに田油津姫がいたとしたら、かなり近しい関係になります。

小山田斎宮で殺されたとすると山門での田油津姫討伐は無いことになります。
山門での戦いの伝承もまた、かなり濃厚にあるので、
仮に暗殺未遂事件が小山田斎宮で起こったとしても、
彼女は山門に逃げて、そこが戦場になったと想像しています。

考えてみると、神夏磯媛から田油津姫にかけての時代は、
佐波から山門まで、かなり広い地域に影響力が及んでいた事になります。

物部氏と土蜘蛛たち
物部氏の分布図に「夏羽と熊鷲と田油津姫」を重ねてみました。
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赤い丸が物部氏です。黒い■が夏羽や熊鷲たちです。
こうして地図を眺めていると、
物部氏は遠賀川や筑後川流域で発展していき、隕鉄やスズ鉄を生産していたのが、
川が堆積して陸化して行ったために原料確保が出来なくなって行き詰まり始めた
状況が読み取れます。

一方神夏磯媛や鼻垂、耳垂、麻剝、土折猪折、羽白熊鷲たちは
山の方に住み分けして金や銅を生産し、
あるいは買い付けた鉄原料などを鍛冶生産していました。

川が陸地化して行く事が両者のバランスを崩し、
軋轢が大きくなって行った原因の一つになったと思われます。

しかも、韓半島ではすでに鉄鋼石を製鉄する時代に入っていて、
どんどん鉄製品が流通していきます。
庶民の農機具まで鉄製品になって行きます。
その人たちの一部が筑紫に入って来る時代です。

その韓半島では、紀元1世紀の首長の中には、
古墳の床に鉄の延べ板をびっしりと並べる者まで現れました。
(慶尚北道 舎羅里(さらり)130号古墳)

鉄は貨幣の代わりを成すようになり、
あらたな経済の枠組みが生まれようとしていました。
神功皇后が奉納して廻った青銅の武器は時代遅れになろうとしていました。

そんな時代の変化のうねりの中で、夏羽と田油津姫は殺されました。
倭国が香春岳の支配権を新羅から完全に断絶したとなると、
新羅本国との戦いは避けられない状況が生まれて来ます。
それまでにも豊浦宮では、仲哀天皇が新羅の襲撃を受けている事も
忘れてはなりません。

夏羽が妹を助けるために軍を起こした事は
物部軍に夏羽討伐の格好の口実を作ってしまいました。
そして夏羽軍が滅びた事は、天皇家の筑紫~筑豊の金属生産の
完全制圧という結果をもたらしました。
そして視線は海を越えて鉄の豊かな韓半島へと向けられました。

仲哀天皇を亡くして暴走する物部軍をもう制する事は出来ない。
神功皇后は新羅攻撃を拒否できない状況に立たされました。
このあと、神功皇后は筑紫の西の方の那珂川町へと連れられて行きます。
(現人神社、裂田神社・伏見神社)

(注。仲哀天皇9年を西暦200年として考えています。新羅がまだ辰韓だった時代です。
新羅は「社局」が母胎だと言われています。)

参考
舎羅里(さらり)130号古墳 紀元1~2世紀
新羅の母胎「社局」の近くで発掘された慶尚北道「舎羅里(さらり)130号古墳」
の記事と副葬品(韓国のサイトです。)
鉄の延べ板が63枚敷き詰められている。
 http://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&langpair=ko%7Cja&u=http://www.yeongnam.com/yeongnam/html/yeongnamdaily/culture/article.shtml%3Fid%3D20100526.010200807020001
(つづく)




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by lunabura | 2011-07-25 16:22 | 若八幡神社・わか・田川市 | Trackback | Comments(20)

若八幡神社(3)夏羽と田油津姫は


若八幡神社(3)

夏羽と田油津姫は

さて、神社の由緒に戻りましょう。

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後に、夏羽の亡霊の祟りを鎮める為に、宇佐より八幡宮が勧請されましたが、(光仁年中1173~4年前)今の大宮司屋敷から現在地に鎮座されたのは慶長13年2月3日(375年前)の事です。

う~。夏羽は亡霊になったんだ。宇佐から八幡宮を勧請か…。
夏羽、納得したんだろうか…。八幡って、仇だよ。

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これは別の所から見つけた由緒書き。
この田川郡誌の中に、夏焼村は夏羽及び田油津姫の霊が崇りを成すので、最澄が香春宮参籠の折、八幡大神ニ座及び若宮を創造して神夏磯姫と合祀し奉り、六ヶ寺(慈光寺、竹林寺、恵光寺、当光寺、本台寺、安明寺)を置き、祭祀を司からしめたところ、怨霊が鎮まったと言うことである。

田油津姫も一緒…。
最澄がこの二人を鎮めたんだ。ここの近くの香春宮で参籠してる。
祖先の神夏磯媛と合祀して、六つもの寺で供養されて、鎮まったんだ。

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神社の由来書に戻ります。
現在は仁徳天皇(応神天皇の若宮)を合わせ祭る為に「若八幡」と、となえますが、これは平清盛が香春岳鬼ケ城の守護神として平家の氏神、仁徳天皇の神霊を京都の平野神社より香春岳の中腹に祭り、その後、いかなる理由でか当社に鎮座されたのです。

へえ~。平清盛も香春岳を重視してたんだ。
仁徳天皇を祀ったのが、合祀されたんだ。
「いかなる理由でか」という気持ちもわかるな。仇同士だもんね。
郡誌の方では、合祀したのは最澄だったみたいだけど…。

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江戸時代、小笠原藩祖・忠真公の巡国の折り、当社に参詣され、困窮のどん底にあった村民を救うため、色々の施政をされると共に、不吉な夏焼の村名を夏吉と、改称されました。

この夏焼の人々は首長が殺されてから、困窮してたんだ。
忠真公が施政をして、名前も夏吉と改称してる。
なるほど。名前は大事だよね。

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村民は以後の繁栄を感謝し、公の逝去の後、若八幡宮の相殿に公の神霊をお祭りして来ましたが、享和元年(182年前)朝廷に願い出て、輝徳霊神の神号と霊璽とを頂いたのです。当社の神紋が小笠原家の家紋と同じ三階菱であるのは以上の理由によります。   宮司 原田丈路  謹識

よかった。
政治をするって、こんな風にありたいものだな。

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鳥居の向こうには豊かな水田が広がっていました。



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by lunabura | 2011-07-24 19:55 | 若八幡神社・わか・田川市 | Trackback | Comments(2)
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